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進化する魂

フリートーク
AKB48が中心。
気の赴くままに妄想をフル活用して語ります。

ありがとう、大島優子

2014-01-01 08:54:02 | AKB48_軽ネタ
あけましておめでとうございます。

お久しぶりの更新です。


昨夜、NHK紅白歌合戦を観ました。

司会の綾瀬はるかのタドタドしさと、「あまちゃん」の演出がよかったです。

それとやっぱり大島優子の卒業ですね。

印象的だったのは。

いろんな想いがあって言葉にするのが難しいのですが、

率直に言えば、「(これまでAKB48を支えてくれて)ありがとう」と思ったし、「来る時が来たな」と感じました。

はじめて「ありがとう」と思えるメンバーの卒業であったと同時に、

驚きはしませんでしたが、少しショックを受けました。

驚かなかった理由は、大島優子が潜在的にいつ卒業してもおかしくない、と考えていたからです。

みんなそういう気持ちでいたと思います。

ショックだったのは、大島優子にとってのAKB48が「卒業すべきもの」であったという現実を、目の当たりにしたことです。

一時期において、自分自身が描いていた「AKB48の未来」と、昨夜見た「AKB48の現実」のギャップを受け入れるのに少し時間がかかりました。

「状況が違えば、違った未来もあったのではないか?」という想いをどうしても拭い去ることができません。


しかし、名実ともにAKB48の代名詞であった大島優子が卒業するという、

こんなにインパクトの大きなことはありません。

未来が決められた定めである必要はまったくありませんし、

未来というのは常に創られていくものですし、まだ見ぬ可能性をいつも秘めているものですから、

この卒業をターニングポイントにして、私なんかの考えを遥かに超えていく、AKB48にはそんな存在になって欲しいと切に願います。


2014年が、大島優子とAKB48にとって素晴らしい年になりますように。

ありがとう、大島優子

今日までの弱さから明日の希望を創り出す

2013-11-22 00:43:29 | AKB48_軽ネタ
わかりやすいのですが、今読まれています。


現実否認と夢 そして愛
http://blog.goo.ne.jp/advanced_future/e/20573f10f72f22c159495a6aee7bffdd


なぜ自覚もプロ意識もあるのに問題を起こすのか ~現実否認~
http://blog.goo.ne.jp/advanced_future/e/21c1c45068b71e99a133525be25eaebc


AKB48運営は失敗を認められるか ~危機管理の模範的教材:タイレノール事件~
http://blog.goo.ne.jp/advanced_future/e/0a80eca62b4d07869cc1780d4e713a0c


率直に真実を語る重要性 ~コカコーラの失敗:カンザス計画~
http://blog.goo.ne.jp/advanced_future/e/0b5d472b756e70b5561866829b4abed0



まず慎重な事実確認が必要なのは間違いないが、

AKB48は法令違反や反社会的行為を断じて許さない、ということを真摯な態度で示すことが重要だ。


その上で、人間性に訴えかけることで、いい落としどころを探るのがよいだろう。

何か問題を起こしたからといって、その人の全てが否定されるものではない。

人間は本態的に弱い生き物だし、何かに挑戦し続ける状況においては、どこかで精神的なバランスをとらなければならないものだ。

弱さゆえに様々な問題を起こすが、しかし、その弱さゆえにそこに希望がある。

今日までの弱さから明日の希望を創り出す道は、必ずあるはずだ。

衝撃的だが冷静に

2013-11-19 23:34:54 | AKB48_その他
今日は衝撃を受けた。

総支配人に関する報道が事実なら状況は厳しいと思われる。

まずは事実確認が重要だが、どちらにせよ説明は求められるだろう。

続いて重要なことは、誰が後任になるかではなく、グループとしてどういうメッセージを出すかだ。

総支配人は空席でも、支配人が連携を取れば組織は回る。

まずは、組織として明確な姿勢を示すこと。

でないと価値基準が混乱して皆のモチベーションが低下するアノミーが起きる。

これが内外の混乱を抑制するために必要だ。

個人の目的として組織のフローを生み出す

2013-11-03 11:14:00 | AKB48_オピニオン
ニーチェが「神は死んだ」と結論して以来、哲学者や社会学者は存在は所詮目的を持たないこと、偶然と非人格的な諸力が我々の運命を支配すること、そして全ての価値は相対的なものであり、したがって恣意的なものであるということを証明するのに忙殺されてきた。

