雲は完璧な姿だと思う。。

いつの日か、愛する誰かが「アイツはこんな事考えて生きていたのか、、」と見つけてもらえたら。そんな思いで書き記してます。

やらかすよね。 7

2019-08-08 00:20:21 | セツナイ
次回は、今回の古墳の神様のお話を記しておきます。
最後にもう一話だけ続きます。






日本の建国記念日となっている「2月11日」は、
初代天皇とされている神武天皇(じんむてんのう)が
奈良の橿原の地に宮殿を建て、即位をした日とされています。
その神武天皇の後、
第2代天皇から第9代の天皇までは実在の証拠が乏しく、
歴史が欠けた8人の天皇......「欠史八代」と呼ばれています。

実在はともかく、
この「欠史八代」の天皇の宮跡だと伝わっている史跡を巡っていくと、
そのほとんどが奈良盆地の南の奥地である明日香から葛城、
御所の辺りにかけて散らばっていて、
古い代になればなるほど平地から山寄りにあるように思えます。
これはきっと、
奈良地域における人々の生活形態の変遷が
表れていることではないかとも思われ。
縄文の初中期に山野や河川、
海での狩猟採取を中心とした生活を営んでいた人々の多くは、
大陸から稲作などの農耕技術や知識が入り込んで来た弥生初期になると
生活が安定する農耕生活の方へとシフトしていき。
人々がまとまって住む場所にしても、
開墾される田畑の広がりに合わせるように
山地から平地へと徐々に移っていったのだと思われます。

今回訪れた
「権現山古墳(ごんげんやまこふん)
= 樋野の天安川神社(あめのやすかわじんじゃ)」
の立地に関しては、
欠史八代を含む初期天皇の宮跡と伝わる地よりも更に山寄りにあり。
最早、吉野山地のほど近くでした。
有名なキトラ古墳や、高松塚古墳、
奈良の王霊達のヌシ!ともいえる、
天武さんや持統さんの王墓よりも更に奥。





これらのことから考えると、
この古墳の王の活躍していた時代は狩猟採取の幸と農耕の幸とを
バランスよく確保していた時代の王だったのではないか?
とも考えられます。
縄文から弥生への移行期とでも言いましょうか。
この古墳のある地は緩やかな山の斜面に沿って
棚田が広がって行く起点的場所であって。
山地と平地(盆地)が交わる様な場所でもあり。
双方の幸で暮らす人々の接点の地であって、
境界の地であったとも感じられます。







となると、
権現山古墳の王の時代は神武天皇の頃ぐらいか、
それよりも古い可能性も。

現在もカンカンガクガクと議論されている神武天皇の即位年に関しては、
日本書紀と「宗史」と呼ばれる古代中国の書に記されている事柄から、
一旦は「紀元前660年」とされています。
もし、これをそのまま信じるのであれば、ですが、
権現山古墳の王の時代は紀元前700年以上前?
ともなるのでしょうか......
しかし、古墳の前にあった錆びついた古い説明書きの看板には、

「副葬品(ふくそうひん)については、全く不明である。
家形石棺は比較的古い形式で、6世紀前半に比定される」

とも書かれていて。
となると、
そもそも神武天皇の即位年が大きく間違っているのか?
看板にある推定年代の方が大きく間違っているのか?
はたまた......?
権現山古墳の神様は、自らは縄文の王と語ってはいますが......
もしかしたら、
土器などは後の時代に人々から置かれた?
捧げられた?
モノだったりもする可能性も?
弥生時代は最近では紀元前10世紀にまで遡れることも実証されていて。
当然のことですが、縄文から弥生への移行にしても、
長い年月をかけてグラデーションを持って移行していったハズであり......
ともかくも、とても古い古墳であることは間違いないと思います。



そして、

そこで不思議なのが......

トマト。



トマトはごく最近になって日本に輸入されたものです。
僕はそのことをプリリンねーさんに言うと、

「古墳の神様から......」

という事で、
こんな言葉を降ろしてくれました。

「トマトは、夏になると食べに行っていたのだよ。
ずいぶん前かもしれないけどな。
石が落ちてから、いってないからな」

それで食べたかったのだと。
勿論、記した様に家臣の皆様はまごうことなくご飯が大好きで。
少なくとも稲作は完成されていた時代だったのではないかとも思われます。
そんな結論無き推察を巡らせていた古墳の神様の名前は、
古事記に記されている名前では......
   
「アメノオハバリ(天之尾羽張)」

日本書紀では

「トツカノツルギ(十握剣)」

ではないかと。
あくまで個人的に、ですが、僕はそう伺っています。
どちらにしても「刀の神」であり、
イザナギ(伊弉諾)さんとイザナミ(伊弉冉)さんによる
「神産み」の段に記されている古い神で、
神代とされる時代の神。
そして、「4」の記事中にも記していましたが、
権現山古墳の王が自らが語る!?
神話にも記されていない本当の名前は......

「ヲシテの神」

あの「ヲシテ文字(オシテ文字)」の「ヲシテ」だそうです。
ウィキペディアあたりから画像をしょっ引くと、
こんな古代文字のコトでして。





未だ真偽が疑われている文字であり、
その道のマニアさん達には?有名なモノでもあります。
そして、そんなヲシテの神様曰く......



「話したいことがあったのだ。
知多半島の荒熊の神と仲良くなったよ。
初めて会ったのだが、猿田彦の息子だと聞いたよ。

旗神社のこともわかっているそうだな。
私は、カタカムナからヲシテ文字を作った。
人に伝えるには、言葉だけでは無理だったからだ。
境の神のタセツの神もわかったらしいな。

(中略)

全部、カラツの神が教えてくれたよ。
私の眷属がUZMETの古傷に訴えていたことは、
死ななくて良かったと思うほど強いものだった。

私は鎧が重くて出られなかったが、
今はスカイウェイに乗って世界中に行けることがわかった。
オーストラリアのウルルに行って来たよ。
オーストラリアはアボリジニがいるからな。

縄文の時は一緒に話し合っていたよ。
からくれないに水くくるとはだな。
血で血を洗う戦いは何度も繰り返されてきた。
人が増えたからか。
問題は境があることなのだよ。
境のない世界にしたいと、スカイウェイが通って思う。
利他の心で頼んだよ」



.......と。

ふーーーーーーーーーーーーっむむむむむ......

謎はナゾを呼びますな......(*´ω`*)ええ。

またどこかで、

この続きの物語が生まれるやも!?しれませんが。

いつか、許されるのであれば、

雲完的神様年代記?なんてものでも纏められたら、と。(^^)

今回の全7話。

ここまで読んでいただいたモノ好きな方は!?

わ!

お外で「ポンチキ野郎!」などと言われないように!

お気をつけて!

暑過ぎてイヤになっちゃうぅぅ......

な、毎日をそれなりの元気でもってお過ごしいただけたらと。

ええ。ええ。

かしこ(^^)



☆「やらかすよね。」過去記事リンク☆
やらかすよね。」「2」「3」「4」「5」「6


にほんブログ村 その他日記ブログ 日々のできごとへ
コメント (12)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

リンクバナー