「この国のかたち」的こころ

敬愛する司馬遼太郎さんと小沢昭一さんに少しでも近づきたくて、書きなぐってます。

結婚と離婚と仕事とSEX Ⅲ

2005年08月10日 23時39分30秒 | 結婚観
 結婚すると自分の自由がなくなる。相手の人生を背負い込むことになる。読んでいると結婚というものが嫌になってきますよね。
 でもそういう主旨で、この記事を書いているのではありません。

 僕のカミさんは結婚以前から仕事をしています。

 短大を出てその短大の職員に採用されて、図書館事務を中心に仕事をしています。

 ずっと続けて行きたいと言ってますし、専業主婦でいるよりも職業として、家庭とは違う世界をもっていた方が自分自身がよく保てると思う、という理由からです。

 僕もその方が良いと思いました。

 女性が家庭を持ちながらボーナスの出る仕事を継続して出来るというのは、ありがたいことですし、子供が小さいときは、僕の両親に預けておけばよい、という環境も良かったと思います。

 女性にはどうやら適齢期という壁が、まだ厳然としてあるようで、学業を終えるとすぐに周囲の目が結婚に向きます。

 

伊東城ヶ崎のリス

2005年08月10日 18時36分53秒 | 文化論
 伊東城ヶ崎の灯台と駐車場の間には売店があります。

 その売店で、冷たいお茶を飲んでいるときに、ふと目線を森に向けると、木の枝がしなっているので目を凝らしてみると、リスでした。

 僕は田舎に住んでいるとはいえ、平野部ですので山の動物たちには会いません。

 通勤途中にたぬきとか、ハクビシンを見ることはあります。リスを近所で見かけたのは、小学校からありません。

 上高地で見た以来かな…。

 珍しかったので、「お!」とか言って、他の人も指さして見てました。

 そのうちそのリスが僕らの飲んでいるドリンクの捨て場になっているかごのあるとろまでやってきました。

 意外と慣れてやがんな。

 と思ってしまった僕は汚れた大人でしょうか。

 人など気にする風でもなく、その辺をかなりの時間うろついていました。


 自然は、人間に都合の良いように作り替えられています。

 その都合の結果に生じた、リスがゴミをあさる行為を僕らがとがめ立てる訳にはいかないのかも知れません。

 でも何か変だなと思ってしまいます。

結婚と離婚と仕事とSEX Ⅱ

2005年08月10日 00時29分17秒 | 結婚観
 日本には八百万(やおろづ)の神と言って色々な神様がいる。原初から日本列島に住む人々は、人間が住むのに都合の良い自然環境に感謝し、ごくたまにある例外の年や突発性の自然災害を怖れ、その2つの意味から、人と共存する全てのものに命と意志を持つものと考えたようである。

 だからそれは西洋のいわゆる「Got」と異なり、どちらかと言えば精霊に近い意識かと思われる。

 だから結婚の神様も当然おわすわけで、冬の女王広瀬香美の…!!


 あれは「ロマンスの神様」だった!


 まあいいかっ、って良くないよね。

 スミマセン。


 芸人さん達がよく言うセリフで笑いの神様が上から降りてくるというのがあ。


 じゃあ結婚の神様は、何処から来るのか?っていうと…。


 どうも何処からも来はしないらしい。

 来ると言うより、落とし穴を掘って、待ちかまえているといった方が、納得を得られる割合が高いように思う。

 …何であのときあんなこと言っちゃったんだろう。

 なんで「ハイッ!」って言っちゃったんだろうとか、苦笑いと共に思い返すのが当時の精神状態だったのではないか。

 僕の先輩が「結婚なんてね、道を歩いていて落とし穴に落ちるようなものよ。」といった人がいるが、そのときの目は真剣だった。

 

 「結婚は面倒くさい。」


 いま、多くの若い人がそう考えてるそうだ。


 この時代の人の有り様を如実に表している。


 自分にとって都合の良い関係だけを保つので精一杯の状態。

 それすらも拒否するのが「ひきこもり」であると考えて良いだろう。

 仕事上の人間関係でいっぱいいっぱいなのに、家に帰ってまで違う人間関係で煩うようなことはしたくない。


 ひとりになる時間が欲しい。

 

 そう思う人が多い。


 僕もそうだった。


 今もどこかでそう思っている部分がある。


 僕と同じ年齢で、結婚せずにマンションで一人暮らしをしている同僚がいる。

 給料はすべて自分だけのために使って良い。

 マンションだから僕みたいに、自治会の役員になる必要もない。だいたい隣の部屋が誰なのか知らないし、知る必要もない。

 貯金をしては海外に格安ツアーに出かけている。

 しかも仕事は僕より出来るから給料の査定も良いはずだ。


 悠々自適の生活である。

 両親は健在で違う街に住んでいる。

 
 

 毎日カミさんと娘を相手にし、たまに姑の愚痴を聞き、娘が泣き叫び、学習塾へ行かせる時期について悩み。たまに駅前で「麻薬撲滅」と書いたタスキを掛けて、昨日は何処へ行ったかが近所のおばさん達に筒抜けになっている田舎生活と比べると、自分の「個」の立場から見た場合、まるっきり正反対の生活がある。


 これが今後どれほどの人生の違いを生み出すのだろうか、僕の方が確実に幸せなのだろうか。

 さして違いはないように感じる。


 ただ、僕は近所の幼稚園児から、80才以上のお年寄りに至るまで、地域のほとんどの人にとって見たことある人になって行くだけである。

 「この顔にピン!ときたら110番」の時に思い浮かべる顔になってしまうだけのことである。


 地域と生きると、そういう人生になる。


 結婚も、その面では同じである。


 相手が天涯孤独の身の上で結婚するならともかく、そうでないならなにがしかの人間関係を持っているはずである。

 例えば引きこもりでも、それを許容する両親がいるはずで…。


 なんか変だぞ、この例え。


 結婚とはそういう人間関係をひっくるめて受け入れるわけで、人間関係の難易度は種々あれど、すくなくともそういうのを受け取る覚悟は持つべきである。


 よく女の子が「彼に意外な過去があった。」とか相談されるが、そういうのは論外であって、「そういう過去を経てきた彼を、そういう過去を経てきたこその彼を好きになったのだから、そういうのを丸ごと好きになんないと好きって言えないんだよ。」というと「好きって簡単に言えないんですね。」って言います。

 「好き」は良いんです。

 「LIKE」はそういう傾向にあるってことですから、

 ただ、その子の「好き」は「LOVE」でしょ。

 そういうのは重いと思う。

 人類愛、愛校心、意外と人間以外に簡単に使われますが、愛は基本的に無償ですから、人類とか、学校を愛して、人類とか、学校に見返りを求めますか?

 求めないでしょ。

 だから、愛してますって言ったら、相手に何も求めちゃいけないんです。


 求めるのは「恋」って言います。


 一緒にいたい。会いたい。あーして欲しい、こーして欲しい。

 こういうのは「恋」っていって、どっちかが追っかけてないと成立しません。



 昔、何かの映画で、恋に悩む自分の娘に対し、医者のオヤジさんが、「恋ってのは燃え上がるものさ、燃えて、燃えて、その後に、燃え残ったものが愛っていうのさ」というセリフがあったけど、そう考えると「愛」って厳しいものだね。


 もう寝ます。支離滅裂でスミマセン。

 でも「愛してます。」は簡単に言えないですね。