我々が意味を持たないというのは事実である。

しかし、そのことは生活に意味が与えられないということを意味していない。

風立ちぬ、生きねば
http://blog.goo.ne.jp/advanced_future/e/81304912bedcc89ac1e5af8f53b57041

一般に我々が文化や文明と呼ぶモノの多くは、圧倒的に不利な条件に対抗して、自分自身や子孫がどう生きるかという目的意識を創り出そうとした人々の努力の産物なのである。

生活はそれ自体としては無意味であると認識することと、その認識に黙従するということは全く別である。

我々に羽がないことは、我々に空を飛ぶことができないということを意味しない、という事実と同じことだ。


ミハイ・チクセントミハイ『フロー体験 喜びの現象学』、「第10章 意味の構成」から部分引用。




※部分的に言い回しや表現などを変更していますので、ご注意ください。


「目的」は個人の努力目標を方向付けるが、それが生活を容易なものにするとは限らない。
目標はあらゆる困難にぶつかる可能性を持ち、そうなると人はそれを放棄するよう誘惑されたり、自分の行為を秩序づける上でより容易に達成できるシナリオを求めようとする。
逆境に出くわす度に目標を変更することに対して支払う代価は、その変更によってより楽しく快適な生活を達成できるかもしれないが、空虚さと意味の欠如に終わりがちになる。

アメリカに最初に定住したピューリタンたちは自らの意識に従う信教の自由が、自己の統合を維持するうえで必要であると決意した。
彼らは超越的な存在と自分との関係を維持しておくこと以上に重要なことはないと信じていた。
彼らの決意は、他の多くの人々もそれまでに同じことをしてきたのであるから、生活を秩序付ける究極の目標の設定に際して新しい選択をしたわけではなかった。
ピューリタンの特徴は、同様な選択をしたマサダのユダヤ人(数百人のユダヤ人がローマ軍に包囲され、閉じこもったパレスチナの丘にある都市の名。1年に渡る籠城の後、全員が自殺した)、キリスト教の殉教者、中世末期の南フランスのカタール派(アルビ派とも呼ばれる。反ローマ教会の宗派)のように、意思を阻喪させるための迫害や苦難に立ち向かったということである。
彼ら罪の自覚という原理に従い、その原理が彼らをどこに導こうとも、彼らが信奉する価値が慰安や生命そのものをすら放棄するに足るかのように振舞った。
そして彼らはこのように振舞ったために、彼らの目標が元来価値あるものであったかどうかに関わらず、現実に価値あるものになった。
献身することによって彼らの目標は価値あるものになり、ピューリタンの存在に意味を付与するのに役立ったのである。


真剣に取り組まない限り、目標は多くの効果を生むことはできない
それぞれの目標は一連の結果を規定し、人がそれらを考慮に入れなければ目標は無意味なものになる。
困難な登頂を決意した登山家はその登山で自分が疲労し、危険にさらされることが多いことを知っている。
しかし簡単に諦めれば、彼の冒険はほとんど価値を持たないことになるだろう。
すべてのフロー体験についても同じことがいえる。
「目標」と「目標が要求する努力」との間には相互関係がある。
目標は最初はそれが要求する努力を正当化するが、後になると目標を正当化するのは努力である。
人は自分の配偶者が人生を分かち合うに値すると考えるから結婚するのであるが、結婚後は、そのことが真実であるかのように振舞わなければ、夫婦の共同関係は時とともにその価値を失うだろう。

