脳脊髄液減少症患者のつぶやき、「とりあえず、生きてみよか・・・。」

過去から現在へ、脳脊髄液減少症、体験克服記。

ラベンダーの香り

2006年08月30日 | 闘病の工夫
今日は雨が降ったり、やんだりしていましたが
ムシムシして、クーラーを使ったり、とめたりして過ごしました。

このごろ、
起きていられる時間が長くなってきています。

それでも4日前は、午後起きていられなくなりましたが、
波がありながらも、少しずつ回復を感じています。

今日は
大好きな夏の花、ラベンダーのお話をします。

ラベンダーとのおつきあいは、もうずっと前から続いています。

不眠で苦しんでいた時、
  医師はさまざまな薬を出しました。

抗不安薬、抗うつ薬、睡眠導入剤、などなど。

でも、私は医師との信頼関係が築けず、
あまり服用する気になれませんでした。

服用してみても、
 
 薬の力で無理やり眠りに誘われるのも、眠るのも
    強引な感じで「よい眠り」とはとても思えませんでした。
   翌日の朝もぼーっとして、目覚めも悪い感じです。

そんなある日、
ラベンダーが沈静効果があり、不眠に効くと知ったのです。

以前、ラベンダーの香りをかいで、異次元に行ってしまうSF小説
「時をかける少女」を読んで以来、

 「ラベンダーの香りってどんな香りだろう?」と
   ずっと興味を思っていました。

私は、ある日
思い切って、北海道からラベンダーエッセンスを取り寄せました。

それは、100%ピュアなオイルで
草の香りの中に、初めて嗅ぐ花の香りがしました。

以前から
香水など、人工的に調整された香りは苦手な私でしたが

100%自然のままのオイルは
   不思議にすぐなじめました。

以来、
私の生活にラベンダーはかかせなくなりました。
 
 夜は、枕に一滴たらして眠るようになり、
        いつのまにか、不眠は治っていました。
  
 以来、現在に至るまで、薬は不要になりました。

 今でも、眠る前に、一滴紙にたらして、枕元に置いて寝ています。

この1年、
 症状が悪化してから、本当に生き地獄のような日々でしたが

苦しみで眠りは浅いものの、
なんとか眠れ、
以前のような不眠に苦しむことはありませんでした。

私の体に合っている香りのようです。

アロマテラピーのつもりで、
日常生活に取り入れています。

ラベンダーの入浴剤、

ラベンダーティー

ラベンダーのお香、  などなど、
 
  香りで誘われる眠りは、
        とても自然に感じます。

ラベンダーに出会って以来、
   不眠に苦しむことはなくなりました。

信頼できる医師に出会えず
 あまり薬を過信せずに、

 処方された薬は飲んでみて、
 「この薬は私の症状の適用ではない。」と感じたら
      自分の感覚を信じ、薬はやめてしまいました。
  
 今思うと、結果的にそれが良かったのかもしれません。

 症状の本当の原因は「脳脊髄液減少症」だったのですから。

 たとえ対症療法でも、
 
 各科ごとに違う病名の処方で出された薬を
 すべて忠実に飲んでいたら、
 今頃、体も、脳もおかしくなっていたかもしれません。

 この病気は、すべての診療科に当てはまる
 多くの症状が出ますから
 そのつど症状ごとに薬をもらって飲んでいたら、
 まさに薬漬けです。

  なんとか自分なりに工夫して、生き延びてきたので
   よかったのかもしれません。
  
 もう、明日で8月も終わり。
  ラベンダーの花咲く夏も終わりです。
 
 今夜は、ラベンダーの花つぶの入浴剤で
  最後の夏を惜しんでから、眠ります。

 では、皆様、おやすみなさい。

   

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怒りと復讐心

2006年08月29日 | 心の葛藤
今日は朝から晴れて夏日でした。

よく眠れたせいか、朝の疲れがいつもよりなく体が楽です。
暑さの中にも、秋のさわやかな空気を感じます。

きのうから、わき起こる怒りに
自分でも困惑しています。

時々こういう感情がわいて、抑えきれなくなります。

この病気の精神症状なのか、
生理的な感情の変化か、
はたまた日ごろの押さえつけた感情が爆発するのか・・・?

そんな考えを持つ自分に
自己嫌悪して苦しみます。

本来こういうマイナスの感情を書くことはためらわれます。
でもきょうは、あえて書いてみたいと思います。

一人の「脳脊髄液減少症」患者のきれいごとではなく
正直な気持ちを知っていただきたいから・・・。

「怒りと復讐心」

 この感情は、
普段は心の奥にしまっていますが、
ときどき、しまいきれなくなり、あふれ出てしまいます。

この症状をかかえて生きてきて
「怒り」を感じた対象はたくさんありました。

私をこんな体にした加害者、その親、
無理解な医師、医療スタッフ、医学界、
家族、血縁の人間たち、職場の人びと、友人たち・・・・
私を取り巻く周囲の人間たち、

でも、なぜか、
  一番の怒りの矛先が両親なのです。

私の苦しみ、悲しみの一部始終を
  すべて身近で見ていた人たち。
 
   たぶん、一番理解してほしかったし、
     一番、私の味方でいてほしかったし、
         両親には何よりも大切な存在と思ってほしかったし、
       
   危機に陥った私を、何よりも優先して、
     力を貸して、助けてほしかった人が「両親」だったから
    
 その期待を、裏切られたための「怒り」なのだろうと思います。

恋人とか、友人とかではなく、ましてや医師ではなく、
 なぜ親に、一番にこの苦しみを理解されたいのか?
 
