おにぎり2個の里みち歩き 農山漁村の今昔物語

おにぎりを2個持って農村・山村・漁村を歩き、撮り、聞き、調べて紹介。身辺事象もとりあげます。写真・文章等の無断転載禁止

早春原風景2 落葉平地林にモクレンの白花

2013年03月26日 00時00分00秒 | 景観

写真1 2013/03/23 栃木県下野市の平地林早春風景 原風景:白花のモクレン・落葉のコナラ、新風景:茶緑葉の杉・茶色の畑


写真2 2013/03/10 杉葉の茶色化、花粉飛散、現代の早春風景。モクレンの開花は未だ。写真1と同一箇所


写真3 2013/03/10 落ち葉を浚い、集め積む早春の平地林原風景(写真1・写真2の左・西側に続く有機農業者秋山氏の林)


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1.平地林の早春原風景
 北関東、とくに栃木県に多い平地林
 この平地林に春を告げる風景、早春の原風景を見る
 一つはモクレンの開花、満開(写真1)
 二つは落ち葉浚いを終えて見通しきく樹間と、集められた落ち葉(写真3)

2.平地林の早春新風景と作土嵐
 原風景だけではない、新風景もある
 新風景の一つは茶緑の杉葉(写真1・写真2)
 1945年以降になされた杉植林の結果であり、花粉症の原因

 新風景の二つは作物のない茶色の畑
 茶色畑の原因の一つは風避け茶垣の緑が消えたこと
 1960年代後期になされた土地改良事業で畑の西側にあった茶樹の垣根が抜かれた

 二つ目の原因は麦の緑が消えたこと(弊ブログ2013年03月25日
 畑から緑が消えて作土嵐が起こりやすくなった(弊ブログ2013年03月12日他
 そもそも、作土嵐の原因は平地林の開墾・耕地化

 引用・参考文献等:弊ブログ2012年12月30日同月11日同年11月29日
 執筆・撮影者:有馬洋太郎 撮影年月日:写真1;2013年03月23日 写真2・写真3;2013年03月10日
 撮影地:栃木県下野市

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早春原風景 麦緑に梅

2013年03月25日 00時00分00秒 | 景観

写真1 早春農村の原風景は麦緑に梅 心温まる


写真2 カーブの播き条にトラクター利用の現代を見つつも、麦緑にかつての農村早春を見る


写真3 ヨシ焼き薄煙をバックに続く麦緑、ホッとする美緑


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1.早春の作土嵐、直近の原因
 早春、ときに春一番や春の嵐が吹き荒れ、北海道や東北、北陸では地吹雪
 北関東畑作地域では作土嵐(弊ブログ2013年03月12日同月11日同年02月27日同月25日

 その身近な原因の一つに麦作衰退がある
 JAや行政が麦作を奨励しても、多くの農業者や田畑所有者は動かない、と聞く

 すなわち、田畑所有者としての社会的使命に関心なく、あるいは麦作の社会的貢献や公益に関心ない
 麦作は儲からない、田畑に出る時間がないなど自己都合、私益を優先する傾向にある
 その視点から、作土嵐は人災といえよう

2.作土嵐のない、早春の原風景
 社会的使命や社会的貢献、公益を考える農業者や田畑所有者の作になる麦緑を見る
 ときは、2013年03月17日、渡良瀬遊水地のヨシ焼きの日

 第2調整池の桜堤からコミュニティーバスに乗り、東武日光線新大平下駅で下車
 同駅で南栗橋駅行き上り電車で帰途につく

 進むうちに車窓の右から左から緑が飛び込む
 注視すると麦の緑、一面に広がる
 凄い、美しい、気持ち良い、次駅静和駅で下車

 40分ほど麦緑のなかを歩き、田畑・農村の早春を体感し視感
 その一部が上の写真

 考えるに、かつての早春農村に麦緑や梅はあたり前
 この原風景維持に尽力される農業者に多謝
 さらに、JA及び栃木市の担当者ならびに栃木県下都賀農業振興事務所経営普及部・普及指導員の皆様に多謝