あれこれ考えてみると、人類は意思を保持し続ける勇気に欠けていたとはいえない。
さまざまな時代のさまざまな文化の中で、数十億の親が子供たちのために自分を犠牲にし、そのことによって自分自身の生活をより意味のあるものにしてきた。
おそらく同じ数の人々が、自分たちの土地や集団を守るためのエネルギーのすべてを捧げてきたのだろう。
数百万以上もの人々が、自分たちの宗教・国・芸術のために全てを投げ打ってきた。
苦悩や失敗にも関わらず、このような態度を貫いてきた人々はフローを拡張し、生活全体を一つのエピソードとする機会を持つ。
それは焦点を持ち、集中し、内的にまとまるのある論理的に秩序化された一連の経験、その内的秩序のゆえに意味と楽しさがある経験である。

しかし、文化が複雑になるにつれて、この程度にまで意思全体を達成することはますます困難になる。
卓越性を競い合う目標があまりにも多過ぎて、どれが全生活を捧げるに値するか判断し難い。
わずか数十年前、女性は家族の福祉を自分の究極の目標とすることに疑う余地のない正当性を感じていた。
これは一つには、他の選択肢が多くなったという事実によるものである。
今日では、女性は会社員・学者・芸術家、または兵隊にすらなることができるので、妻になり母親になることは、もはや女性の「自明な」第一優先目標ではない。
我々全体が有り余る富になす術を知らない。
機動性の増大が我々を故郷から解放した。
もはや出生地に埋没するために故郷に縛られる理由はない。
他の土地が今いるところよりもよく見えたら、そこへ移りさえすればよい。
オーストラリアで小さなレストランを開くのはどうだろうか。
生活様式や宗教は簡単に切り替えられる。
昔、狩人は死ぬまで狩人であり、鍛冶屋は生涯を腕を磨いて過ごした。
我々は今や自分の職業上のアイデンティティを意のままに投げ捨てることができる。
一生会計士である必要は誰にもない。

我々が直面している選択肢の豊富さは、100年前ですら考えられないほど個人の自由を拡大してきた。
しかし、いずれも同等に魅力的なものから何かを選択する際に避けられない結末は目的の不明確さである。
不確実性は順次意志を鈍らせ、意思の欠如は選択したモノの価値を減じてしまう。
したがって、自由は生活の意味の洗練に役立つとは限らない。
いや、逆なのである。
もしゲームのルールが柔軟過ぎれば集中は薄れフロー体験を得ることはより困難になる。
選択の機会が少なく明瞭な時の方が一つの目標を選び、その目標が必然的に求めるルールに依拠することは遥かに容易である。
このことは、過去の厳格な価値や限定された選択への回帰が、可能ではないのだが、たとえそれが一つの可能性であったとしても、好ましいということを意味しない。
我々に突きつけられ、我々の祖先が懸命に戦って勝ち得た複雑さと自由は、我々が達成法を見つけなければならない一つの挑戦である。
もし我々が達成すれば、我々の子孫の生活はこの惑星でこれまでに経験されてきたモノの全てよりも遥かに豊かなものになる。
もし我々が達成しなかったら、我々は矛盾した意味のない目標にエネルギーをなし崩しに使うという危険を冒すことになる。

しかし同時に、我々は心理的エネルギーを投入する場所をどのようにして知るのだろうか。
我々に「ここに君が人生を捧げるに値する目標がある」などと教える者はどこかにいるというわけではない。
頼るべき絶対の確実性はないのだから、各人が自分自身で究極の目的を見つけ出さねばならない。
試行錯誤や厳しい陶冶を経て、我々は葛藤し合う目標の束のもつれを正し、行為に目的を与えるその一つを選ぶことができる。

「自己知」
あまりにも古いので、その価値を簡単に忘れてしまう古代の救済は、人が錯綜した選択肢を整理する過程である。
「汝自身を知れ」という言葉がデルフォイの神託所の入り口に刻まれて以来、数えきれないほどの宗教的警句がその価値を称揚してきた。
この忠告が繰り返される理由は、それが実際に良い結果を生むからである。
しかし我々はこれらの語が意味するもの、また個人に対するこの忠告の実際の意味を世代ごとに新たに吟味し直さねばならない。
そのためにはそれを現代の知識に基づいて表現し、それを適用する現代的方法を想定してみることが有効である。