 たぶん、私という存在を産み、育てた親だけには、
    無条件に理解してほしかったのかもしれません。

でも、彼らの生きがいは
仕事であり、趣味であり、他人との交流であり、

地域で感謝される活動であり、
他人から賞賛され、必要とされることであり、

楽しくて、他人に期待され、当てにされるのに忙しくて

  苦しんでいる私よりも、
   すべてそれらを優先されてきたように感じています。

いくら子の回復に尽くしても、報酬もないし、賞賛もされない、
やりがいも喜びもないのでしょう。

私は
 仕事や、つきあいや、趣味や遊びよりも、
後回しにされる価値のない存在。
 
親には「愛されていない。」と時々感じています。

そのことが、とても悲しいのです。

もう、そういう親だとあきらめてみても、
やっぱり悲しいのです。

私のしんどさ苦しさを
いつも
「もう、大丈夫だろう?」
「動かなきゃ、なおらないよ。」
「誰だって痛いところはあるよ。」
「もういい加減、治るんじゃない?」

人と比べて、
あの人だって、親だって、祖母だって「痛いとこあったって」がんばってると
叱咤激励ばかり、
普通の人のだるさや痛さとレベルも質も違うのに・・・。

「誰でもつらいのをがんばっている。」
だから、がんばれ、がんばれ、ばかり。

もう、私はもう充分過ぎる量と期間、がんばっているのに。

これ以上どうがんばれというのでしょう?

人の本当の苦しみの深さも知らないで、
なんで、がんばらせるのでしょうか?

親は、自分の仕事や趣味や他人との交流がしたくて
 ウズウズして、
 私の世話や精神的な支援なんか、していられないという感じ。
 
 自分たちは元気だから、
   よけい私の苦しみ体のつらさの深刻さが理解してもらえない。

 弱音を吐くと、癒してもらえるどころか、
悪気はないのだろうけれど、言葉でさらにズタズタに傷つけられ、
 
 想像を絶する「脳脊髄液減少症」の複雑怪奇な症状を
    決して理解してもらえないのです。
 
 事故以来、身近で苦しむ姿を見ている肉親ですら、このありさまです。
 
ましてや、突然会う、この病気を知らない医師に
わかってもらえないのも無理はないと思います。
 これが、この病気の悲劇。

溺れかけて、苦しい、苦しいともがいているのに
 岸にいる多くの人々に笑って観察されているような
  誰も助けに来てくれず、浮き輪も投げ込まれないときのような絶望感。

 死なないけれど、死にそうな、ぎりぎりの苦しい状況を
   「ほっといても死なないから大丈夫。」と
    遠くで冷笑して見られているような、絶望感。

誰を信じたらいいのでしょう?

誰がわかってくれるのでしょう?
 
 ああ、
  私がいたいけな幼子だったら、
症状を信じてもらえたのでしょうか?

親は私を抱えて、病院めぐり、医師めぐりをしてくれたのでしょうか?

「この子が治るためなら、なんでもする。」と思ってくれたのでしょうか?

 症状を「気のせい」という医者に激しく抗議してくれたのでしょうか?

  私がいい大人だから、私への支援をしたがらないのでしょうか?
 
 本当は、病名がついた今でも、
      ただの甘え、なまけ者とでも思っているのでしょうか?

悲しみを我慢し、あきらめようとしても、
 
 悲しみは怒りに変わり、
     蓄積し、発酵し、
      やがて「復讐心」になっていくことを、私は止められないのです。

いつかきっと治ってやる。

絶対、親より長生きしてやる!。

そして、同じように、親が寝たきりになって、自力で動けなくなった時、

今度は私が、病人ほったらかしにして
仕事や趣味や、他人との交流で忙しく出歩ってやる!。

病人の苦しみには耳を傾けず、
「誰でもつらいよ。」とかわし、おもしろおかしく遊びまわってやる!。
 
 病人が「日常生活ができないから助けて」と言っても
「仕事が忙しいから!」と言って、手伝わない!。

  「自分でやれば?大丈夫でしょう?少しは動かないとよけい治らないよ。」
  と私が言われた同じ言葉を使ってやりたい!。
 
私が言われ、されたことの悲しみは、立場が逆転した時にはじめて
わかってもらえるのでしょうか?
それでもわかってもらえないかもしれないけれど・・・。

親が死ぬまでに、私の苦しみは理解してもらえるのでしょうか?

元気な親が病に付して、何年か寝ついて初めて
私の体験した苦しみをわかってもらえるのでしょうか?

「あの時、あなたは、こんなふうに、動けなくて、
  生活のすべてがつらかったんだね。
     充分わかってあげられなくて、助けてあげられなくてごめんね。」と
                  言ってもらえるのでしょうか?

いつか人は老いて、死ぬ。
その前に、誰でも多かれ少なかれ必ず動けなくなり、人の手を借りる時がきます。

その時になれば、もしかしたら、わかってもらえるかもしれないと思うと
どうか、急死しないで、何年か寝ついて苦しんで、
擬似体験してほしい、とさえ思ってしまうひどい私がいます。

せめて、親が死ぬ前に私の苦しみを理解してもらい、
最後に親子でわかりあいたい。

深い溝を埋めて和解しあって親子を終わりたい。

そこまで考える私。

そうまでして、「理解してもらいたい。」と考える自分が哀れです。

お金や衣類や食べ物は与えてくれるけれど、
もちろん、体力的につらいとき少しは労働提供してくれたけれど
ありがたくて、感謝しているけれど
 何か違う。
  それは、思いやりからではなく、頼まれたから。
 助けを求められたから、しかたなく。

