粗忽な夕べの想い

落語の演目(粗忽長屋)とモーツアルトの歌曲(夕べの想い)を合成しただけで深い意味はありません

待たれる首相の被曝安全宣言

2012-06-13 11:47:20 | 原発事故関連

[原発は]いったん事故が起きた場合には、被曝での死傷者が大量発生し、国土の一部が半永久的に居住不能になり、電力会社は倒産し、政府が巨額の賠償を税金をもってまかなう他なくなる。原発事故によって失われるものは、貨幣に換算しても(人の命は貨幣に換算できないが)、原発の好調な運転が数十年、あるいは数百年続いた場合にもたらされる利益を超える。

これは池田信夫氏が昨年3月27日のブログで問題にした内田樹氏の「予測」である。内田氏は思想家であって、原子力工学などの専門の学者ではない。いわば原子力の危険を主張する「専門家」たちの当時の「情報」を鵜呑みしているだけだ。この「情報」(特に大量の死傷者)がいかに現実離れした煽りであるかは、今振り返れば図星であろう。

だが事故当時は、こうした危険情報がメディアに誠しやかに垂れ流されていた。学者、ジャーナリスト、はては芸能人コメンテーターにいたるまで同様な煽りに組していたが、彼らがこれに反省し謝罪したなんて聞いたことがない。節操がないというか無責任というか。

その上、今でも小出裕章京大助教のように福島第一原発4号機の燃料プールを危険視して首都圏壊滅するくらいの煽りを続けている。しかしもはやこんな情報を信じるのはテレ朝の番組スタッフぐらいで皆内心ではほとんど相手にしていないだろう。

池田氏がその当時のブログで書いてある通り「今回の事故で人命は一人も失われていない(今後も死者はゼロに近いだろう)」というのが事故評価の主流だ。もしかしたら「今後もゼロに近い」は池田氏の「控えめ」な表現かも知れない。最終的に事故死者ゼロというのも充分考えられる。

死者どころか「健康被害」そのものも限りなくゼロに近いといえるのではないか。反原発派の多くは「被曝=健康被害」と見る向きはあるがこれは明らかに間違いだ。今回の原発事故で日本人の半分いやそれ以上被曝したことは明らかだ。しかし事故以前も自然界から被曝を受けて生活している。それに若干の被曝が加わったと考えてよいだろう。健康被害を及ぼす被曝ではないことは福島県民を含めて明らかになりつつある。また年間加算被曝1ミリシーベルトはほぼ達成しつつある。

しかし1年以上たった今でも日本人のなかには放射能に対する警戒感が強い。先日の朝日新聞の調査では福島市内の母親の半分以上がいまだ子供が外で遊ぶのを拒んだり、洗濯物を部屋の中で干したり、福島産の食品を避けたりしているという。

親として子供の健康を心配する気持ちは理解できる。いくら数値で安全性を説明しても、一度危険をインプットされるとなかなかそれを排除できない。むしろそれによる精神的なストレスの影響が大きいといえる。

そこで今政府に提案したいことがある。野田首相自身が「放射能被曝安全宣言」を国民特に全国の母親に向かって表明することだ。もちろん政府のいうことは信用できない。政治的パフォーマンスだなどと意固地な評論家やテレビのキャスターは多いだろう。しかし政府がひとつけじめをつけることで原発事故以来国民を覆っている陰鬱の気分を相当払拭する効果があると思う。それが日本人が希望を持って前向きに進むための起爆剤になるだろう。