
一気に気温が上がって桜も咲くかなと思ったら、今日はまだ曇り空。
今年は案外長く、桜が楽しめるかも?と天気予報で。
さてさて、久々に書のお話をば。
随分と前に書いた木簡臨書から。
最初は真面目?に形臨したつもりからの、意臨。
ちと画像、曲がってますが

最後の字の左右のはらいの部分の、とぼけた愛嬌を表現したかったのと、
「母」はちょっとやりすぎな感あるけど、この母は、びよ~んと伸ばした腕が
見せ場なのね~と思ったので、その気持ちを汲んで書いてみました。
原本はこちら ↓ 右列 見の次から。
本の解説には「故里(理)母負」と。

臨書には、形臨(けいりん)と意臨(いりん)とがあって、
もちろん最初はデッサンと同じで、その形や筆遣いを真似て書く形臨から。
意臨は、呼吸やリズム、思いを受け止めて、オマージュして表現するもの。
わたしの場合、形臨をしているつもりでも、いつの間にかどんどん意臨になる。
実際には多くの木簡は、幅1cm程の短冊状の木の板に書かれていて
お役所の書類や罪状が書いてあったり、商売のやりとりや荷札、
お墓に故人と一緒にいれる履歴書みたいなものもあったりと、生活の書。
名筆と言われるものは筆者がわかるものが多いけれど 木簡はどんな人が書いたのか記録はなく、そこにとてもロマンを感じるのでして。
なので、わたしの場合、これを書いた人は豪快でお酒が好きそうとか、
繊細で優しい人だったのかな、不器用だけど正直な人だったのかな、とか
話しかけながら臨書します。
そこに、筆を変えたり、墨の量を変えたり、大胆に、繊細に、やわらかく、
とかとか、自分なりにテーマを変えて。
でも基本的な原本の、特徴はオマージュしつつ。

この筆は、秀逸。馬毛と羊毛なので、程よい弾力の長鋒兼毫筆

面相の小筆で
👆は、左の列の1行目の臨書。

どうしてそうなるの?と、書家でもあった母に面白がられていました。
でも、木簡はどこまでも自由な解放感を、わたしに届けてくれるのです。
木簡のように、あっからかんかんと、大らかに生きたいです。
お時間ありましたら
拙ブログでの ※形臨・意臨について