 自発的な愛情からではない支援なんて、本当はいらない。
  でも、助けてもらわなければ、生活が成り立たなかった。
 
  一番、私がほしいものはお金や物じゃない。

  私がほしいものは「無条件の愛」と「無条件の理解」

  自発的にいただける、あたたかな「慈しみの気持ち」

       あたたかな「受容と共感の言葉」

なのに、一番ほしいものは、幼いころから決して与えてくれない親。

私の苦しみをわかってくれなくてもいいから、
「わかろうとして」ほしい!。
 「理解しようとして」ほしい!。
   「想像して」ほしい!”。

  一緒に嘆き、一緒に泣き、一緒に悲しみ、一緒に怒ってほしい。
   
    ありのままの私の気持ちによりそってほしい。

私が、今、何に困り、何に苦しみ、どんな感情を抱えているかに
せめて想像をめぐらせてほしい。
 
 そうしてくれたら、どんなに気持ちが楽になるかしれないのに。

泣けば「なにが気に入らないんだ!」と涙を止められ、
 嘆けば、「そんな根性だからダメなんだ。」と責められ、

どんなに言葉を尽くして訴えても
  私の気持ちは伝わらない、
        「健康と幸せに恵まれた」人たち。
           
  無関心な親、血縁たち。
  一番理解してほしい、一番血のつながりの濃い人たち。
 一番人生の時間を長く暮らした人たちなのに

    私とその人たちとの間に広がる深い深い溝。

  もちろん理解し支えてくれる人もいる。
    
その人たちがいるから絶望しないで生きてこれた私。

それでも、
  親には理解してもらうことを、あきらめきれない私。
      幼いころから両親の愛に飢えているのかもしれません。

どうやって、この溝を埋めたらいいのだろう?
親が亡くなるまでに、なんとか理解しあいたい。

 怒りと復讐心。
 マイナスの感情をもてあまし、
  どう解消したらいいのか、苦しんでいます。
 
 こういう感情も病気の一症状なのでしょうか?
 
 それとも、
 こういう状況に置かれたら、
 こういう症状に長期間苦しめられたら、
人が当たり前に感じる感情なのでしょうか?
 
 今の私には、わからないのです。

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交通事故の悲しみ

2006年08月28日 | つぶやき
今日はとても涼しく、過ごしやすい朝です。
初秋を感じます。

今日はひとりです。

家族とはいえ、誰かがいると疲れ、
ひとりになるとほっとするのは
やはり孤独が好きなのでしょうか?

飲酒運転の車に追突され、
3人の幼い子が亡くなった事故をニュースで知りました。

やりきれません。

おそらく、
加害者は服役後は
人生をそれなりに楽しむことができるでしょう。

でも、もう3人の子には人生はないのです。
3人を一度に失った両親の悲しみに終わりはないのです。

どうして、この社会はやられ損の社会なのでしょうか?

死んだ被害者、とその遺族
怪我した被害者
後遺症で何年も苦しむ被害者より

加害者の人権ばかりが優遇されているように感じるのは
私だけでしょうか?

もう少し、被害者支援に力を入れてほしい。

身近に飲酒運転で若い命が絶たれた事故がありました。

若者の続くべき輝かしい未来が絶たれた無念を思うと
本当に悲しく、やりきれません。

お酒を飲んで平気で車で帰ろうとする人、
それを黙認する人、
少し休めば大丈夫だよ、と運転者にお酒を平気で出す人々。

お酒を飲んで、少し休んだお父さんの車に
平気で子供を乗せる母親。

アルコールの本当の怖さを知らない人たちに
強い怒りを感じます。

アルコールの入った飲み物は、
体にとって
のどの渇きを癒す水分がわりにはなりません。

お酒に甘い日本社会を変えたい。

広い駐車場のある居酒屋の開業はやめてほしい!

小学生、中学生、高校生の時に
飲酒運転の罪の深さ、怖さ、
アルコールの脳に及ぼす害について
国が学校教育の中で
徹底的に叩き込んでほしい!

飲酒運転が
「人間としての恥」「軽蔑の対象」
と社会全体が思えるようになる日が来るまで・・・。

交通事故は自分の人生も
他人の人生も
メチャメチャにしてしまいます。

過失の事故でも悲惨なのに、
あえて、アルコールで思考力の劣った状態で
引き起こす事故の悪質さに気づいてほしい。

「酒を飲んでいる自分を知りながらの運転」は
社会全体で取り組めば
きっとやめさせられるはず。

それは、大人になってからの飲酒運転取締り強化より

幼いころからの
徹底的なアルコール教育、安全教育のほうが
効果的だと私は考えています。

せっかく与えられた自分の人生も
他人の人生も
大切にする人間を
これから育てていきたい。

そのために
私たち大人が、
社会を変えていかなければと思います。

苦しみから立ち上がった
被害者や遺族は
その痛み、苦しみを
生の声で
子供たちに伝え続けなければと思います。

ちなみに
「脳脊髄液減少症」とわからないまま、
保険会社、医療、社会から、なんの支援もなく
生きてきた私。

医師や家族や周囲の無理解に
精神的にも、経済的にも苦しみながらも
生きながらえてきた私。

私は
交通事故の被害者のひとりです。

ドライバーの皆様
 お願いです。

どうか絶対に飲酒運転はしないで

自分の人生、
  家族の人生、
    他人の人生を

 もっと大切に、生きてください・・・。


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うなぎでリハビリ

2006年08月27日 | 四季の風景
昨日は、朝から涼しい1日でした。
雨あがりの空気はひんやりして、すごしやすく
夜にはコオロギが鳴いて
夏の終わりを感じました。

