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脳脊髄液減少症患者のつぶやき、「とりあえず、生きてみよか・・・。」

過去から現在へ、脳脊髄液減少症、体験克服記。

怒りと復讐心

2006年08月29日 | 心の葛藤
今日は朝から晴れて夏日でした。

よく眠れたせいか、朝の疲れがいつもよりなく体が楽です。
暑さの中にも、秋のさわやかな空気を感じます。

きのうから、わき起こる怒りに
自分でも困惑しています。

時々こういう感情がわいて、抑えきれなくなります。

この病気の精神症状なのか、
生理的な感情の変化か、
はたまた日ごろの押さえつけた感情が爆発するのか・・・?

そんな考えを持つ自分に
自己嫌悪して苦しみます。

本来こういうマイナスの感情を書くことはためらわれます。
でもきょうは、あえて書いてみたいと思います。

一人の「脳脊髄液減少症」患者のきれいごとではなく
正直な気持ちを知っていただきたいから・・・。

「怒りと復讐心」

 この感情は、
普段は心の奥にしまっていますが、
ときどき、しまいきれなくなり、あふれ出てしまいます。

この症状をかかえて生きてきて
「怒り」を感じた対象はたくさんありました。

私をこんな体にした加害者、その親、
無理解な医師、医療スタッフ、医学界、
家族、血縁の人間たち、職場の人びと、友人たち・・・・
私を取り巻く周囲の人間たち、

でも、なぜか、
  一番の怒りの矛先が両親なのです。

私の苦しみ、悲しみの一部始終を
  すべて身近で見ていた人たち。
 
   たぶん、一番理解してほしかったし、
     一番、私の味方でいてほしかったし、
         両親には何よりも大切な存在と思ってほしかったし、
       
   危機に陥った私を、何よりも優先して、
     力を貸して、助けてほしかった人が「両親」だったから
    
 その期待を、裏切られたための「怒り」なのだろうと思います。

恋人とか、友人とかではなく、ましてや医師ではなく、
 なぜ親に、一番にこの苦しみを理解されたいのか?
 
 たぶん、私という存在を産み、育てた親だけには、
    無条件に理解してほしかったのかもしれません。

でも、彼らの生きがいは
仕事であり、趣味であり、他人との交流であり、

地域で感謝される活動であり、
他人から賞賛され、必要とされることであり、

楽しくて、他人に期待され、当てにされるのに忙しくて

  苦しんでいる私よりも、
   すべてそれらを優先されてきたように感じています。

いくら子の回復に尽くしても、報酬もないし、賞賛もされない、
やりがいも喜びもないのでしょう。

私は
 仕事や、つきあいや、趣味や遊びよりも、
後回しにされる価値のない存在。
 
親には「愛されていない。」と時々感じています。

そのことが、とても悲しいのです。

もう、そういう親だとあきらめてみても、
やっぱり悲しいのです。

私のしんどさ苦しさを
いつも
「もう、大丈夫だろう?」
「動かなきゃ、なおらないよ。」
「誰だって痛いところはあるよ。」
「もういい加減、治るんじゃない?」

人と比べて、
あの人だって、親だって、祖母だって「痛いとこあったって」がんばってると
叱咤激励ばかり、
普通の人のだるさや痛さとレベルも質も違うのに・・・。

「誰でもつらいのをがんばっている。」
だから、がんばれ、がんばれ、ばかり。

もう、私はもう充分過ぎる量と期間、がんばっているのに。

これ以上どうがんばれというのでしょう?

人の本当の苦しみの深さも知らないで、
なんで、がんばらせるのでしょうか?

親は、自分の仕事や趣味や他人との交流がしたくて
 ウズウズして、
 私の世話や精神的な支援なんか、していられないという感じ。
 
 自分たちは元気だから、
   よけい私の苦しみ体のつらさの深刻さが理解してもらえない。

 弱音を吐くと、癒してもらえるどころか、
悪気はないのだろうけれど、言葉でさらにズタズタに傷つけられ、
 
 想像を絶する「脳脊髄液減少症」の複雑怪奇な症状を
    決して理解してもらえないのです。
 
 事故以来、身近で苦しむ姿を見ている肉親ですら、このありさまです。
 
ましてや、突然会う、この病気を知らない医師に
わかってもらえないのも無理はないと思います。
 これが、この病気の悲劇。

溺れかけて、苦しい、苦しいともがいているのに
 岸にいる多くの人々に笑って観察されているような
  誰も助けに来てくれず、浮き輪も投げ込まれないときのような絶望感。

 死なないけれど、死にそうな、ぎりぎりの苦しい状況を
   「ほっといても死なないから大丈夫。」と
    遠くで冷笑して見られているような、絶望感。

誰を信じたらいいのでしょう?

誰がわかってくれるのでしょう?
 
 ああ、
  私がいたいけな幼子だったら、
症状を信じてもらえたのでしょうか?

親は私を抱えて、病院めぐり、医師めぐりをしてくれたのでしょうか?