「活動」と「反省」は理想的にはともに補い合い、相互に支え合うべきものである。
それ自体としては活動は盲目であり反省は無力である。
大量のエネルギーを一つの目標に投入する前に、基本的な疑問を問うてみるのは無駄ではない。
それは私が本当に望んでいることなのだろうか。
私はそれを楽しんでやっているのだろうか。
近い将来、私はそれを楽しんでいるだろうか。
私、そして他者が支払う対価はそれに値するだろうか。
もしそれを達成したなら私は自分自身と折り合っていけるだろうか。

これらの一見単純な疑問も、自分自身の経験との接触を失った者にとってはほとんど回答不能である。
自分が望むものを見つけようと悩んだことが無ければ、また注意が外発的な目標に縛り付けられているために自分自身の気持ちに気づけないならば、人は意味のある活動を計画することはできない。
他方、自分を省みる習慣が十分に発達していれば、人は一つの行為がエントロピーを増加させるかどうかを見極める為、たびたび自己分析をする必要はなくなる。
彼はこの昇進がそれに値する以上のストレスを生むこと、または現在は魅力的なこの特定の友人関係が、結婚という文脈では耐え難い緊張へと至るということをほとんど直感的に理解するだろう。

心を短期間秩序づけることは比較的容易である。
どのような現実的目標でも心を秩序づけることができる。
良い試合、緊急の仕事、家庭での幸せなくつろぎは注意に焦点を与え、調和のあるフロー体験を生み出す。
しかし、このような状態を生活全体に及ぼすことは遥かに困難である。
生活全体をフローする為には我々が万策尽きた時でさえ、また快適な生活を拒否する無慈悲な運命に出会った時でさえ、我々の努力を支える説得力のある目標にエネルギーを投入することが必要である。
目標が正しく選ばれ、抵抗に負けずにそれを堅持する勇気を持つなら、我々は様々な行為や周囲の出来事に十分注意を集中することができ、したがって不幸を味わうことはない。
その時、我々は全ての思考と情緒が調和ある全体へと適合する生活の広がりの中で、秩序の感覚を直接感じることになるだろう。



今日でも我々は時折、過去の偉大な宗教の精神的洞察に基づく内的秩序を具現した生活をしている人々に出会う。
証券市場の非道徳性、防衛産業関係者の腐敗、政治家の無原則主義が毎日新聞紙上を賑わしているが、逆の実例も現実に存在している。
苦しんでいる人々に手を差し伸べることが意味のある生活の必須要素であると信じて、余暇の一部を割いて病院で死に瀕している患者と共に過ごす成功した実業家もいる。
そして祈りから力と静穏とを引き出し続けている多くの人々がおり、強いフロー体験を生む生む個人的に意味のある信念体系を持つ人々がいる。

しかし、伝統的な宗教や信念体系によっては救済されない大多数の人々がいることは確かであり、その数は増えつつある。
彼らの多くは古い狭義に含まれる真理と、その時代が付加した歪みや堕落を区別できず、その誤謬を受け入れられない為に、そこに含まれる真理さえも拒否するのである。
他の人々はあれこれの秩序に全く絶望し、何であるかを問わず、たまたま生じた信念にしがみつき、ファンダメンタリストになったり回教徒になったり共産主義者になったりする。

21世紀の子供たちの生活に意味を与えるのには役立つ新しい「目標-手段のシステム」が生まれる可能性はあるのだろうか。
ある人々はかつての栄光を回復したキリスト教がその必要に答えると確信している。
ある人々はいまだに共産主義が人間経験におけるカオスの問題を解決し、その秩序は世界に広まると信じている。
現在その双方ともに起こりそうにはない。

もし、新しい信仰が我々の想像力を捉えるとすれば、それは我々が知っていること、我々が感じていること、我々が望んでいること、我々が恐れていることを合理的に説明するものであるはずである。
それは我々の心理的エネルギーを意味のある目標に向けて整理する信念体系、フローをもたらし得る生活法のルールを与えるシステムであるはずである。

このような信念体系が、科学が人間や宇宙について明らかにしてきたことを全く無視することなど想像できない。
科学の基盤なしには我々の意識は信条と知識との間に引き裂かれてしまう。
しかし、科学が信念体系の確立に真に役立つものとなるためには、科学それ自体が変わらねばならない。
現実の孤立した部分を記述し統制する様々な専門領域に加えて、知り得た知識全ての総合的な説明を発展させねばらなず、それを人類とその運命に関連させなければならない。

