玉川上水に沿って三鷹まで散策したときの思い出をそのときの写真を見ながら。
2008年12月に三鷹駅前のコラルで太宰治展が開催されていたときです。
井の頭線富士見ヶ丘駅下車。
南側に進み、中央高速手前を右折していくと、玉川上水が暗渠になる場所に至る。ここから玉川上水に沿って上流に向けて歩く。
以前にも通ったことがあるが、紅葉のためかなり印象が違う。柿の木などがあったりして田園の風景である。
やがて新橋に至る。この付近が太宰の遺体が発見されたところである。
井の頭公園の紅葉を見てから少し歩くと万助橋である。ここから三鷹駅前までまっすぐに道路が延びている。
その脇に玉川上水に沿って歩道があるが、上水の樹々が調和してよい散歩道となっている。
駅前から太宰治展に行く。
太宰は昭和14年(1939)1月に石原美知子と結婚した後、同年9月に三鷹に転居している。
昭和23年(1948)6月に亡くなるまで疎開のための一時期を除いて三鷹に住み続けた。
わたしは太宰治を20代前半の一時期によく読んだ。熱中し、1冊読み終えるとすぐに次は、という具合にして文庫本ででているものをほとんど読んだ記憶がある。わたしにとってこんなに吸引力のある作家はこれまでにもいなかった。同じことにもっと苦悩していた人がいる。太宰こそ自分を代弁してくれる。自分のことを書いている。太宰が最後の救いである。苦しんだ先にみえる太宰の苦悩。
別にいうと、太宰により一撃されて生じたこころの中の鐘の音が大きく長く止まないのである。大きく共鳴しなかなか減衰しないのである。しまいには自分でももてあましてしまう。これが大きすぎると、吸い寄せられすぎると、一生の路をも変えてしまう。
いまも太宰の命日の桜桃忌には多くの人が墓所の禅林寺に訪れるというから、たぶん太宰について似た体験をしている人は多いのであろう。
わたしの乏しい経験でも、学生時代の同級生が自死した事件があったが、失恋のためだったとしても太宰やニーチェを読んでいたらしい。太宰の影響はなかったとはいえない。
そうならなければ、どこかで多少の苦しみがあってもよい生活を送っていたに違いないなどと思うことで、麻雀を教えてくれた同級生を懐かしむことがある。そして、それよりも、なぜ自死を選んだ友がいて、生き長らえたわたしがいるのか、なぜそんな違いが生じるのか。それは理不尽なことではないのか。そんなつまらぬことが次々とこころの中にわきおこってしまう。鐘の音はすでに減衰してか弱くなっているはずなのに、途切れぬ細いがかたい心線が残っていてなにかのきっかけにまた共鳴してなりだすからなのか。
今回、久々に太宰を読んでみた。満願、富嶽百景、駆込み訴え、走れメロス、東京八景、ヴィヨンの妻。最後のものを除いて結婚前後の安定した時期のものであるが、いずれもよい作品である。
「駆込み訴え」は、「申し上げます。申し上げます。旦那さま。あの人は、酷い。酷い。はい。厭な奴です。悪い人です。ああ。我慢ならない。生かして置けねえ。」で始まるユダの独白である。ユダの一人語りにぐいぐいと引き込まれて一気に読んでしまう。これを太宰は、夫人に口述筆記させながら、淀みもなく、言い直しもなく、一気に語ったというから、まさに太宰はユダになりきったのである。太宰にユダが憑依したのである。太宰はユダの心をはっきりと思い浮かべて語り部のように語ったのであろう。読む側が引き込まれ一気に読んでしまうのは、太宰の語りに感応し聴き惚れるからである。これこそ天才のなせる技である。
「私には、誇るべき何もない。学問もない。才能もない。肉体よごれて、心もまずしい。けれども、苦悩だけは、その青年たちに、先生、と言われて、だまってそれを受けていいくらいの、苦悩は、経て来た。たったそれだけ。藁(わら)一すじの自負である。」(富嶽百景)
こういったところに太宰らしさがでる。太宰の最後の矜持である。この時期、苦悩はこれで終わったかのようであるが、しかし、戦後になると、そうではなくなるようだ。「人でもいいじゃないの。私たちは、生きていさえすればいいのよ」。昭和22年(1947)にでた「ヴィヨンの妻」の最後のせりふだが、これがひっくり返るのである。容易に反転するのである。--人ではいけない。私たちは、生きていくことができない--はじめから決まっていたかのように。
(続く)