芥川賞を受賞して一躍時の人になった。
無礼であるとか、面白い人であるとか、
もっと常識的な判断しかしない人からは、ひとことヘンな人と切り捨てられてしまったりしている。
私はあくまで推測であるけれども、
いっぺんに人中へ放り出されて、
多くの誤解を彼は受けてしまったのではないかと思う。
高校を卒業後、アルバイトすらしたことがなく、
ひたすら人と交わらず、小説だけを書いてきた経歴から、
あまりにシャイで、
どう対応していいかわからないインタビューがああなったのではないだろうか?
常日頃の彼を良く知っている彼のお母さんが
『極度に緊張していた』
と言われていたのが正解だろう。
自分で自分のインタビュー姿を評して
『まぬけですね』
と答えられていた。
「早くインタビューをやめましょうよ」
と言うのも
「友だちはいません」
と言うのも
嘘いつわりのない本当だったろうと感じた。
『礼儀を知らない』のではなく
礼儀の必要な会話をする環境はなかった。
礼儀を学習する場はこれまでなかった…では?
働くだけの社会性がない彼に
規則正しく小説を書くだけの生活を許し支えた
お母さんの存在は大きい。
おなじく社会性に歪のある息子を育てた母親として、
田中慎弥氏のお母さんに惜しみない拍手を贈る。
耐えて待つ、母親の鏡であろう。
この件については触れないでおこうと思っていた。
ついついいろんなブログを読んでいて
黙っていられなくなった。
上手く世の中を渡っていくことが
どうしてもできない悪意でもなんでもなく
できない人間が居る。
人と交わる事が極端にむつかしい人が存在する。
社交上手が居ればその真逆な人間が居てなんら不思議はない。
人ごとでなく人の好き嫌いを言ってしまう自分であるが、つい彼を擁護したくなった。
自分を良く知っているからこそ、
母子家庭でありながら働く道を選択できなかったではないかと推測する。
人に交わって働くことがどれだけ彼にとって苦痛であるか
お母さんが一番よく知って居られたようにも思う。
印税が入るようになってからは、生活費をお母さんに渡しているそう。
きちんと家の役に立ちたい思いは強くあって尚、自分を立てる道は文筆しかなかったのだろう。
身内の事であるが、甥がせっかく大学を出て就職した会社を辞めて作家になると言い出した。
言い出しただけで、『現在保留』と正月に言っていたので、身内一同安堵した。
芥川賞を受賞=食べてゆけるの図式はまた厳しかろう。
彼の内面はちょっと違うんでないの?と言う記事を見つけた。
外に向けて、書くことに置いては自分を正しく発信できるが
対生身の自分自身となると、
正しく発信するパーツをおそらく持たないのが彼の素地ではないのだろうか?
以下、
朝日新聞山口版で「となりのソファ」という連載エッセイ、
その最終回コピペを置いておく。
◇
小さな旗 田中慎弥 2011年4月11日掲載
今日が最後なので何かそれらしいことを書こうと思っていたところへ、東北・関東を襲う地震。作家なのだから、世の中の重大な出来事には背を向けて、こんな非常時になんと不謹慎な、と眉をひそめられるようなことを書かなくてはならない筈(はず)だが、テレビに映し出される、もの言わぬ地震と津波の圧倒的な威力を見ていると、自分が何かを言ったり書いたりしたところでなんの意味もないのではないか、と感じてしまう。
ここで言う、なんの意味もない、というのは、自分が災害に対して何も出来ない、ということだけではない。私は普段、生きるため、自分のためだけに小説を書いている。収入を得るため、自分自身を解放するため、と言ってもいい。その、自分のための、自分なりに力をこめて書いた小説は、災害ほどには人に影響を与えない、と思ってしまうのだ。そんなことは当たり前だが、例えば被災者が読んで、ほんのわずかな時間だけでも苦しみを忘れるような小説が、書けないものか。災害とは全く無縁の爽やかで美しい作品でもいいし、逆に徹底的に悲惨な人間の姿でもいいし、でなければホラーで怖がらせるか、避難所で読むのがはばかられるドロドロの不倫劇で引きずり回すか。
しかし私はいまのところ、被災した人だろうがそうでない人だろうが、多くの読者を獲得出来るような小説を書けていない。厳しい現実を直接反映させた問題提起型の小説は、現実そのものの前では圧(お)し潰(つぶ)されてしまう。現実を凌駕(りょうが)するか、現実から百歩も千歩もあとずさり、どんどん遠ざかり、逃げ続けるか。どちらにしろコースを一周すれば同じ地点に出る筈だ。そこにしか、小説という小さな旗は立てられない。勿論(もちろん)そのコースは、自分で切り開くしかない。
とりとめのない連載だったのでとりとめのないまま終わることにする。担当記者に感謝。
お笑いコンビ「ロンドンブーツ1号2号」の田村淳(38)。
が下関中央工業高の後輩となるらしい。
私のもっとも嫌いなタイプの芸人であるが、
社会性のあるなし両極端な人物が同じ学窓に学んだと言うのも
なにかしら世の妙味を感じる。
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無礼であるとか、面白い人であるとか、
もっと常識的な判断しかしない人からは、ひとことヘンな人と切り捨てられてしまったりしている。
私はあくまで推測であるけれども、
いっぺんに人中へ放り出されて、
多くの誤解を彼は受けてしまったのではないかと思う。
高校を卒業後、アルバイトすらしたことがなく、
ひたすら人と交わらず、小説だけを書いてきた経歴から、
あまりにシャイで、
どう対応していいかわからないインタビューがああなったのではないだろうか?