今日も朝から涼しいです。
秋ですねぇ。
でも体はなぜかだるい。

今朝は寝起きがすごくつらかった。

この病気の方ならわかっていただけますか?
この朝のつらさ、だるさ、動けなさ。

さて、今日は
「うなぎ」が「私のリハビリ」につながったお話をしたいと思います。

前回書いたように
うなぎの好物が「ミミズ」と判明し、

特に「天然ものの土中のミミズ」が大好物
とわかりました。

しかし、なぜ、水中のうなぎが
土中のミミズを好むのか?
疑問は深まるばかりです。

当時、私はほとんど庭にもでられない状態でしたので
土中の天然ミミズをうなぎのために
毎回用意することはできません。

そこで、
釣具店で買ったミミズが
うなぎのえさになりました。

しかし、ミミズにもいろいろあるようで
さらに、うなぎを観察すると、
うなぎにはミミズの太さに好みがあるらしいのです。

以前あげたような、細いミミズは
あまりお好みではない様子。

家族はだんだん、太いミミズに代えて買ってきました。

最後にたどりついたのが
庭のミミズと同じ太さのかなり大きいサイズ。

太さ7ミリ、長さ10センチくらいのミミズです。

ついに、
このサイズのミミズが
一番のうなぎの好物だということを発見しました。

でも、釣り用の極太ミミズを買っていた時は
思いっきり食べさせてあげられませんでした。
1匹か2匹ずつ。

なにしろ、釣り用の極太ミミズは一箱600円もするのです。
普通サイズのミミズは1箱450円です。

最近私は、あのうなぎの見事な食べっぷりが見たくて
短時間、庭に出て、ミミズを探すようになりました。

あまり、長い時間体を起していると苦しくなるのですが

幸い、庭はミミズの宝庫で、
枯れ枝をよけたり、植木鉢をよけるとすぐ
太いみみずを10匹くらい捕まえることができました。
この夏、ミミズ探しが日課になりました。

「脳脊髄液減少症」の悪化以来、
仕事で稼げない私は、
せめて、「うなぎのえさ代」くらい稼がなければ!という
欲?も出てきました。

太ミミズがたくさん見つかったときは
すごくワクワクして、
まるで「大漁」のような気持ちになります。

同時に、いも堀りのような、「収穫の喜び」も感じます。
ささやかな楽しみです。

ミミズは大嫌いなはずなのに、
軍手をして、ミミズ取りに励む私。

ミミズは意外にすばしっこくて
逃げ回るのを軍手をして捕まえるのは
うなぎを捕まえているようでけっこう大変です。
でも、けっこう面白い。

見つけても
あっという間に土にもぐりこんでしまう。
シッポを捕まえても、もぐりこむとなかなか引っ張りだせない。
意外な力。

そうしてとったミミズは直接さわれないので、
割り箸でうどんのように1匹ずつつまみ
水槽に入れます。

すると、うなぎは目にも止まらぬ速さで
長くて太いミミズを一気に飲み込んでしまうのです。

頭から、しっぽから、
そして、ミミズの中央から二つ折にして、と
いろいろな飲み込み方で一気に・・・。

しかも一回の食事で多い日にはミミズを8匹は飲みこみます。
ある一定量食べると、もう見向きもしない。

うなぎの胃袋はどうなっているのか?

うなぎの胃袋でうごめいているであろう8匹のミミズたち。

想像して、ふるえあがりつつも、

うなぎの食べる姿みたさに、
ミミズ取りに励む私。

それは2~3分の短い時間ですが
毎日、少しずつ外に出るようになりました。

朝や昼間や夕方、
蚊に刺されながらも、
この夏、ミミズとりが日課になりました。

春のころはそんな気力もなく
買ったミミズをうなぎにやっていたのですが、

最近のうなぎは
私の「獲りたて産地直送」ミミズを食べています。

ふと気づけは
冷房の部屋から
夏の外気に私を引きずり出し、
日々リハビリしてくれた「うなぎ」。

ミミズ取りついでに毎日数本ずつ
草むしりしたら、庭も少しきれいになりました。

まさに、チリも積もれば山となる。

雑草が減った庭を見て、
「けっこう、私、役にたつじゃない。」と前向きな思考の効果も。

秋の風を感じるこのごろ
ゆっくり、ゆっくり、
この夏、気力体力とも回復を感じる私。

「うなぎのえさ取り」という「作業療法」?が
リハビリになったような気がしています。

無意識のうちに、
この夏
「うなぎでリハビリ」していた、私、でした。


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うなぎとミミズ

2006年08月25日 | 四季の風景
今日は朝から曇っています。
ムシムシと暑いです。
今日の体調はまずまずです、。気持ちが楽に感じています。
しかし、午後から、また起きていられなくなり
横になりました。

さて、先のうなぎの話のつづきです。

うなぎを飼うと言っても、
最初は「食べるまでの暫定的な措置」という感じでした。

生きたうなぎをサバける人が見つかるまでの
一時的な飼育。

せっかくの国内産高級うなぎです。
まだ、食べることは捨てきれずにいました。

うなぎやさんに頼んでみようか?とか
思い切って、サバいてみようか?とか
皆で何日か考えていましたが、

迷っているうちにえさもわからず、
日にちが過ぎ、うなぎがやせはじめたように感じ、

それでは、と
「二匹とも少し太らせてから食べよう!」
と言うことになりました。

しかし、ケンカして1匹が死に、
1匹だけ食べてもしかたがない気がするのと
情も移ってとてもサバいて食べる気になれなくなり、
飼いつづける羽目になりました。

正直、うなぎなんて飼いたくありませんでした。
食べることは好きですが・・・。

えさがわからず困っていたある日、
家族が偶然、
テレビで養殖うなぎに、
バケツからミミズをシャベルでばらまいている映像を見て、

うなぎのえさは「ミミズだ。」と気づいたのです。

私は「ミミズなんか食べるはずがない!。」と思いました。

うなぎは小エビとか
おいしいものしか食べないと思い込んでいましたし、
いずれヒトが食べようと思っているうなぎには
「ミミズ」ではなく、「食用えび」で太ってもらいたかったのです。

でも、私たちが喜んで蒲焼で食べてる天然うなぎは
たぶん「ミミズ」を食べているのだと思います。

ですから、「ミミズを食べて育ったうなぎは食べたくない。」
と言うのは変ですよね。
でも、皆、本当にその時はそう思っていました。

うなぎのえさは「ミミズ」だと確信をもった家族が
ペットショップで小さいミミズ?を買ってきました。

最初に家族が買ってきたミミズは熱帯魚用?の
赤くて、細くて、小さい、糸のようなミミズ?虫?が
キューブ状に冷凍されて固まって
キャラメルみたいになっているものでした。

ためしにやってみると
な・ん・と!
水にとけてばらけた赤い糸みたいなものを食べる。

しかし、なんか食べっぷりは悪い感じ。

でも、「うなぎはミミズが好き?。」
そう確信を持った家族は

たまたま、庭で見つけたふつうのミミズを
うなぎに「やってみる。」というのです。

私はやめてほしかったのですが
ついに、生きたミミズが水槽内へ・・・。

す・る・と、

うなぎは、ものすごい速さでミミズに食らいつき
あっという間にまる飲みしてしまいました。

びっくり!

