東京さまよい記

東京をあちこち彷徨う日々を、読書によるこころの彷徨いとともにつづります

妻恋坂

2011年12月25日 | 坂道

尾張屋板江戸切絵図(小石川谷中本郷絵図) 清水坂中腹から妻恋神社 妻恋神社 妻恋神社説明板 二枚目の写真は前回の清水坂から妻恋坂へ続く道を撮ったもので、左手の樹木がある所が妻恋神社の境内である。この道は、清水坂上から東側の歩道を下り、中腹で左折して東へ延びる。この道を進むと、すぐ左手上側が妻恋神社(三枚目の写真)である。このあたりはまだ平坦である。

四枚目の写真は、文京区教育委員会による神社の説明板であるが、この神社はヤマトタケルノミコトの東征伝説がもとになっているとのこと。

一枚目の尾張屋板江戸切絵図(小石川谷中本郷絵図 文久元年(1861))を見ると、神田明神の北に妻恋(慈)神社がある。その角を右折すると、北に湯島天神へと続く道である。近江屋板、御江戸大絵図(天保十四年版)もそうなっている。

横関によれば、この神社は、明暦三年(1657)の大火後、万治(1658~1661)のころ、湯島天神町旧一丁目の辺から現在地に移って来たという。

妻恋坂上 妻恋坂上 妻恋坂上側 妻恋坂上側 妻恋神社をすぎてさらに東へ進むと、まもなく左にちょっと曲がるが、そこが妻恋坂の坂上である。まっすぐに下り、途中、四差路のところで少し右に曲がり、坂下は神田明神下から延びる大きな通りに突き当たる。坂上側では勾配が中程度でちょっと急であるが、坂下側はかなり緩やかになる。

坂下から妻恋神社までかなり距離があるが、まっすぐではなく二度ほど曲がっているため、うねりのある坂道となっている。

上記の尾張屋板には、神社のわきから東へまっすぐの道にツマコヒサカとある。近江屋板にも△ツマコイサカとあるが、道筋が坂上から見て、坂上で少し左に曲がり、途中で少し右に曲がっていて、いまと同様である。こういった部分については近江屋板の方が細かく描いている。

坂上近く北側に説明パネルが立っているが、次の説明がある。

「妻恋坂
 大超坂・大潮坂・大長坂・大帳坂と別名を多く持つ坂である。
 『新撰東京名所図会』に、「妻恋坂は妻恋神社の前の前なる坂なり。大超坂とも云ふ。本所霊山寺開基の地にて、開山大超和尚道徳高かりしを以て一にかく唱ふという」とある。
 この坂が「妻恋坂」と呼ばれるようになったのは、坂の南側にあった霊山寺が明暦の大火(1657年)後浅草に移り、坂の北側に妻恋神社(妻恋稲荷)が旧湯島天神町一丁目から移ってきてからであろう。」

妻恋坂中腹 妻恋坂中腹 妻恋坂下側 妻恋坂下 横関は、別名の大超坂について、これが本当で、他の大潮坂などは当て字であるとする。寛永(1624~1644)のころ、この坂の南側に霊山寺があったが、その開基の大超和尚の名からきている。霊山寺は、もともと、慶長六年(1601)徳川家康の命によって、駿河台の梅坂(のちの紅梅坂の辺といわれる)に創立された大寺であったという。寛永十二年(1635)、三代将軍家光の時代に、湯島に二万坪の替地をもらって移転した。この時代に、霊山寺の北わきの坂を大超坂と呼んだとする。

妻恋坂は、上記のように、明暦の大火(1657)の後、妻恋神社がこの坂の北に移ってきてからの名であるので、大超坂の方が妻恋坂よりも古い名である。

『御府内備考』には次のようにある。

「妻恋坂
 妻恋坂は妻恋稲荷社の前なる坂なり、又大超坂とも云ふよし、或は大長ともかけり、或人云、妻恋の細道の坂は享保の頃東湖和尚の築きたりしと云、【改選江戸志】又此辺に妻恋橋妻恋野などいへる古跡あるよし【江戸志】等に弁したれど、皆牽強と覚しき説なれば略して載せず」

この坂名は、いずれもその由来は明らかであり、御府内備考は、その記した説を、その後にあるように、みなこじつけであるとしている。同じく妻恋町の書上に次のようにあり、上記よりも説明が詳しい。しかし、妻恋町(坂の西側にある)へ上る坂だから自然と妻恋坂というようになったと伝えられているとあるが、俄には信じ難い。

「一妻恋坂 幅三間程、長拾三間高壹丈余、
右坂の儀は武家方持にて当時内藤豊後守様、島田弾正様、建部内匠様、黒田五左衛門様、酒井舎人様、三枝孫市様御掛りに御座候、右坂近辺黒田五左衛門様御屋敷と又は内藤豊後守様御屋敷の辺に往古寺名不知大超と申名高き和尚住居致し、明暦の大火にて類焼仕候処浅草辺え引移り候由、其砌より大超坂と申候由、尤妻恋町え上候坂を自然と相唱候由申伝候、」

江戸切絵図に、南側に坂上から島田、三枝、黒田、内藤の各屋敷、内藤邸の向かいに酒井、坂下の突き当たりに建部の各屋敷があるが、この坂はこれらの武家屋敷による武家持ち(修理などの分担)であった。

新妻恋坂 新妻恋坂 妻恋坂の南側に平行に蔵前橋通りの広い道路が通っているため、この坂はすっかりその通りの裏道となっているが、歴史的にはこの坂道の方がはるかに古い。この坂下近くの蔵前橋通りの交差点の名が妻恋坂となっている。そこから蔵前橋通りは西へ緩やかに上る坂となっているが、ここが新妻恋坂である。

一枚目の写真は、前回の横見坂下から清水坂下の交差点方面を撮ったもので、二枚目はその近くから反対の西側の坂上方面を撮ったものである。蔵前橋通りは、明治地図(明治四十年)にはないが、戦前の昭和地図(昭和十六年)にはあるので、新妻恋坂は大正から昭和はじめ頃にできたのであろう。かつての樹木谷にできた坂である。
(続く)

参考文献
横関英一「江戸の坂 東京の坂(全)」(ちくま学芸文庫)
山野勝「江戸の坂 東京・歴史散歩ガイド」(朝日新聞社)
岡崎清記「今昔 東京の坂」(日本交通公社)
石川悌二「江戸東京坂道辞典」(新人物往来社)
「嘉永・慶応 江戸切絵図(尾張屋清七板)」(人文社)
市古夏生 鈴木健一 編「江戸切絵図集 新訂 江戸名所図会 別巻1」(ちくま学芸文庫)
「大日本地誌大系御府内備考 第二巻」(雄山閣)
「古地図・現代図で歩く明治大正東京散歩」(人文社)
「古地図・現代図で歩く戦前昭和東京散歩」(人文社)

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