先月になるが、玉川上水に沿って浅間橋から上流へ三鷹まで歩いた。このコースはこれまでに二三回歩いているが(以前の記事)、こんな猛暑の季節は始めてである。
午後井の頭線富士見ヶ丘駅下車
駅から右に出てすぐのコンビニで冷たいペットボトルを購ってから南へ歩き、中央高速の高架下付近で右折しちょっと進むと、前方左側にこんもりとした森のような一帯が見えてくる(現代地図)。ここが玉川上水で、ここから下流は暗渠になっているので、終点である。
以前来たときは、すぐそばが道路工事中であったが、それが終わったようで、玉川上水に沿った散歩道の玉川上水緑道も整備されていた。前よりも歩きやすくなっている。
上水側は樹木で鬱蒼とし、川の流れもほとんど見えないので、まるで森の縁にでもできた小径を歩いている気分になる。
この新しい緑道が人見街道の牟礼橋(現代地図)まで続いているが、そこから万助橋までは以前と同じようである(橋の案内図)。
今春亡くなった森田童子(以前の記事)を偲んでCDを聴いていたら、1stアルバム「グッド・バイ」に入っている「まぶしい夏」の出だしの「玉川上水沿いに歩くと君の小さなアパートがあった」に思わず反応してしまった。
1stシングル(1975年10月21日発売)のA面がデビュー作「さよなら ぼくの ともだち」で、B面がこの曲で、両方とも友人の死が主題になっている。
訃報を報じる週刊誌の記事にライブハウス「ロフト」のオーナーの次のような談話が載っていた。
『これからはロックだという時代に、太宰がどうしたとか、誰かが死んだとかいうようなことを、いつもボロボロ泣きながら、顔じゅう涙で濡らしながら歌ってたんです。友達が学生運動の最中に倒れて死んだ。そのひとのことを歌いたくて始めたんだということをよく言ってました』
デビューシングルの二つの曲は友人の死がきっかけででき、ライブ活動を始めたことがわかる。
A面のデビュー作は、ぼく(森田)から見た君(友)のイメージを、君への思い入れをこめて歌っているように感じられ、主観が前面に出ているが、それ故にであろうか、聴く者のこころを打つ名曲になっている。
「まぶしい夏」を聴き「ぼくは汗ばんだ懐かしいあの頃の景色をよく覚えてる」という最終節に至るに及んで、この作詞は実体験によるものと直感した。友の死という事実をありのままに表現し歌っているように聴こえる。
以上の単なる直観からだが、この辺りをかつて森田童子が歩いたのは確かとおもわれた。今回歩いて、時として感じる盛夏のまぶしさの中、その曲からイメージされるような雰囲気が残っているような気がした。おもえば、森田童子を偲ぶ街散策の基本コースはここである。
樹木により日陰ができ、光が直射しないので、まあ歩きやすいが、ときおり、薄くなった樹木の葉を透過しまぶしい。上水沿いに住宅が所々に並んでいる。向こう岸の茂った竹林の隙間から住宅が霞んで見える。見えない所ではまるで幽寂な森の中にいるような感覚。
やがて、右にゆるやかにカーブしているところに至るが(三枚目の写真)、新橋のちょっと下流で、この辺が入水した太宰治の発見されたところである(現代地図)。
この辺りの玉川上水は、私的には太宰の終末から受ける梅雨空のような灰色がかったイメージの強いところであったが、今回森田童子を偲んで歩いてみると、その歌からかもし出される感情に由来するちょっと軽やかだがそれでいて哀しく切ない気分が重なってしまう。その友は太宰が好きで、友から借りた太宰の本が形見となった。玉川上水で太宰治と森田童子が交差し重なり合った。
玉川上水沿いの散歩道は万助橋(現代地図)で、それまでの上水沿いに茂った樹木のためちょっと暗い小径に終わりを告げ、信号を渡ると、街中の明るい散歩道となる。ここから三鷹駅までを風の散歩道と称しているが、途中に太宰の郷里産の石や写真が歩道のわきに置かれていることもあって(以前の記事)、ここまで来ると太宰の影が濃くなる。森田童子には先ほどまでのちょっと暗い小径の方がよく似合っている。
彼女の音楽は、彼女の資質と存在した時代と置かれた環境とがクロスした地点で生まれた自己表現に違いないが、自らが作詞作曲をして歌うという表現形態をとったことで、よりよく自己を表出できている。おもえば、その表現形態は彼女の好みにぴったり合い、これによって、思う存分に感情・感覚・幻想を表現しライブで歌うことができた。自己表現が完結したのである。聴く度にそうおもってしまう。
参考文献
「週刊朝日」2018.6.29号