その様子は明らかに
「ペットショップのえさの反応」とも、
「えびやシラコのえさの反応」とも違っていました。

ミミズを食べるうなぎの姿は
嬉々として、

「うまいよ~。おいしいよ~。」
はしゃいでいるようにも見えました。

「何日ぶりだよ~天然もののミミズ。
たまらないよ~。もっとちょうだ~いよ~。」

と言っているかのように
ニョロニョロ、クネクネと頭をフリフリ
えさを探しまわるように動くのです。

驚きました。
まさか、うなぎが「地面にいるミミズ」が好物だったとは・・・。

魚類に疎い、私の知識では想定外のことでした。

(次回につづく)


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うなぎ  

2006年08月24日 | 四季の風景
今日は朝は雨でしたが、
だんだん晴れてきました。
睡眠不足のせいかだるくて
午前中は起きていられず、横になっていました。

さて、きょうはうなぎの話をします。

土用の丑の日に食べたうなぎの蒲焼。
うなぎはなぜ夏のスタミナ源なのか?

栄養があるから?
脂がパワーの源になるから?

最近私は、その秘密がわかった気がしています。

実はうなぎを飼ってます。

数年前の夏、
まだ私が動けたころ、
静岡産のうなぎを2匹、家族が生きたままもらってきたのです。

生きたうなぎはへびのようで、もう、正直パニックでした。

しかし、私を含め、生きたうなぎをサバける人など
家族に誰もいません。
どうしようかと悩みました。

生きたまま冷蔵庫で凍らせることも考えましたが
ヘビのようにニョロニョロと動き、怖くてできませんでした。

二匹とも水槽で飼うことにしました。
その日のうちに水槽とエアポンプを購入しました。

もらってきた人は、「今夜は蒲焼だぁ~。」と浮かれて
いたので、食べられないことになり
 がっかりしてました。

うなぎは二匹で
最初は仲良く暮らしているようでしたが

まもなく狭い水槽で縄ばり争い?が起き
激しい戦いの挙句、
1匹が首を噛まれて致命傷となり、亡くなりました。
うなぎに歯があるのでしょうか?

「うなぎのドウモウさ」をはじめて知りました。

うなぎを飼い始めたころ、
水槽を買うときに一緒に買ったえさをあげてました。

えさは何を食べるのかわからず、
ペットショップで係の店員さんに相談すると
深海魚が食べる餌がいいのかもというので
買った餌です。

でも水が汚れるばかりで
あまりたべませんでした。

ミジンコかも、と思ってやってみましたが
これも、水が汚れるだけで食べた様子はありません。

自分で調べ、考えて、「えび」がいいのではと思い、
ぜいたくにも、人間用のえびをきざんであげてみました。
また魚のシラコもやってみました。

すると、食べるのですが
「いやいやしかたなく食べている感じ。」なのです。
うなぎは何を食べて成長しているのか?
なにがお好みなのか?
わからないまま、月日が過ぎ、
「えびとシラコ」でなんとかうなぎは生活していました。

そのうち、私が寝たきり状態になり、
誰にもずっと、えさもかまわれず放置されていました。

なのに、ずっと生きているのです。
すごい生命力。

水も代えず、何ヶ月も食べずに生きてる。
水槽の藻でも食べていたのか?
冬だったので冬眠していたのか?
うなぎは冬眠するのか?
謎です。

水を代えるときでも、
水道水を直接いれても、金魚のように死なない!。
水道水を汲み置きして、塩素を抜いてなんてことしなくても
平気なうなぎ。

うなぎってこんなに強い生き物だったんだと
はじめて知った私。

この強靭な生命力だからこそ、
食べると、精がつくのかも?と気づきました。

蒲焼で食べられるはずが命びろいし、
えさも与えられず放置され、
それでもなお、生き延びたうなぎ。

逆境をしぶとく生き抜いた
狭い水槽のうなぎを見て、なんだか励まされ

後遺症、手術、そして脳脊髄液減少症の苦しみで
この1年、自力で外出もできず、
狭い家の中でしか生きていない私も
「しぶとく生きるぞ!」と思いました。

ありがとう!うなぎクン(ちゃん?性別不明)

(次回につづく)(次回は「うなぎでリハビリ」)





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味覚障害

2006年08月23日 | 症状の説明
今日は暦の上で「処暑」だそうです。
暑さが峠を越えるころだそうですが、
朝から日も出て、気温も上がりムシムシしています。
でも体調は昨日より、良く体が楽です。
起きていられます。
朝はいつもなかなか動けないのですが、体が動きやすい感じがします。

さて、今日は味覚についてお話します。

味がわからない時があります。
ふだんは味がわかっていないことに気づきません。

みんなが「おいしい」というのに
「そうかな?おいしくないなぁ。」
みんなが「ちょうどいい味」というのに
「そうかな?味うすくない?」
という程度。

ただ、同じ既製商品やお店の同じ料理など
味が一定していると思われる食べ物で
以前記憶した味と、あきらかに違う味に感じた時だけ

「あれ?」とその違いに気づきます。

甘い、辛い、酸っぱい、塩からい、苦い。
味覚は人間にとって
身を守る大切な感覚でもあります。

「いつもと味が違う」、「味が変わっている」、などの感覚。
それで、人は「食物の経時的変化や異常」、「異物の混入」、
「食用と食用でないもの」などを
とっさに判断したりします。

人が
まずかったり、変な味がしたり、苦かったりした時
とっさに吐き出したりするのは、
本能的に命を守るための手段なのでしょう。

しかし、味覚が衰えると、食事の楽しみがなくなるばかりではなく、
そういう身を守る本能が衰えてしまうようにも思います。

味がぼやけ、薄く感じ何を食べても、インパクトに欠ける味付けで
「おいしい」と感じない時があります。
でも、亜鉛不足からくる普通の味覚障害や
歯科や口腔外科領域の味覚障害と違うのは