常日頃の彼を良く知っている彼のお母さんが
『極度に緊張していた』
と言われていたのが正解だろう。
自分で自分のインタビュー姿を評して
『まぬけですね』
と答えられていた。
「早くインタビューをやめましょうよ」
と言うのも
「友だちはいません」
と言うのも
嘘いつわりのない本当だったろうと感じた。
『礼儀を知らない』のではなく
礼儀の必要な会話をする環境はなかった。
礼儀を学習する場はこれまでなかった…では?
働くだけの社会性がない彼に
規則正しく小説を書くだけの生活を許し支えた
お母さんの存在は大きい。
おなじく社会性に歪のある息子を育てた母親として、
田中慎弥氏のお母さんに惜しみない拍手を贈る。
耐えて待つ、母親の鏡であろう。
この件については触れないでおこうと思っていた。
ついついいろんなブログを読んでいて
黙っていられなくなった。
上手く世の中を渡っていくことが
どうしてもできない悪意でもなんでもなく
できない人間が居る。
人と交わる事が極端にむつかしい人が存在する。
社交上手が居ればその真逆な人間が居てなんら不思議はない。
人ごとでなく人の好き嫌いを言ってしまう自分であるが、つい彼を擁護したくなった。
自分を良く知っているからこそ、
母子家庭でありながら働く道を選択できなかったではないかと推測する。
人に交わって働くことがどれだけ彼にとって苦痛であるか
お母さんが一番よく知って居られたようにも思う。
印税が入るようになってからは、生活費をお母さんに渡しているそう。
きちんと家の役に立ちたい思いは強くあって尚、自分を立てる道は文筆しかなかったのだろう。
身内の事であるが、甥がせっかく大学を出て就職した会社を辞めて作家になると言い出した。
言い出しただけで、『現在保留』と正月に言っていたので、身内一同安堵した。
芥川賞を受賞=食べてゆけるの図式はまた厳しかろう。
彼の内面はちょっと違うんでないの?と言う記事を見つけた。
外に向けて、書くことに置いては自分を正しく発信できるが
対生身の自分自身となると、
正しく発信するパーツをおそらく持たないのが彼の素地ではないのだろうか?
以下、
朝日新聞山口版で「となりのソファ」という連載エッセイ、
その最終回コピペを置いておく。
◇
小さな旗 田中慎弥 2011年4月11日掲載
今日が最後なので何かそれらしいことを書こうと思っていたところへ、東北・関東を襲う地震。作家なのだから、世の中の重大な出来事には背を向けて、こんな非常時になんと不謹慎な、と眉をひそめられるようなことを書かなくてはならない筈(はず)だが、テレビに映し出される、もの言わぬ地震と津波の圧倒的な威力を見ていると、自分が何かを言ったり書いたりしたところでなんの意味もないのではないか、と感じてしまう。
ここで言う、なんの意味もない、というのは、自分が災害に対して何も出来ない、ということだけではない。私は普段、生きるため、自分のためだけに小説を書いている。収入を得るため、自分自身を解放するため、と言ってもいい。その、自分のための、自分なりに力をこめて書いた小説は、災害ほどには人に影響を与えない、と思ってしまうのだ。そんなことは当たり前だが、例えば被災者が読んで、ほんのわずかな時間だけでも苦しみを忘れるような小説が、書けないものか。災害とは全く無縁の爽やかで美しい作品でもいいし、逆に徹底的に悲惨な人間の姿でもいいし、でなければホラーで怖がらせるか、避難所で読むのがはばかられるドロドロの不倫劇で引きずり回すか。
しかし私はいまのところ、被災した人だろうがそうでない人だろうが、多くの読者を獲得出来るような小説を書けていない。厳しい現実を直接反映させた問題提起型の小説は、現実そのものの前では圧(お)し潰(つぶ)されてしまう。現実を凌駕(りょうが)するか、現実から百歩も千歩もあとずさり、どんどん遠ざかり、逃げ続けるか。どちらにしろコースを一周すれば同じ地点に出る筈だ。そこにしか、小説という小さな旗は立てられない。勿論(もちろん)そのコースは、自分で切り開くしかない。
とりとめのない連載だったのでとりとめのないまま終わることにする。担当記者に感謝。
お笑いコンビ「ロンドンブーツ1号2号」の田村淳(38)。
が下関中央工業高の後輩となるらしい。
私のもっとも嫌いなタイプの芸人であるが、
社会性のあるなし両極端な人物が同じ学窓に学んだと言うのも
なにかしら世の妙味を感じる。
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