「この子が治るためなら、なんでもする。」と思ってくれたのでしょうか?

 症状を「気のせい」という医者に激しく抗議してくれたのでしょうか?

  私がいい大人だから、私への支援をしたがらないのでしょうか?
 
 本当は、病名がついた今でも、
      ただの甘え、なまけ者とでも思っているのでしょうか?

悲しみを我慢し、あきらめようとしても、
 
 悲しみは怒りに変わり、
     蓄積し、発酵し、
      やがて「復讐心」になっていくことを、私は止められないのです。

いつかきっと治ってやる。

絶対、親より長生きしてやる!。

そして、同じように、親が寝たきりになって、自力で動けなくなった時、

今度は私が、病人ほったらかしにして
仕事や趣味や、他人との交流で忙しく出歩ってやる!。

病人の苦しみには耳を傾けず、
「誰でもつらいよ。」とかわし、おもしろおかしく遊びまわってやる!。
 
 病人が「日常生活ができないから助けて」と言っても
「仕事が忙しいから!」と言って、手伝わない!。

  「自分でやれば?大丈夫でしょう?少しは動かないとよけい治らないよ。」
  と私が言われた同じ言葉を使ってやりたい!。
 
私が言われ、されたことの悲しみは、立場が逆転した時にはじめて
わかってもらえるのでしょうか?
それでもわかってもらえないかもしれないけれど・・・。

親が死ぬまでに、私の苦しみは理解してもらえるのでしょうか?

元気な親が病に付して、何年か寝ついて初めて
私の体験した苦しみをわかってもらえるのでしょうか?

「あの時、あなたは、こんなふうに、動けなくて、
  生活のすべてがつらかったんだね。
     充分わかってあげられなくて、助けてあげられなくてごめんね。」と
                  言ってもらえるのでしょうか?

いつか人は老いて、死ぬ。
その前に、誰でも多かれ少なかれ必ず動けなくなり、人の手を借りる時がきます。

その時になれば、もしかしたら、わかってもらえるかもしれないと思うと
どうか、急死しないで、何年か寝ついて苦しんで、
擬似体験してほしい、とさえ思ってしまうひどい私がいます。

せめて、親が死ぬ前に私の苦しみを理解してもらい、
最後に親子でわかりあいたい。

深い溝を埋めて和解しあって親子を終わりたい。

そこまで考える私。

そうまでして、「理解してもらいたい。」と考える自分が哀れです。

お金や衣類や食べ物は与えてくれるけれど、
もちろん、体力的につらいとき少しは労働提供してくれたけれど
ありがたくて、感謝しているけれど
 何か違う。
  それは、思いやりからではなく、頼まれたから。
 助けを求められたから、しかたなく。

 自発的な愛情からではない支援なんて、本当はいらない。
  でも、助けてもらわなければ、生活が成り立たなかった。
 
  一番、私がほしいものはお金や物じゃない。

  私がほしいものは「無条件の愛」と「無条件の理解」

  自発的にいただける、あたたかな「慈しみの気持ち」

       あたたかな「受容と共感の言葉」

なのに、一番ほしいものは、幼いころから決して与えてくれない親。

私の苦しみをわかってくれなくてもいいから、
「わかろうとして」ほしい!。
 「理解しようとして」ほしい!。
   「想像して」ほしい!”。

  一緒に嘆き、一緒に泣き、一緒に悲しみ、一緒に怒ってほしい。
   
    ありのままの私の気持ちによりそってほしい。

私が、今、何に困り、何に苦しみ、どんな感情を抱えているかに
せめて想像をめぐらせてほしい。
 
 そうしてくれたら、どんなに気持ちが楽になるかしれないのに。

泣けば「なにが気に入らないんだ!」と涙を止められ、
 嘆けば、「そんな根性だからダメなんだ。」と責められ、

どんなに言葉を尽くして訴えても
  私の気持ちは伝わらない、
        「健康と幸せに恵まれた」人たち。
           
  無関心な親、血縁たち。
  一番理解してほしい、一番血のつながりの濃い人たち。
 一番人生の時間を長く暮らした人たちなのに

    私とその人たちとの間に広がる深い深い溝。

  もちろん理解し支えてくれる人もいる。
    
その人たちがいるから絶望しないで生きてこれた私。

それでも、
  親には理解してもらうことを、あきらめきれない私。
      幼いころから両親の愛に飢えているのかもしれません。

どうやって、この溝を埋めたらいいのだろう?
親が亡くなるまでに、なんとか理解しあいたい。

 怒りと復讐心。
 マイナスの感情をもてあまし、
  どう解消したらいいのか、苦しんでいます。
 
 こういう感情も病気の一症状なのでしょうか?
 
 それとも、
 こういう状況に置かれたら、
 こういう症状に長期間苦しめられたら、
人が当たり前に感じる感情なのでしょうか?
 
 今の私には、わからないのです。

コメント (14)
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