いつもそうではなく、症状は強かったり、弱まったり、
消えたり、また現れたりと
他の「脳脊髄液減少症」の症状と同じように
日によって波があることです。

でも、こんな症状は、本人が味を感じていなくても、
周囲には関係ないことですし、他人にはわからないし、

味がわからなくても本人が食べてさえいれば、餓死することもないし、
安全な食流通や冷蔵庫のある現代の生活では
味覚が鈍いからといって生命の危険もなく、
得に治療の対象になる症状ではないようです。

入院中、
病院の食事の味が異常に薄く感じ、
「味がうすく感じてわからない」と
看護師さんに伝えてみましたが

「病院の味付けは薄いから。」で終わってしまいました。

たぶん、
この病の一症状としての認識がなく、
医師にも私の訴えは伝わっていないことでしょう。

でも、当の本人は食事がおもしろくなく楽しさが半減し、
けっこうつらいものです。
まさに「人生の質」の低下です。

考えてみてください。
食感はわかっても味や香りがわからない感覚を。

たとえて言うなら、
大根とりんごとジャガイモをかじった時
本来味がまったく違うけれど、味がぼやけているために
食感がガリガリサクサクと似ていて
同じように感じてしまう感覚かな。

大好きないちごシェイクも
いちごの香りも味も甘さもミルクの味も感じず、
いちごの種のつぶつぶだけは感じるけれど
まるで水でうすめた牛乳を飲んでいるように
感じた時もありました。

特に、甘さとしょっぱさが鈍くなる感じです。

ところが、最近、回復して味覚がもどったのかと
感じるできごとがありました。

先日、とある既製品を口にして驚きました。
家族がいつも「おいしい」と言っていたもので
わたしはそうは感じなかったものです。
でも、今回8月20日に食べた時「えっ~。前からこんな味だった?」
と驚きました。

私が以前食べた時記憶した味とまったく違っていたのです。
以前と違って味が生き生きと感じ、「おいしく」感じたのです。

びっくりしました。
既製品なので、味付けが変わったとは思えません。
病気の回復とともに味覚が戻って繊細になってきたとしか思えません。
感動しました。
しらなかった。こんなにおいしい味だったのかと。

とすると、こんな味覚障害の人においしい商品を
「まずい」と評価されたり、クレームつけられたりしたら
お店も企業もたまりません.

料理人の方が「脳脊髄液減少症」の味覚障害になってしまったら、
健康なときに覚えた感だけで味付けしなければなりませんから、
仕事にならず、死活問題でしょう。
それ以前に、「立っていられない。」症状で仕事にならないかもしれませんが。

味覚も脳が感じます。
脳が調子悪い状態に置かれたら、
味も感じにくくなるのだと思います。

この事実は医師だけでなく、
歯科医師の方がたにもぜひ知っていただきたいと
思います。
歯科医師の方がたも、
どうかこの病気の研究と治療にお力をお貸しください。
お願いします。

私はこの病気の経過が長いので
「脳脊髄液減少症」という病の症状の
「多彩なメニュー」のフルコースを味わってしまった感じです。

順次、この「症状フルコースメニュー」をご紹介します。

経過の短い方には現れない
体験しない症状かもしれません。

だまっていれば普通の人に見える私。

今まで我慢し、だまっていたものが
一気にあふれ出しそうです。

普段あたりまえに感じている「味」ですが
味覚とは
繊細で、ありがたい感覚です。

味覚障害のない方がたも
食べているとき、
「脳で感じる」このありがたい感覚を
ちょっとだけ意識してみてください。




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社会不安障害

2006年08月22日 | 症状の説明

今日は雲が多い日ですがむし暑い一日です。
朝は調子良かったのですが、まもなく呼吸が苦しくなり、休んでいました。

今日、夜のNHK「きょうの健康」で放送する「社会不安障害」。
以前から興味があったので見てみます。

昨日放送の「パニック障害」。
明日放送の「強迫性障害」。

さらに、うつ病とか、
そういった独立した名前を持った心の病とされる症状の中に

私の症状や経過の体験から、
どうも、「脳脊髄液減少症」が関係している例があるように思えて
しかたがありません。

脳の働きが悪くなれば、すべて起こりうることで、
 脳脊髄液の減少でそういう症状が誘発されても不思議ではないはずです。

 なのに、この関係性について
精神科の医師はほとんど関心を持ってくださらないのが
現実ではないでしょうか?

症状のひとつひとつは確かに
うつ、でもあり、
パニック障害でもあり、
社会不安障害ともいえる症状でも

その根本原因が、私の場合、
「脳脊髄液減少症」にあったという事実。

「脳脊髄液減少症の治療」をしたことで、
次第にそういった症状も
やわらぎ、改善してきています。

この体験からも私はとうてい無関係とは思えません。

多くの「脳脊髄液減少症」の方がたは
多かれ少なかれ、
さまざまな精神症状を体験されているのではないでしょうか?

そして、「体に何の原因もない、純粋に精神の不調」だと
医師に間違って認識され、
自分もそう思い込んでしまった経験もあるのではないでしょうか?。

「脳機能を低下させるような体の疾患」は
何も脳梗塞など、脳の直接の病気だけではないはずです。

多くの精神科の医師の方がたが、この事実に目を向けて、
「脳脊髄液減少症の一症状としての精神症状」の緩和や
この病の研究にお力をお貸しいただきたいと
私は、切に願っております。

参考:
SAD総合情報サイト

 
 


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いちごシェイク

2006年08月21日 | 小さな幸せ
朝は晴れていましたが、午後から曇ってきました。
けさは寝起きがよく、いつもより動ける朝です。

少しずつ、少しずつ、起きていられる時間が延びてきました。

夏もあとわずか。
今日は暑い夏の大好きな飲み物
いちごシェイクのお話をします。

私はいちごが好きで旬の時期には、
そのまま食べるのですが、
暑い夏の
いちごシェイクは大好きです。

いちごはビタミンCが豊富で、体にもいいし、
色白の美肌になる効果があるそうですが

私に効果は出ているのか、いないのか?

