今年に入ってから、かつての桃園川の源流に向けて遡り、次の2つの記事にした。
そのあと、雲一つなく晴れわたっているがかなり寒い日、桃園川支流緑道を歩き、その帰り、水路跡と思われる小路を歩いた。
以下の地図は、天沼弁天池を水源とする桃園川の上流域を示し、出典は前回と同じだが、トリミング範囲が異なる。
(1)一枚目:昭和12年(1937)の杉並区地図
(2)二枚目:昭和10年(1935)頃の杉並区地図
(3)三枚目:昭和24年(1949)の杉並区地図
(4)四枚目:1962年(昭和37年)の杉並区地図
(5)五枚目:桃園川緑道脇に設置の緑道地図
地図(1)の中央左下、地図(2)の左上に日本大学幼稚園があるが、このちょっと右(東)あたりで、左(西)から流れてきた桃園川本流から支流が北へ分流している。桃園川緑道源流遡行(1)で支流1とした水路である。この支流は北東へ東へと流れ、松山通り(現在の中杉通りと西側で並行する)を本流の北側で横断してからも東へ向かっている。
地図(3)には松山通りから西へ延びる水路は示されていない。地図(4)に松山通りの本流の北に西へ延びる水路があるが、途中までで、本流と接続していない。緑道地図(5)には地図(1)(2)と同じく本流と支流があるが、その分岐点が地図(1)(2)よりも西側である。
今回歩いて、現在の支流緑道は地図(4)に示す水路と近いような気がした。
JR阿佐谷駅の北口から出て、中杉通りの歩道を北に向けて歩きはじめる。ちょっと緩やかな上り坂であるが、まもなく下りになる。ちょっと下ると、前回の車止めのある小路が見えてくる。このあたりから振り返ると、南側はちょっとした丘のようになっていることがわかる。
中杉通りの歩道から左折しこの小路に入り、直進すると、松山通りで、そこから前回の桃園川緑道が本格的にはじまるが、ここを右折し、松山通りを北へ向かう。ほんのちょっと歩き、煎餅屋の北側脇を左折すると、車止めがあり、緑道がはじまる。その西の上流側に延びる緑道を撮ったのが一枚目である。
この緑道は、地図(4)に示されている支流跡と思われ、地図(1)(2)の支流跡と途中から同じ流れと推測される。
上流側の西に向けて歩くが、大きな曲がりはなく、ほぼまっすぐな緑道になっている。二~五枚目、下の一~五枚目は順に撮ったものである。
歩いてすぐにわかるが、この緑道には道の中ほどに常緑樹がほぼ一定間隔で植えられている。これがずっと続き、この緑道の特徴になって、緑道らしさをかもし出している。下五枚目のように、ブナ科のマテバシイで、公園などでもよく見る高木の樹木である。
やがて、突き当たりに至り、ここでこの支流緑道は終わる(五枚目)。松山通りの緑道入口から5~6分程度であった。
この支流と思われる地図(4)の水路は、途中で急に曲がり北上し、その先で途切れている。現在の支流緑道の終点は、地図(4)と比べると、その北上する地点と一致せず、そのちょっと東側のようである。
緑道の突き当たり手前に小路があったので(一枚目)、ここを通り抜けて北側に出て、左折し、次を左折し、慈恩寺の前をちょっと歩くと、前回の本流緑道に出た。この緑道を上流側に歩き、次の車止めで右折すると広い通りに出る。ちょっと北に歩くと、小さな公園風の一角があり(現代地図)、区画整理記念碑や石塔が並んでいる(二、三枚目)。
四枚目の説明板によると、これらの石塔は、江戸時代の民間信仰による庚申塔、地蔵塔、百番観音供養塔で、桃園川周辺、熊野神社際の路傍にあったが、区画整理の際にここに移転された。二枚目の記念碑は区画整理が完了した昭和13年(1938)に建立された。
この後、本流緑道を上流側に歩き、日本大学附属幼稚園のあたりまで行ったが、地図(1)(2)の本流と支流の分岐点についての痕跡はなにも見つからなかった。ただ、このあたりは本流緑道を中にして両側に一般道があって全体の道幅が広いが、これはその分岐のせいかもしれない(たんなる想像であるが)。
支流緑道に戻り、下流側に引き返した。
参考文献
「杉並の川と橋」杉並区立郷土博物館研究紀要別冊 平成21年3月発行
最新杉並区明細地図 昭和12年 東京日日新聞発行
杉並区全図 昭和10年頃 内山模型製図社
改訂版東京都区分図杉並詳細図 昭和24年 日新出版 昭和27年9月発行
杉並区図1962年杉並区役所
本田創 編著「失われた川を歩く 東京「暗渠」散歩」(実業之日本社)