チャンネル桜・瓦版:世論(多数意見)の真逆(少数意見)がほとんど正しい・西村浩一ブログ

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 西部邁師38。絶対権力としての『民主』:心(考え方)と食と体(身的ストレス)を改めればがんは治る

2016-09-12 04:36:14 |  西部邁師の論

    <西部邁師の論(38)。絶対権力としての、『民主』> 

 民主主義における「絶対権力。」とは、何か? 

 それは、民衆主権主義の『主権』、そのものです。

 ソヴリン・パワー(主権)は、絶対・無制限のソヴリンティ(崇高性)を有する、と(定義によって)『規定』されているでは、ありませんか?

 これを指して、アレクシス・ド・トックヴィルが、(19世紀前半に)「ティラニー・オブ・ザ・マジョリティ。」(多数者の専制)と呼びました。

 絶対権力とか、専制とか聞いて、単独者や、少数の支配のみを想定するのは、間違いです。  

 『世論』に逆らうこと不可能という、今日の状況を見れば、「多数者による、少数者への、絶対的専制。」というものもあるとしなければ、なりません。 

 民衆という名の多数者が、国民投票のような、直接的な形や、代表者選出という、間接的な形で、政治に対しパーティシペーション(参加)を行うこと、それ自体を非難しているのではありません。

 また投票場や、会議室で、マジョリティ・ディシジョン(多数決)が、行われているのが、悪いと言っているのでもないのです。

 ここで、絶対権力の絶対腐敗というのは、それらの参加や決定に、「絶対性。」や「崇高性。」を付与するという、「空恐ろしい、価値観。」のことを指しています。

 観念の論理として、あるいは、言説の一貫性において、絶対・崇高が、意味を持つのは、17世紀から18世紀にかけての絶対君主の権力に関する、「神授説。」だけではないでしょうか? 

 ゴッド「神」は、崇高成存在と、最初から『定義』されているのです。

 それから授かった権力もまた、崇高だということになります。

 民衆は、「どこから。」、崇高を「授かった。」のでしょうか?

 

 


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