このことを達成する一つの方法は進化の概念を用いることである。
我々の大多数に関わることの全て、我々はどこから来たのか、どこへ行こうとしているのか、我々の生命を形作っているのはどのような力なのか、善や悪とは何か、我々は相互に、また地球以外の宇宙の全てとどのように結びついていくのか、我々の行為の結末は何か、などの疑問は、我々が進化について現在知っていること、また将来我々が知ろうとしていることと関連させてはじめて体系的に議論することができよう。

このシナリオに対する明らかな批判は、科学一般、とくに進化についての科学は、それが「何であるか」を扱うのであり、「どうあるべきか」を扱うのではないということである。
他方、信条や信念は現実に限定されない。
それらは何が正義か、何が望ましいかを問題にする。
しかし、進化論上の信条で重要なことの一つは、まさに「あること」と「あるべきこと」とのより密接な統合なのである。
我々はなぜ我々のようであるのかをよりよく理解する時、本能的衝動、社会統制、文化的表現などの起源、意識の形成に寄与する全ての要素が、より十分に認識される時、我々が自分たちのエネルギーをそれが進むべきところに方向付けることはより容易になるだろう。

また、進化論的展望は、我々のエネルギーを注ぐに値する目標を指示している。地球上での数十億年以上もの生命活動の中で、しだいに複雑な生命形態が姿をあらわし、人間複雑な神経形態で頂点に達しているということには疑問の余地はなさそうである。
大脳皮質も順次意識を進化させ、今では大気同様、地球全域を包み込んでいる。
複雑化のこの現実は、「ある」とともに「あるべき」ものなのである。
それはそうなった。
地球を支配している条件によって起こるべくして起こった。
のであるが、我々が前進させようとしない限り複雑化を続けることはできないだろう。
進化の将来は、今や我々の手の内にある。

過去数千年、進化の時間のほんの一瞬のうちに、人類は意識の差異化の面で信じられない進歩を遂げてきた。
我々は人類の他の生命形態から切り離されているという認識を発達させてきた。
我々は人間を互いに切り離されたものとして理解してきた。
我々は抽象と分析、落下する物体の速度をその重量と質量から切り離すように、物体の次元と過程の次元を相互に分離する能力を発明した。
この差異化が科学や技術、それに環境を作り破壊する人間のよそうもされなかった力を生み出したのである。

しかし、複雑さは差異化と統合化を含んでいる。
次の数十年、数世紀の課題はこの心の未開発の構成部分を実現することである。
我々自身を相互に、また環境から切り離すことを学んできたように、今や我々は我々自身を周囲の実在物と、我々が苦労して勝ち得た個性を失うことなく再統合することを学ぶ必要がある。
未来についての最も有望な信条は、宇宙の全てが共通の法則によって関連付けられた一つのシステムであり、このことを考慮することなく我々の夢や願望を支自然に割り込ませることは、無意味であるという認識に基づくものだろう。
我々は人間の意志の限界を認識し、地球上での支配的役割よりも共同的な役割を受け入れることで、ついに我が家に辿り着こうとしている流浪者の安らぎを感じるはずである。
その時、意味の問題は宇宙的なフローと融合した個人の目的として解き明かされるだろう。

カリスマ信仰の虚構 ~世界を変える静かなる人の力~

2013-10-26 13:18:27 | AKB48_オピニオン
人をやる気にさせることなどできない
http://blog.goo.ne.jp/advanced_future/e/e75057175a59763a45dbc3054a562ff7

単なる愚痴
http://blog.goo.ne.jp/advanced_future/e/4ed8e017364789136553dd2363f71654


の流れで看過できず。


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組織が成長している時には、何が本質的な成長要因なのかが分析されることはあまりない。