 同時に懸念も浮かぶ
 TPPで、このような麦緑はどうなるのか、作土嵐は増すのか減るのか
 TPPの成り行きは非農業者の我々にも身近

 執筆・撮影者:有馬洋太郎 撮影年月日:2013年03月17日 撮影地:栃木県栃木市静和

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桜島フェリーの今昔 思い出すまま

2013年03月24日 00時00分00秒 | 施設等

写真1 鹿児島港離岸前の桜島フェリー。自動車用電動ブリッジは2層、その前方に乗客用ブリッジ(赤の桁が見える)


写真2 鹿児島港に着岸する桜島フェリー。自動車用デッキは2層


写真3 桜島・袴腰港の桜島フェリー。自動車用デッキは2層


写真4 鹿児島港に入る桜島フェリー。船は、手前の防波堤、さらに前方の防波堤開口部を経てRKK LINEの右奥に着岸


写真5 手前の防波堤は半世紀前なかった。A LINEは奄美・沖縄航路、RKKは沖縄航路。RKKの右奥が桜島フェリー岸壁。前方は城山


写真6 桜島フェリーから望む大正溶岩原。多くの溶岩は松に隠れている。半世紀前、松は低く、溶岩は丸見えだった


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1.カーフェリーで桜島へ
 2013年02月11日、桜島フェリーとバスに乗り、誕生地・故郷の東桜島町(湯之)へ
 桜島フェリーは鹿児島市営の鋼鉄製カーフェリー(写真1~写真3)
 国道224号の海上区間(鹿児島北港~桜島港・袴腰)4km弱を約15分で結ぶ

2.1955年頃、木造フェリー
 1955年頃、私は小学校低学年、鹿児島~袴腰間はディーゼルエンジン木造フェリー
 自動車用デッキの後方直下に機関室があり、ディーゼルエンジンはリズミカルなピストン運動
 その動きと軽油の匂いは、焼き玉エンジンを見慣れていた私を惹き止めた
 自動車用デッキは、船の中ほどに大型観光バス2台を船の進行方向に直角に載せられる幅
 バスの前と後はすぐ海面
 客室は、自動車用デッキの前に1室、機関室の後ろに1室
 自動車用デッキの上、すなわち2階に操舵室から船尾へ1室(注1)
 発着岸壁は潮の干満により変わった
 自動車の積み下ろしは2本の可搬式木製厚板を使った

3.南九州・桜島が新婚旅行のメッカの時代、鉄鋼製カーフェリー就航
 1960年代、南九州は新婚旅行のメッカ
 フェリーは、①木造船から②一方向に走る中古の鉄鋼製フェリーへ
 さらに③双方向進行の新造鉄鋼製フェリーへ変わった(注2)
 双方向鉄鋼製フェリーになると、岸壁は固定
 自動車は専用電動ブリッジを使い、車と乗客の乗り降りは分離された(写真1・写真3)
 当時、鉄鋼製フェリーの自動車用デッキは1層。現在、1層、2層の両タイプ
 自動車は進行方向のまま乗り、降りる
 港の防波堤は整形溶岩の組み重ね、開口部に向かい左右各1本
 現在、コンクリートブロック防波堤(写真4・写真5)

4.フェリー岸壁の近くでは人糞尿積み込み
 フェリーは西桜島村営
 フェリー岸壁のすぐ北側に、西桜島村の各集落と鹿児島をつなぐ木造船の岸壁
 新婚旅行のカップルや私たちが乗り降りしていると、人糞尿の臭いが鼻をつく日もあった
 発生源は西桜島行き船に積む人糞尿。コエタンゴ(肥桶)に入っていた(注3)
 当時も、西桜島村は温州ミカン、桜島小ミカン、桜島大根など農業が盛ん
 その肥料として鹿児島市民の糞尿が使われた
 この市街地人糞尿を郊外農家が使うのは、当地だけでなく、昔から全国各地にみられた
 たとえば、江戸の人糞尿が三浦半島へ船積みされて使われた(『浜浅葉日記』)

5.夜、静寂の大正溶岩原を歩く
 現在、フェリーは24時間就航
 1960年代後期、夜の鹿児島発最終便は21時~22時
 最終便に乗って袴腰に着いても、東桜島町(湯之)方面行きの国鉄バスはなし
 約6km、歩くしかない
 途中、袴腰から赤水の間は大正溶岩原
 人家はなく、街灯もなく、行き交う車もなく、人など歩いてない
 溶岩原の向こうに先ほどまでいた鹿児島市街の光り、夜景

