現在菊坂とされている坂は、一枚目の写真の街角地図(上がほぼ南)のように、前回の新坂下近くの本郷五丁目33番と四丁目27番との間から本郷三丁目の交差点近くの本郷通りまで緩やかにカーブしながら南東へ延びるかなり長い坂である。本郷通りに向けて上る坂であるが、坂下と坂上で緩やかな上りとなっているだけで、そのかなり長い中間はほぼ平坦である。
一枚目の地図からわかるように、坂の途中で別の坂がつながっており、いずれもこの坂から上っている。坂下から順に、胸突坂、梨木坂、本妙寺坂。
長い坂なので、坂上側を撮った写真を坂下から順に並べる(ただし、最後の一枚は坂上から坂下側を撮った)。
二枚目の写真は、新坂下近くの菊坂下の交差点から撮ったもので、かなり緩やかに上りはじめている(ここを右へ進めば白山通りとの西片交差点である)。三枚目は坂下からちょっと進んだところから撮ったもので、山小屋というピザ屋の手前を左折すると、胸突坂である。
ちょっと進むと、上四枚目の写真のように、左手前方に古びた建物が見えてくる。その前に文京区の説明板が立っているが、樋口一葉ゆかりの伊勢屋質店である。一枚目の写真はその説明板を撮ったもので、一葉一家がこの近くの貸家に住んでいたとき、この伊勢屋に度々通い、その後引っ越ししてからも縁が続いたとある。
二~四枚目は、その先で撮ったもので、このあたりからほとんど傾斜がない。四枚目の左の道に入ると、梨木坂の坂下である。
下一枚目の尾張屋板江戸切絵図 小石川谷中本郷絵図(文久元年(1861))の部分図(右斜め上が北)を見ると、菊坂町とある町屋の三角形状の区画を囲んでいる底辺が梨木坂に相当する道筋で、左斜辺がいま歩いてきた菊坂で、右斜辺が胸突坂である。下二枚目の御江戸大絵図(天保十四年(1843))の部分図にも同様の三角形状の区画が見える。
三枚目の写真は、梨木坂下からちょっと進んだところで、前方右手の花屋のわきの階段を下ると、そこは菊坂よりも一段低い所にできた狭い道(菊坂下通り)で、菊坂とほぼ平行に延びている。大正十年(1921)宮沢賢治が東京に出てきたとき住んでいたのがこの近くである。
さらにちょっと進んで撮ったのが四枚目で、左に菊坂の標識が立っているが、次の説明がある。
「菊坂(きくざか)
本郷四丁目と五丁目の間
「此辺一円に菊畑有之、菊花を作り候者多住居仕候に付、同所の坂を菊坂と唱、坂上の方菊坂台町、坂下の方菊坂町と唱候由」(『御府内備考』)とあることから、坂名の由来は明確である。
今は、本郷通りの文京センターの西横から、旧田町、西片一丁目の台地の下までの長い坂を菊坂といっている。
また、その坂名から樋口一葉が思い出される。一葉が父の死後、母と妹の三人家族の戸主として、菊坂下通りに移り住んだのは、明治23年(1890)であった。今も一葉が使った堀抜き井戸が残っている。
寝ざめせしよはの枕に音たてて なみだもよほす初時雨かな
樋口夏子(一葉)
東京都文京区教育委員会 平成11年3月」
一~四枚目の写真は菊坂の標識から先を撮ったもので、このあたりもほとんど平坦である。二枚目の右の道へ右折すると本妙寺坂の坂下である。
上記の文京区の菊坂の標識は『御府内備考』を引用しているが、これは菊坂町の書上のはじめにある町名の由来を説明する文である。全文は次のとおり。
「菊坂町
一町名起立の儀は、長禄年中本郷辺町屋に相成候頃、此辺一円に菊畑有之、菊花を作り候者多住居仕候に付、同所の坂を菊坂と唱、坂上の方菊坂台町、坂下の方菊坂町と唱候由申伝候得ども、草分け人并[ならびに]土地に古き者も無之、古来の書留等度々の類焼に焼失仕、起立の年歴等相知兼申候、
但町内町屋に相成候年歴は相知不申候得共、右町一円に御中間方え大縄にて拝領地に相渡り候者、寛永五子年の由申伝候、」
同じく本郷之一の総説は次のように『南向茶話』(酒井忠昌著、寛延四年(1751))を引用している。
「菊坂
菊坂は丸山より小石川へ出るの坂なり、この処はむかし菊を作りし畑ありしゆへ坂の名とす、【南向茶話】」
上記の御府内備考、南向茶話によれば、菊坂は、坂上の方に菊坂台町、坂下の方に菊坂町があり、丸山より小石川へ出る坂で、ここに菊畑があったことが坂名の由来である。
『紫の一本』(戸田茂睡著、天和二年(1682))には次の説明がある。
「菊坂
小石川より本郷六丁目へ出る所の坂を云ふ。」
本郷六丁目は、上記の二つの江戸地図にあるように、菊坂台町の東にあたる。このため、この記述にあう坂は胸突坂である。この坂は、上記の尾張屋板で「ム子ツキサカ」となっている。 近江屋板(嘉永三年(1850))を見ると、梨木坂の道筋に「キクサカ」とあり、また、「ム子ツキサカ」とある道筋は、尾張屋板と同じである。
以上のように、菊坂は江戸時代の坂であるが、当時の坂は、現在菊坂とよんでいる道筋と違うようである。
一、二枚目の写真は坂上近くから撮ったもので、かなり緩やかであるが、上りになっている。三枚目は坂上の直前から撮ったもので、坂上の先に本郷通りが見える。四枚目は坂上から坂下側を撮ったもので、近くに立っているプレートに「菊坂通り」とある。
尾張屋板でも近江屋板でも、現在菊坂としている道筋は、本妙寺のあたりまでしかなく、本郷通りまで延びていない。明治十一年(1878)の実測東京全図も同じである。明治四十年(1907)の明治地図を見ると、現在のように本郷通りまで延びている。前回の新坂もこの間にできており、この辺りは明治中期頃に道路工事でかなり変わったように思われる。
現在菊坂と呼んでいる道は、細く長く交通量も少なく、適度にうねっているためむかしの雰囲気が残っている。坂上からアクセスすると、本郷通りの喧噪から遠ざかるようになって、静かな散歩を楽しむことができる。
(続く)
参考文献
横関英一「江戸の坂 東京の坂(全)」(ちくま学芸文庫)
山野勝「江戸の坂 東京・歴史散歩ガイド」(朝日新聞社)
岡崎清記「今昔 東京の坂」(日本交通公社)
石川悌二「江戸東京坂道辞典」(新人物往来社)
「嘉永・慶応 江戸切絵図(尾張屋清七板)」(人文社)
市古夏生 鈴木健一 編「江戸切絵図集 新訂 江戸名所図会 別巻1」(ちくま学芸文庫)
デジタル古地図シリーズ第一集【復刻】江戸切絵図(人文社)
デジタル古地図シリーズ第二集【復刻】三都 江戸・京・大坂(人文社)
「古地図・現代図で歩く明治大正東京散歩」(人文社)
「江戸から東京へ 明治の東京」(人文社)
「大日本地誌大系御府内備考 第二巻」(雄山閣)
「東京人 特集 東京は坂の町」④april 2007 no.238(都市出版)
校注・訳 鈴木淳 小道子「近世随想集」(小学館)