なぜなら、成長要因がわからなくとも、今現在成長することができているからだ。

浅慮による的を外した要因分析であったとしても、結果がその要因を正当化してくれる。

分析結果が間違っていても、気づくことは恐ろしく難しい。

それよりも、眼前にある成長機会を十二分に活かすにはどうすればよいか、ということに全力をかけることになるだろう。


だが、組織の成長力が鈍化すると、今後の成長力を獲得するために、「何が成長要因だったのか?」という議論が組織の中を駆け巡る。

たいてい「うまくいっていた時にやっていたこと」が成長要因だとされる。

「あの時うまくいっていたのはアレをやっていたからで、今ダメなのはアレをやっていないからだ!」

その発想自体は、正しいかもしれないし間違っているかもしれないが、少なくとも浅慮であることは間違いない。



AKB48佐々木優佳里「最近毎日自分に"悔しい"」(AKB48まとめんばー)
http://akb48matome.com/archives/51900300.html


これはAKB48に限った話ではないが、最近では人材育成に関して誤った発想が蔓延っている。

どの世界でも、理想的な人物像を聞くと、だいたいこんな回答が返ってくる。

「主体性があって~」

そう、どの世界でも主体性が大事だと言われる。

主体性を持って能動的に動き、まわりを巻き込んで大きな活動を!


笑顔で!アクティブに!自己表現を!


大きな声で叫ばれるこの言葉によって、世界中の人々は意図せざる結果を招き入れている。

ここで明確にしておこう。

この考えは必ずしも正しくはない。

いや、ほとんどの場合において、この考えは間違っている。


なぜ間違っているか?

それは「人それぞれに生まれ持った適性がある」という単純な事実に基づいている。

人は生まれながらにして平等だという人権主義の考えや、ナチスの優生学などの影響で、人の性格が先天的な要因により影響を受けるという発想は社会的に受け入れ難い。

だが、実験によって、生理的な性質の違いが人格形成に大きな影響を与えることが確かめられている。





赤ちゃんの時に外部の刺激に高反応を示す子供は、大きくなると内向的になる。

逆に、赤ちゃんの時に刺激に低反応を示す子供は、外向的になる。

理由は単純で、外部からの刺激に敏感だと、外部から入力される情報を綿密に構造化し、時間をかけて深く内面化する必要性があり、その姿勢は「内向的」にならざるを得ない。

映画やドラマ、小説などにおける理想的なリーダー像は、カリスマ的で人間離れしているが、実際の卓越したリーダーは物静かで謙虚で思慮深い内向的な人々ばかりである。

また、ニュートン、アインシュタインなど科学技術的な発展をもたらすのは決まって内向型人間と決まっている。

にも関わらず、なぜ外交的な人間がリーダー像として支配的になったのか。

スーザン・ケインは、近代化の中で「セールスマン」という種類の人材が必要とされたことが大きいとする。
(しかし、成績がよいセールスマンが外交的とは限らない。)

また、マスメディアにおけるエンターテイメントの様式にも大きな影響を受けているだろう。

つまり、「外向性」信仰は文化的に生みこまれたもので、実態とはかけ離れている、ということだ。

このカリスマ幻想は集団浅慮の原因にもなっている。

会議の中で、声の大きな人物の意見が優先されてしまい誤った判断をしてしまう、といったことが社会全体に大きな弊害をおよぼしている。

調査研究によると、開拓民を先祖に持つ外交的な人間の集まりとされるアメリカにおいてさえ、1/3は内向型なのだという。



エンターテイメントだからといって目立つことが至上命題になるとは限らない。

いや、むしろそうではない可能性を十二分に見せ付けたのがAKB48だろう。

創業メンバーのカリスマ性ばかりが注目され、後輩は先輩に絡み、自己主張することが全面的に善いことだとされる。

しかし、人と人とを結びつける静かな力が、さらにそれぞれの人が持つ静かな力を引き出して、繋ぎ、さらに大きな力に変えていく、それがAKB48のメンバーやスタッフ、そしてファンによる人的ネットワークの強さではなかったか。

誤ったカリスマ信仰によるリーダー幻想を破棄して、新しい時代を拓いていくことを考えるべき時ではないだろうか。


次期48Gのリーダーとして最も適任なのは?
http://blog.goo.ne.jp/advanced_future/e/f8f00404313ef9bbdb0e51d13a51dbc6

松村おめ! 小さくても大きな一歩

2013-10-20 19:26:56 | AKB48_軽ネタ
SKE48松村香織『マツムラブ!』発売イベントまとめ「マツムラブ!1000枚完売しました本当にありがとうございました!」
http://ske48encra.doorblog.jp/archives/33300243.html





松村おめ!