 初めて歩いた夜、溶岩原の曲がりくねった国道224号を進む
 すると、足音の他に後ろからスッ、スッ、スッ、とついて来る音
 気にし出すと怖くて堪らない
 なんだろー、と立ち止まり、後ろを振り返っても何もない、見えない
 歩き出す、音はついて来る
 立ち止まる、音はしない、後ろには何もない、見えない
 この繰り返し
 幽霊か、周りは如何様にも見做せる溶岩だけ、怖さがいっそう増す
 夜空、星空を見上げる余裕などなくなる
 繰り返すうちに、ズボンの股擦れの音とわかる
 あー、あっ、怖かった
 それほど静寂、夜の溶岩原

 当時の大正溶岩原は、鹿児島大学が調査のために植林した低い松が生えているだけ
 溶岩がゴツゴツ、緑は僅少
 現在、フェリーやバスから見る限り、多くの溶岩は松に隠れている(写真6)、半世紀経った
 現在の国道224号は、避難道路の役割もあり直線化し、当時より山側を走る

 注1 2階の客室は、私の記憶違いの可能性もある
 注2 ①と②、②と③がそれぞれ重なった時代もある
 注3 コエタンゴは木製で、中膨らみ円柱状
 引用・参考文献等:弊ブログ2013年03月01日同月02日同月05日同月07日同月17日
 執筆・撮影者:有馬洋太郎 撮影年月日:2013年02月11日 撮影地:鹿児島市
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歳の暮れ ミソカッパライ 身を清め

2013年03月23日 00時00分00秒 | 農村
 写真1 写真2

写真1 宅地入口に挿されたミソカッパライのヘイソク
写真2 道路端に挿されたミソカッパライのヘイソク


写真3 ヘイソクを授ける旧小川町総鎮守八宮神社。本殿と破風の中国民俗彫刻


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 2013年02月16日、埼玉県比企郡小川町の下小川三区や下里を歩く。
 当地は、オオムラサキ放蝶、カタクリ自生地、有機農業などで有名。
 歩きの途中、目に入ったのが白いヘイソク(幣束)。
 宅地入口、門の脇、道路端などに挿してある(写真1・写真2)。
 この場景は既に紹介したアクマッパライ(当ブログ2013年02月02日)と同じ。
 オオムラサキ放蝶を主導する下小川三区のS氏宅(当ブログ2012年10月19日紹介。)を訪ね、
 奥様に聞く。次のように教えていただく。
  八宮神社(はちみやじんじゃ)のヘイソクをいただき、
  大晦日に主人が家族を祓い清める。
  これを、ミソカッパライと呼ぶ。
  そのヘイソクを宅地入口などに挿す。
  八宮神社は彫刻で有名、町の文化財に指定されている(写真3)。
 なるほど、アクマッパライは埼玉県の東部、ミソカッパライは西部、同じ民俗行事。
 八宮神社は旧小川町の総鎮守、1617年(元和03)以前の創建。
 本殿3面と破風に中国民俗の彫刻が施されている。

 執筆・撮影者:有馬洋太郎 撮影年月日:2013年02月16日 撮影地:埼玉県比企郡小川町下小川三区

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春彼岸 コブシに遅れ 桜咲く

2013年03月22日 00時00分00秒 | 植物

写真1 開花の桜


写真2 開花の桜並木


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 私の居住地は桜開花、JR宇都宮線東鷲宮駅近く、関東平野のど真ん中。
 19日06:09の未開花(当ブログ2013年03月19日・写真3)から
 いっきょに開花、20日16:42(写真1・写真2)。
 開花は、コブシに遅れているが、2年前や20年前に比べて早い。
 2年前、2011年の満開は04月10日頃(当ブログ2011年04月16日紹介)。
 20年前の満開は4月初旬、子供の小学校入学式の日、満開桜の下で記念写真を撮っている。

 執筆・撮影者:有馬洋太郎 撮影年月日:2013年03月20日16時42分 撮影地:埼玉県久喜市桜田

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