<西部邁師の論(42)。民衆制から公衆制へ>
メディオクラシ―(情報媒体の支配)において、メディアから冷ややかに扱われていた安倍自民党が圧勝したのは、特筆されてよい。
「メディアには、もう騙されたくない。」という覚醒した気分があったのも否めない。
だから、希望的観測に終わるかもしれないが、デモクラシー(民衆制)がオクロクラシー(衆愚制)に落ちていくのを防ぐ切っ掛けを、この安倍政権に見出すことができる。
◇、誤解されてきた共和制
政治学における指導的な解釈では、共和制は君主制に対立させられる。
リパブリカン(共和主義者)は、パブリック(公衆)が主権者となることを要求しているので、君主(あるいは天皇)に大権ありとする、モナキー(君主制)とは相容れないというのだ。
共和制の標語は、君主制妥当とほぼ同義のものとして、広場や街頭やパンフレットや書物に掲げられてきた。
しかしこの分野は、中江兆民がつとに指摘していたように、『誤解』にもとづいている。
レスは『物』であり、パブリカは「公共的。」ということである。
したがって、公衆の公共心にあって君主を戴く気持ちが強いのならば、共和制が君主を伴っていてもかまわない。
もちろん、その場合の君主は政治権力の動向に直接かかわることは少ないであろう。
英語でいうと、「君臨すれども統治せず。」といった形での文化的な権威、それが君主だということになる。
その点では、明治憲法においてであれ、昭和憲法においてであれ、日本の天皇も同じく、本質的には(権力というよりも)権威の象徴なのである。
ただしオーソリティ(権威)ということの意味を、正しくとらえておかなければならない。
オーサーは著者のこととされているが、その原義は物事のオリジン(源泉)を表す人ということだ。
オーソリティも同様であって、それは「国家の歴史的な由来。」にかかわるという点で権威がある、とされるのである。
つまり、君主(あるいは天皇)を権威とする国民の「公共心。」にあっては、「国家の歴史。」のことが尊重されているのである。
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