そして関係者の皆様もおめ!

小さくても大きな一歩だと思います。

これからが大事ですが、いい流れを創ってください。


「松村の予算1万円」の意味
http://blog.goo.ne.jp/advanced_future/e/565605718d4cbe1744ed328ee1d74e32

最近AKB48についてブログを更新していない件について。

2013-10-08 01:24:58 | AKB48_心の叫び
ご無沙汰しております。

最近AKB48についてブログを更新していない件について、ここで考えを述べておこうと思います。

(たいした話ではないですが、更新がなくて何事かと思われると困るので。)



私は、「AKB48に語るだけの価値がない」とは考えていません。

そもそも「AKB48に語るだけの価値がある」というのは、「AKB48に価値がある」のではなく、「AKB48を語ることによって生まれる価値がある」という意味の言葉です。

ですので、語ることによって価値を生みだすことができるか否かが、語るだけの価値があるのかの判断基準になるわけですが、しかし、「価値」というのは、不確定性原理のように事前には不確定なものです。

何かを確かめようとするとき、はじめて価値は確定的になります。

ただ、価値判断を伴うモノゴトには何となく「型」というものがあって、モノゴトの中身はよく理解できなくても、その型に照らし合わせて、マクロでの方向性はそれとなくわかるものです。

本質的な問題が何かを見極めようとすることによって、過程はどうあれ行き着く先のイメージは持つことができるということです。

「筋の良し悪し」という言葉はよく使われる表現です。

だから、いつも私は、AKB48を見て、私の頭の中にある型に当てはめ、今後どういう価値が生み出されるのか思索するわけですが、最近はAKB48を見ていてもよくわからないことが増えてきました。

これまでは、何かがある度に、それが意図したか意図せざるかに関わらず、将来的な方向性はそれとなく見えていたつもりですが(それもつもりでしかないが)、最近は私の理解の範疇を超えていることが多くなりました。

「AKB48に語るだけの価値がない」のではなく、私が価値を語ることができなくなってきたということです。

こういう時、往々にしてよく行われるのが、自分が理解できるような形に現実を捻じ曲げるという行為です。

これは必ずしも悪いことではありません。

人間が生きていくために、論理の単純化や矛盾を1つ上の次元で統合するといったことは重要な知恵です。

が、時として経験や知恵は邪魔になるものです。

過去の成功体験が新しい成功の芽を潰すこともあるからです。

よって、「AKB48に語るだけの価値がある」と考える人々によって、今後もAKB48は語られるべきだと思うし、私はダグラス・マッカーサーの有名な言葉「老兵は死なず、ただ消え去るのみ(Old soldiers never die; they just fade away.)」に倣って、しばらくの間充電期間をもって、私自身が成長して新たな価値を見出すことが出来るようになったら、また語りたいと思います。



誤解されたくないのは、上記で述べているのは、AKB48に関する話題を扱わないという意味ではなく、これまでのように偉そうに意見するのは当分の間、控えるということです。

(この間、知人の知り合いの若者に「乃木坂46を売るにはどうすればよいか?」という相談をされたりして、こういう話はやはり面白いなぁと感じているので、ライトな会話なら余裕さえあればしていこうかと。)

コメント欄については自由闊達な議論に使って頂ければと思いますが、荒れないようにはしていきますので、よろしくお願いいたします。



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【追記】

様々なコメントを頂きながらも、コメント欄を放置して申し訳ないのですが、ここでものすごく簡単ではありますが、考えを述べておきたいと思います。

私は、どのコメントにも一理あると思います。

主張の部分を見れば、論理的な整合性や正当性といったところで調整が必要になる内容も多々あるかもしれませんが、どのコメントにも傾聴に値する理が込められているなと感じています。

