ホワイトシェパード・アリエスの日々 ≪一雲日記≫

いつまでもどこまでも一緒に歩こう!

言葉の話 その1

2019-06-07 | 11~12歳
最近とても心に残るファンタジー小説を読んだ。作者の書きたい内容を表現するために架空世界が必要でその形式を採ったと思われるが、そこで起きていることは非常に現実的。言葉というものの本質を、物語として描き出したものだ。そのままではないが、「言葉を習得することもよいが、その前に、語りたいことを持てるかが何よりも大切で難しい」という内容がある。もうかれこれ15年ほど前になるが、私もまったく同じことを思ったことがある。

大学院の研究室でのちに教授となる、当時助教授が国際学会で講演をおこなっていた。米国留学を経ているため英語は「普通に話す」のだが、これがめっぽう日本語訛り。おかげで我々には理解しやすいけれども、ネイティブには通じるのかと興味津々で注目していた(どこ見てんだよ)。しかし来場者は皆、集中力を切らさず聴講し脇目もふらずメモを取り、活発な質疑応答がおこなわれたのだった。まさしく、知りたい内容がそこにあるなら、人はどんな言葉でも理解しようとするものなのだと感じた瞬間だった。

別の学会で。先輩たちが研究成果の発表をしたのだが、2人のうちふたりともが、質疑応答で黙り込んだ。質問の意味が取れなかったか、あるいは答える言葉が探せなかったか。そして件の助教授が、共同演者ということで代わりに回答したのだった。私はこの時、これだけは絶対に嫌だと思った。寝る間も惜しんで追求しようとした成果を、こんな形で披瀝するのだけは嫌だと。気づかない誤りや不足な事柄があったとしても、こんな少しの真実を見つけた、そのことだけはちゃんと自分で世に問いたい。言葉が分からなければ聞き返せばよい、出てこなければ絵に描いてもよい、伝える熱意を欠くことよりは恥ではない。先輩たちの日々の努力を知っていればこそ、歯がゆくてならなかった。この経験があったために、のちに自分自身がその場に立つようになった時には、拙劣な応答ではあっただろうが相手を肯かせることができたし、不十分なら終了後にも話し合い、新しい観点をもらったりすることができた。

後日談だが、自分の英語について助教授は言っていた。僕の発音は通じにくいから、知っているあらゆる単語で言い換えて伝える努力をしていると。そうやって誤解を避け、あるいは相手も不自由な言語であっても何とか渡りをつけて、議論や意見を引き出していたということだ。

伝えたいことを持っているか。語りたいものが心にあるか。どうやって話すのか書くのかを学ぶより必要で第一で大切なこと。それさえあれば、自ずと方法を探すのだから。