いちごの出回る時期に
洗って、へたを取って、冷凍したいちご。

暑い真夏に
凍ったいちごと牛乳をミキサーに入れるだけ。
ジェラートのような、どこのお店にも負けない
自家製いちごシェイクのできあがりです。

味を見て、お湯で溶いたお砂糖を
加えて好みの甘さにします。

「はちみつ」も加えてためしてみたけれど
クセのないお砂糖のほうが、いちごの味が生きます。

最近は
少しでも病んだ体にいいようにと
ミネラル豊富な精製されていない茶色いお砂糖を
使っています。

こうやっていろいろと
飲み物は工夫しています。

普通の水やお茶は
すぐ体を通り抜けてしまうけれど、
牛乳は普通の水分より
体にとどまる感じがします。

おいしくて、幸せな気分になれる飲み物は
体だけでなく、
心も元気にしてくれます。

冷たいけれど、
私にとって「いちごシェイク」は

暑くて気分がどんよりしているとき、

気分がシャキッとして
目がパッチリと全開になるような気がする、
癒し系ドリンクです。

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夏まつり

2006年08月20日 | 小さな幸せ
夏の夕暮れ
ゆうやけの入道雲

ひぐらしぜみの鳴き声

遠くから聞こえてくる
夏祭りの太鼓と歌声

お祭りで最後に踊ったのは
いつのことでしょう。

幼いころ浴衣をきて
祖父に背負われて行った夏祭り
背中で聞いた和太鼓のリズム

幸せだった幼いころの夏を
思い出させる
大人になっても私が大好きな
和太鼓のリズム

ウキウキと身も心も躍りだす
大好きなあの音と抑揚のあるリズム

ゆかたを着て、踊りの輪に入って
疲れはてるまで踊ってみたい

「踊り続ける」ということは
立ち続け、歩き続け
手足を自由に動かし続けるということ。

健康な人が
当たり前に行っていることが
今の私にはできないのです。

見た目ではとうてい病人には見えない私。

でも、全身のだるさと脱力と
手足の動かしずらさと力の伝わりずらさ
体を起こしていると呼吸も心臓も苦しくなる
本人にしかわからない症状で

踊ることはおろか
座っていることも、立っていることもつらいのです。

最近、少しずつ回復し、
短い時間なら座っていられるようになりました。
横になっている時間も短くなってきたので

家族に車で祭会場の近くまで連れていってもらいました。
祭のちょうちんの光が近づいてきて、

やがて、車窓から流れこんでくる屋台の焼きそばの香り、
屋台の、裸電球のオレンジの光と発電機の音
人々のざわめき、笑い声

五感は衰えているけれど
視覚と嗅覚と聴覚で
ささやかでも「日本の夏まつり」を感じるひととき

幸せそうな人々を見ても
いつもの、悔しさ、悲しさ、怒りはなく

昨年にくらべ、
こうして遠くからでも夏祭りを感じられた今年の夏に
穏やかな気持ちで、
喜びを感じています。

回復しつつあり、気持ちにも良い変化が出てきたのかもしれません。

日本の夏も、もうすぐ終わり。

残りわずかな
過ぎ行く夏を
可能な限り、たくさん感じたい。

夏が終わる前に
せめて、気力と体力をふりしぼって
しまいこんだゆかたでも引っ張りだして

数年ぶりに袖を通してみましょうか。





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汗がでない

2006年08月19日 | 症状の説明
今日も朝から暑い一日です。
日中は30度を越えそうだと天気予報が伝えていました。

私は、きのう、今日と起きて歩けるので
調子はいいほうです。

ところで、
暑いときにでる汗ですが、
私はあまり汗をかきません。
長い間、ほとんど汗をかかないので、そういう体質だと思いこんでいました。

暑い中に一緒にいて、
ダラダラと流れるような汗をかいている人を見て不思議でした。

汗をかかないので、いつも涼しげな顔をしているように見られました。

しかし、この病気とわかって
「汗をかかない謎」が解けました。

暑い中にいて、汗をかかないのではなく
病気で体が「汗をかけなかった」のだと気づきました。

汗は嫌われがちですが、
暑い時には、ダラダラと汗をかくのが普通なのだと思います。

病気のせいで、
汗を出す自律神経がおかしくなっていたように思います。

汗をかく、体温をさげる、のどがかわく、水分を補給する、また汗をかいて
体温を調節する、という自然の体のシステムが
狂ってしまっている感じです。

普段あたりまえに出る汗にも、
体を快適に守る仕組みがあるのですね。

汗がでないということは
それだけでも、体を守る仕組みが低下しているのです。
健康な人より、弱ってしまうのはあたえまえです。

さて、
きょうはどんな飲み物で病んだ体を潤しましょう。
冷たい麦茶ばかりではいけないので
あたたかい紅茶でも自分のために
入れましょうか?
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ある夏の風景

2006年08月18日 | 四季の風景
絶え間なく聞こえる
川の水音

外には淡い紫の朝顔
花びらの先が紫から白にグラデーションしている
大輪の朝顔

ひんやりと澄んだ空気

カナカナと
さざ波のようによせては返す
ひぐらしぜみの羽音

濃い緑の森を
吹き抜けてくる涼風

その風に、リン、と鳴る風鈴

しびれた体を横たえ
ぼんやりと夏を感じる

ささやかな
やすらぎのひととき

自然はいつも
私をありのままに受け入れ、
あたたかく包み、抱き、
無言でなぐさめ、
静かに励まし、
生きている喜びを教えてくれる。

次の夏
また、素敵な自然に会いたいから
きっと、今より治ってやると
目を閉じて
静かに思う
ある夏の日。
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慢性疲労状態

