「この国のかたち」的こころ

敬愛する司馬遼太郎さんと小沢昭一さんに少しでも近づきたくて、書きなぐってます。

文化を支える 伊豆白壁荘の心意気

2005年08月03日 00時41分42秒 | 文化論
 以前に伊豆湯が島の「白壁荘」に泊まったことがある。旅館の若女将に伝手のある人がいて、ホントは一泊1万5000円位のところを1万円でやってもらった。たいへんに迷惑をかけた思いがある。
 紹介してくれた人は、その旅行に遅れていらっしゃった。「いやあ、ちょっと調子が悪くて」と言っておられたが、伊豆の文学散歩のパンフなども張り切って作って下さり、随分元気なご様子だった。だけど後から思えば、そのとき既に致命となったガンが発症しており、1年有余年に渡る壮絶な闘いに入る前の最後の穏やかな旅行になった。

 近代文学を読むものなら、必ず意識せざるを得ないのが「伊豆」である。

 特に湯が島は多くの文人達に愛され、夏目漱石、川端康成、井上靖、木下順二、そして僕が好きな梶井基次郎の滞在していた場所でもある。

 「闇の絵巻」は梶井が湯が島で療養中に書いた作品。光と闇のコントラストが、生と死を叙情豊かに表現されています。

 なんてね。叙情豊なんて、自分でも分かりもしない表現を使ってますが…。

 当時、川端は湯が島の旅館で「伊豆の踊子」を執筆中でした。梶井はその校正を手伝っていたようですが、自分で勝手に表現を変えてしまい、しかも川端もそっちの方が良いって認めてたそうですから、結構扱いにくい存在だったんじゃないかと思うのです。

 「白壁荘」は井上靖の定宿として有名だそうで、晩年の家族と一緒の写真等が飾られていました。

 僕たちは、特別なのかどうなのか分かりませんが、若女将に旅館内の施設を案内して頂きました。

 僕たちの泊まった部屋は一番離れの、景色も何もないような部屋でしたが(1万円でしたから)そのほかのお部屋は先代の趣味というか、戦略かもしれませんが、ネオジャパネスク風と言ったらいいか、和風モダンと言ったらいいのでしょうか、デザイナーに任せて好きなように作らせたそうで、とてもおしゃれな部屋ばかりでした。
 
 今日言いたかったのは、その内の一つに入ろうとしたときです。若女将が「少しお待ち下さい。」というので、何かな?と思って待っていると「申し訳ありませんがこちらのお部屋は今日はお見せすることは出来ません。」と言われました。

 他にも宿泊客がいて見せられない部屋というのはあったのです。でもそういうパターンなら事前に知っていて良いはずです。

 僕は少し変に思って聞いてみると、其処の部屋には、いわゆる「作家」が居候をしているとのこと。ただ作家といっても旅に関するルポルタージュを書いてるらしくて頻繁に東京と湯が島を往復しているからいつ部屋にいるのか分からないそうである。
 部屋代はタダ。食事もタダ。宿泊客の食事とどの程度差があるのか聞けなかったけど、とにかくタダだそうだ。風呂も入り放題。上げ膳据え膳の毎日だそうだ。
 なんでそんなことになったかというと先代がどこかで拾ってきたか、紹介されたのかで、先代が亡くなった後も同じ条件のままの待遇をしているそうである。
 お金はホントにいいんですか?と愚民は心配してしまうが、「出世払いという約束なので」と若女将は微笑んでいた。

 条件は部屋にいないときは、その部屋に勝手にはいることがあるということだけだそうだ。
 だから本人がいなければ、パンツが脱ぎ捨ててあろうが何しようが一切触れずに見せてしまうそうである。

 ちなみにその作家さんは女性である。


 絵空事や今は昔の話として作家を養ったり、正直な感覚として「飼っている」という話は聞いたことがある。
 でも現実として目の前にそういう人がいるのは衝撃的な現実だった。

 文学をかじったものとして、そういう境遇に憧れがないとは言い切れない。
 自分の才能に先行投資してくれる人がいるってのは凄いことだと思う。

 もう5年ぐらい立っているから、その後どうなったか知らない。何せ伊豆に文学的にアプローチしたのはその一度だけだ。

 憧れは憧れとしてある。しかし、きついだろうなと思うのは僕が一般的な感覚しか持っていないからだろうか。それだけで作家落第かもしれない。

 自分を信じ切って、そういう待遇を当然と考え、創作に集中できる神経を僕は持ち合わせてはいない。

 またそういう待遇を平気であたえる旅館側の先代や若女将の神経も僕の思考の及ぶところではない。

 ただ、感じるのは小気味の良さである。

 今の時代にも、こういう人がいる。篤志家(とくしか)というのだろうか。社会にたいし感謝し見返りを求めない事業を個人レベルで行う人のことをいう。
 自分が叩きだした儲けを、分相応に受け取ったら、後は社会に還元するという精神だろうか。それとも単に酔狂にすぎない所行なのだろうか。

 僕が説明すること自体に無理がある。

 ただ、今の時代はNPO法人とか、ボランティア団体とか、社会貢献というもののもドンドン組織化され、制度化され規模を大きくする傾向にある。

 それだけ扱わなければいけない問題が深刻化している証拠ともいえる。

 組織化され制度化された、社会貢献は、人の善意の集合であったはずなのに、いつしか義務化して、評価の対象として考えられる傾向も出てきた。

 ボランティアに参加することが、中学に義務づけられ、調査書の記入項目になってきている。高校でも大学でも企業でもボランティアの経験は点数化され、評価される。順位がつけられる。

 今日あたり、街を車で走ると、ガソリンスタンドや、中古車屋、図書館や、幼稚園にまで体操服の中学生の姿が見られた。

 いわゆる職業体験として地元の協力企業に職業体験をさせているのである。

 良いことなんだろうけど…。

 なにか釈然としない気持ちが残る。

 文化とは、民族なり社会集団が、一定の決まりに準じて作られたもの、もしくは行われたものに良いと評価を下すものである。

 文学的に愛された温泉宿の主人が、有望と思いこんだ作家の卵を居候させるのと、中学生に夏休みの課題として、職業体験させてレポートを書かせるのとどちらが日本文化に貢献しているのか、悩んでいる。