主張の本質だけを見ていくと、頂いたコメントの多くには重要な意味が込められていると思います。


何が言いたいかというと、今行われているのは不完全な議論かもしれませんが、その背景にある思想の多様性と強靭さ、これがAKB48世論の強さである、ということです。

正しさが何か?という点についての混乱が憂うべき状態なのでなしに、この多様な立場に基づく思考をAKB48という名の下に統合できずにいる現状こそが憂うべき状態である、ということです。

運営には、是非1つ上のメタ次元でよく考えてもらいたい

ってもう偉そうに発言してるじゃないかって言われそうですね。

まぁ・・AKB48に限った課題ではないのですが。

半沢直樹とビジョナリー・カンパニー

2013-09-23 18:10:58 | TV・書籍

TBSドラマ『半沢直樹』の話題で盛り上がってますね。

知人に面白いと薦められて3話目くらいから観ていました。

フィクションだと割り切って観ていたのですが、最終回の最後のシーンに妙にリアリティがあってなんとも言えない気分になりました。

私は原作を読んでいないので話がわかっていないのかもしれませんが、実に面白いというか、リアルな構図だなぁと思います。

ストーリーは、正義のヒーローである半沢が敵方のボスである大和田常務を如何にして倒すか、という水戸黄門的な勧善懲悪になるわけですが、これがストーリーとして成立するには「如何にして銀行という民間企業の中で善悪を定義できるか」にかかっているわけです。

これは極端な考え方ですが、もし東京中央銀行がコンプライアンスよりも短期的な利益を重視する企業風土を持っているなら、ひょっとしたら大和田は正義かもしれません。

ドラマ中では、全体を通して「真なるバンカーとは」という理念が、その評価基準になっていたわけですが、後半は銀行のトップたる中野渡頭取が正義の担保者になっていた側面がありました。

そのため、最後のシーンで正義の担保者たる中野渡頭取から出向が命じられた時に衝撃が走ったわけです。

(どんな思惑があったのか次回作を観ると理解できるのかもしれませんが)

「組織のトップ=正義」は古今東西使われる構図ではあるのですが、それが現実的かどうかは様々な意見があることでしょう。

そんなことを考えると、やはり、この問題は企業の存在意義というところに尽きるのであり、その意味で「ビジョナリー・カンパニー」の意味を噛み締めるのでありました。

「ハート・エレキ」選抜の意味不明の意味

2013-09-20 10:08:54 | AKB48_軽ネタ
選抜編成の意図が読めないのだが、どんな意味があるの?

卒業とか事務所がどうとか、そんなくだらない内部事情を理由に選抜の編成を変えるほどAKB48は落ち潰れていないだろう。

戦略的な意図があるはず。

と、考えさせるのがいつもの手なのかもしれないが、私は予定調和を壊す以上の意味があるだろうとみている。

何かを実験的に確かめたいか、この選抜は準備でもう1つの手をもって完成する何か、だと思う。



単なる愚痴

2013-09-14 01:06:37 | AKB48_軽ネタ

私事の話で、

人をやる気にさせることなどできない
http://blog.goo.ne.jp/advanced_future/e/e75057175a59763a45dbc3054a562ff7

のつづき。


最近、意味も理解せずに「学習と成長の視点」を持ち込む輩が多くて困る。

中途半端な意識高い系による猛威が組織と個人を破壊している。


無理解な人は「学習と成長が大事だ!」と主張して、「個人」に学習と成長を求める。

確かに学習し成長するのは個人であるが、学習と成長の機会を創出するのは個人ではない。

個人にできることなら、とうにやれているはずだろう。

そうではないのだ。

相互依存関係によるWin-Winの関係構築によって、個人ではできないことを、組織として可能にする力こそ組織力であり、そのパースペクティブが「学習と成長の視点」であろう。

組織として学習と成長の機会を創出していくのが「組織学習」という概念であり、「学習する組織」の基本的なポイント(5th Discipline)の一つだ。


主体性や能動性ばかりに注目してマッチョな人間像を求めるのではなく、多様なステークホルダーをインクルージョンして相互作用を発揮するチームワークのあり方を考える高次な人間像を自らに求めよう。



単なる愚痴でした。