扇子と手拭い

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襦袢に魅せられて

2014-07-31 11:29:29 | 日記
▼志ん朝の襦袢ないか
 アッシも、落語のお手本にすんなら、志ん朝を置いて他にないと思った。すっかり虜になり、浅草に行くことにした。4年前の出来事。呉服屋で「志ん朝師匠が着ていたような襦袢はないかい」とたずねたところ、店主は奥の棚から1本の反物を抜き取り、アッシの目の前で広げて見せた。

 浅草には歌舞伎役者や落語家が贔屓にしている老舗の呉服屋や扇子店が多い。話で聞いていた呉服屋の暖簾をくぐった。なるほど、出て来た襦袢は、志ん朝が落語「文七元結」を高座にかけた際に着ていたのとそっくりだ。

▼襦袢1枚で18万円
 気に入り、値段を尋ねたところ「18万円」ときた。驚いた。襦袢1枚でこの値段。早々に呉服屋から退散した。年金暮らしにとっちゃあ、18万円はひと月分?の生活費だ。ホイきたと、右から左に買えるわけがない。

 それより何より、落語を習いたての分際で18万円の襦袢など着たひにゃあ、冥途の志ん朝が腹抱えて笑うよ。まずは落語をシッカリ稽古することだ。そう考えなおして、8000円也の半襦袢でガマンした。

▼稽古欠かさない志ん朝
 襦袢の色と言えば、大抵が白かグレーか紺。そこを、志ん朝は淡いブルーに置き換えた。真っ黒な着物の襟元からそら色の襦袢がのぞく。粋だ。実に様子がいい。人は志ん朝のことを「彼は華があり、噺に色気がある」「本物の江戸弁を話す最後の噺家」と礼賛する。

 だから落語好きの中に、“志ん朝信者”がゴマンといる。彼ほど愛された落語家はいない。ご贔屓筋から毎晩のようにお座敷がかる。だが、いくら遅くに帰宅しても、志ん朝は落語の稽古を欠かさなかった、と実姉の美濃部美津子は、「志ん生・馬生・志ん朝 三人噺」(扶桑社)の中で語った。 

▼「へっつい」と「かわや(厠)」
 そんな志ん朝も戸惑うことがある。江戸落語でしばしば登場する「へっつい」「かわや(厠)」。この言葉が分からない人が増えていることだ。落語の名作「火焔太鼓」は古今亭のオハコだが、オチの「おじゃんになる」、の意味が理解できないと話にならない。

 今は火の見やぐらも半鐘もめったに見ない。木槌で半鐘をジャンジャンとたたく、なんてことも分からない。世の中のものは時代とともに変化する。時代劇が盛んだった時代は、映画でいろんなことを知った。ところが、「時代劇はカネがかかる」といって、映画でもテレビでもほとんどやらなくなった。

▼難しいから楽しい
 20代で「きせる(煙管)」を知らない女の子がいた。そんな子たちに「へっつい」「かわや(厠)」を理解してもらうのは骨が折れる。私たちの落語も一層の工夫が必要だ。落語は難しい。知れば知るほど奥が深い。だから楽しい。


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