<西部邁師の論(38)。絶対権力としての、『民主』>
民主主義における「絶対権力。」とは、何か?
それは、民衆主権主義の『主権』、そのものです。
ソヴリン・パワー(主権)は、絶対・無制限のソヴリンティ(崇高性)を有する、と(定義によって)『規定』されているでは、ありませんか?
これを指して、アレクシス・ド・トックヴィルが、(19世紀前半に)「ティラニー・オブ・ザ・マジョリティ。」(多数者の専制)と呼びました。
絶対権力とか、専制とか聞いて、単独者や、少数の支配のみを想定するのは、間違いです。
『世論』に逆らうこと不可能という、今日の状況を見れば、「多数者による、少数者への、絶対的専制。」というものもあるとしなければ、なりません。
民衆という名の多数者が、国民投票のような、直接的な形や、代表者選出という、間接的な形で、政治に対しパーティシペーション(参加)を行うこと、それ自体を非難しているのではありません。
また投票場や、会議室で、マジョリティ・ディシジョン(多数決)が、行われているのが、悪いと言っているのでもないのです。
ここで、絶対権力の絶対腐敗というのは、それらの参加や決定に、「絶対性。」や「崇高性。」を付与するという、「空恐ろしい、価値観。」のことを指しています。
観念の論理として、あるいは、言説の一貫性において、絶対・崇高が、意味を持つのは、17世紀から18世紀にかけての絶対君主の権力に関する、「神授説。」だけではないでしょうか?
ゴッド「神」は、崇高成存在と、最初から『定義』されているのです。
それから授かった権力もまた、崇高だということになります。
民衆は、「どこから。」、崇高を「授かった。」のでしょうか?
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