2006年08月17日 | 症状の説明
私は、いつも、もう何年も何年も
「常に疲れきっている状態」で生きています。

それはまさしく、慢性疲労の状態です。

たぶん「慢性疲労症候群」と診断された方の中に
「脳脊髄液減少症」の方がいるのではないでしょうか?
何か関係があるような気がしています。
やがて、はっきりすることでしょう。

このだるさを、普通の方に理解してもらうのは難しいと思います。
このだるさは通常のだるさとは比べ物にならないほどの
「異常なだるさ」です。

全身に手足1本1本に砂袋でもつけられているような、
自分の手足の重さ、体の重さで動けないような
そんなだるさと重さ、倦怠感。

39度以上の高熱を出しているとき、
さらに米俵を背負って歩くような、しんどさ。
いえ、それ以上の激しい全身の倦怠感。

だるくて横になってもつらく、
体に触られるのも重く感じるほどの、
身の置き所のない、けだるさです。

マラソンで走って走って、もう限界になり、倒れこむ寸前のような感じ。
常にその状態で生活し、仕事をしなければならないつらさ。
それが、延々と何年も終わることなく、続くのです。

そんな状況で生きていることを理解されることもなく、
だるくて思うように動けないのに、周囲に責め立てられながら、
毎日毎日、何年も生きなければならない現実。

気にならないほどに軽快したり、動けないほどに悪化したりするため
さらに、理解されることは難しく、
仮病扱いされることもあります。

スッキリとだるさから開放されることもなく、
延々と身体的にも、精神的にも苦しみ続けるのです。

本を持つのも重い、箸を持つのさえ重い、
水の入ったコップを口に運ぶのも
歯を磨くのもだるくてつらい。
洋服の重さで着替えるのも大変な状況。

こんな状況で「異常なし、気のせい」とされて
生きてこなければならなかった苦しさを
想像できますでしょうか?

生活がなりたたないか、やっとなりたつような状況で耐えつづけ、
しかも「病気」とされず、理解されないのでは
どんなに忍耐強い人間でも
生きているのがつらくなって当たり前です。

私の場合、最近まで病名もつかず、社会や医療から放置されてきました。

この激しい倦怠感、だるさを、健常な方にお伝えするのは大変難しい。
この病気になってみなければわからないのです。

おそらく、
外見からでは、
「動きののろい人間」か、「怠け者」、
何事もおっくうがる「うつ状態」くらいにしか見えないでしょう。

まさか、こんな激しい倦怠感の中、
必死で生きているとは想像もできないはずです。

この病になってみればわかります。

こんなに激しいだるさは、
多くの方が
通常の一般的な病気では経験したことがないはずです。

ゴロゴロしていて、テキパキと動けない人の中には、
こういった症状で苦しんでいる人間もいることを
覚えておいてください。

 その人の努力でどうにかなるものではなく
 「体の病気なのだ」という認識をもって、
どうか、私たちを暖かく支えてください。

 患者の苦しみを
少しでも想像していただけたらと思います。

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かき氷

2006年08月16日 | 小さな幸せ
昨夜、
かき氷を食べました。
家で、氷をカキ氷機で削って
イチゴシロップをかけて食べました。
ひさしぶりに、おかわりして何杯も食べました。

この病気に水分補給は不可欠ですが
かき氷もいいものです。
暑い夏にしか食べられないのですから。

かき氷は
わずかですが水分補給と
ノスタルジックな癒しを兼ねていて
病気に苦しむ私にとって、ささやかな幸せのひとときでした。

赤いイチゴシロップの香りで
私はたちまちタイムスリップしたかのように
遠い昔の、
幼かったあのころが
ふわーっと
思い出されてきました。

なんの不安も悲しみも、
つらさもなかったあのころが懐かしい。
幸せだったなぁ~。
あのころ。
あのころの自分にもどりたい。
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終戦記念日に思うこと

2006年08月15日 | 小さな幸せ
今日は終戦記念日だったのですね。

朝から、テレビが小泉首相が靖国神社に参拝すると
騒いでいます。

広島原爆投下の日も、長崎原爆投下の日も
終戦記念日も、症状に振りまわされる私では
正直、自分の事で必死で、うっかり忘れてしまいそうです。
私は、朝は非常にだるく、苦しさで
「どうでもいい気分」で
TVをぼんやり見ていました。

でも、どうでもいいことではないのですね。
私たちの世代ですら、こうですから、
私たちの子供の世代にどうやって「戦争の悲惨さ」を
伝えていったらよいのでしょうか?

症状を抱えながらも、まだ自力で行動できたころ、
沖縄に行ったことがあります。

そこで、改めて、「沖縄戦」を知りました。
ある日突然、生活の場が戦場となり、
死んで行った多くの罪もない島民たち。

負傷した人びとを「がま」と呼ばれる洞窟で
介護した女学生たち

「がま」の中の野戦病院で青酸カリを飲まされ死んでいったけが人たち。

戦争に巻き込まれて死んでいった、何の罪もない方がたの苦しみを想像したとき、
今どんなに苦しくとも、生き抜かなければと思いました。

症状は苦しく、医療にも社会にも、肉親にも、
この苦しさをなかなか理解してはもらえないけれど、
近くに相談できる医師もなく、ひたすら耐え続ける毎日だけれど、
戦争のない平和な時代に生きている私。

爆弾が落ちてくる心配もなく、
安全な家の中で、寝たいだけ、安心して眠れ、
飲みたいだけ冷たい飲み物も、温かい飲み物もあり、
飢えも知らず、食べ物も不自由しない療養環境にいる私は、
たとえどんなに耐え難い身体的、精神的苦痛があろうとも、
「幸せなのだ」と思いました。

今、何かで生きるのが苦しいと感じている方がたも
終戦記念日に、
少しだけ想像してみてください。
「生きたいのに、死ななければならなかった方がたの無念」を。

苦しいけれど、生きていることに感謝し、
今ある、「幸せ」に気づきながら、
とりあえず、自然に命が尽きるまで
生きてみようと思っています。





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