東京さまよい記

東京をあちこち彷徨う日々を、読書によるこころの彷徨いとともにつづります

村上春樹「走ることについて語るときに僕の語ること」

2010年07月03日 | 読書

この間、サッカーWCの日本対デンマーク戦を見ようと思って早めに寝たら、キックオフの時間よりもかなり早く眼が覚めてしまった。それで、村上春樹「走ることについて語るときに僕の語ること」(文春文庫)を読んだが、以下、それの簡単な感想である。

この本で、村上春樹は走ることが好きであることがよくわかった。いや、好きというよりも、ほとんど生活そのものといったほうがよい。毎日走ることを心がけたら、走るのはごく当たり前の習慣になったと書いている。

本格的に日々走るようになったのは、専業小説家としてやっていこうと決めた前後かもしれないと回想しているが、書くという行為と走るという行為が自身の中で分かちがたく結びついたのであろう。どちらも単調(たぶん)だが人にはいえない(いう必要のない)共通の快楽を発見したのかもしれない。

わたしは走ることはしないから走ることについてさほど興味を覚えないが、この作家の力量はそんな者でも引きつけて読ませてしまう。それでもやはり走ること以外の部分(脇道)におもわず引き込まれてしまう。

例えば、知識を身につけることについて次のように書いている。

『小学校から大学にいたるまで、ごく一部を例外として、学校で強制的にやらされる勉強に、おおよそ興味が持てなかった。・・・、勉学を面白いと思ったことはほとんど一度もなかった。』
「社会人」になってから、『自分が興味を持つ領域のものごとを、自分に合ったペースで、自分の好きな方法で追求していくと、知識や技術がきわめて効率よく身につくのだということがわかった。』

要は、自分が(本当に)やろうとしたことしか身につかないということであろう。村上はこうして翻訳技術も自己流で身につけたと語っている。ここに、学校とはなにか、教育となにか、のような深遠な問題を解決に導く重要な鍵が潜んでいるのかもしれない。

『たくさんの水を日常的に目にするのは、人間にとって大事な意味を持つ行為なのかもしれない。・・・。しばらくのあいだ水を見ないでいると、自分が何かを少しずつ失い続けているような気持ちになる。それは音楽の大好きな人が、何かの事情で長期間音楽から遠ざけられているときに感じる気持ちと、多少似ているかもしれない。』

村上はボストンに住み、チャールズ河のほとりをよく走っているようで、それの感想である。

水を見ながら走る。季節による風の向きの変化を感じて走る。村上が、自分という存在が、『川の水と同じように、橋の下を海に向けて通り過ぎていく交換可能な自然現象の一部に過ぎないのだ』というとき、それは、水と風を感じながらスピードにのって走り、それにより水や風などの自然と一体化し自然の一部となること、そして、その恍惚感をあらわしているのだ。

この本にチャールズ河の写真が載っているが、河畔によさそうなランニングコースが続いているようである。コンクリート護岸などないようで、きわめて親水的な風景が写っている。この多湿多雨な極東の地域とは風景が違っているようである。

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