扇子と手拭い

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記事も読める視覚障害者(落語番外編)

2012-02-29 22:11:33 | 日記
▼反響呼んだ一文
 視覚障害者の方が疎開支援の会あてに綴った一文は、その後、大きな反響を呼んだ。「大丈夫 みんな生きてる」を見た方から、「読んでいて涙が止まらなかった」「心にしみた」などの声が寄せられた。同時に、全盲の方があの長文を書いたことに驚いていた。

 疎開支援の会の世話役にわけを聞いた。視覚障害者には専用の点字パソコンがあるという。「おにぎり」とキーボードをたたくと、「お、に、ぎ、り」と音声が伝わる。その声を確かめて、次の言葉を入力する。

▼全盲で記事を読む
 さらに箸と橋、端などの違いは、「ご飯を食べるハシ」「人が渡るハシ」「真ん中と端っこのハシ」などの音声を選択するという。ひらがな、カタカナ、漢字、数字なども使い分けることができるそうだ。この作業を繰り返すのだから、文章作成には健常者の何倍もの時間がかかる。

 メールに「記事を見つけましたので、貼り付けます」と書いてあったが、どういうことか意味が分からなかった。「全盲の方が記事を読む」ことなど可能なのだろうかと思った。新聞記事については、声を出して読んでくれる専用ソフトがある、と聞き納得した。

▼思いを巡らせもう一度
 毎日のようにパソコンと向き合っていながら、何も知らなかった。視覚障害者の立場から考えたことなど一度もなかったからである。落語会への感想も、その後の長文も、きっと大変な思いをして書いてくださったのだろう。そんなことに思いを巡らせながらもう一度、読み返した。

集めた額はわずかだが(落語2―93)

2012-02-29 14:05:24 | 日記
▼親を失った子どもたち
 東日本大震災で親を失った子どもは2005人を数えている。震災遺児を支援している「あしなが育英会」によると、このうち中学生から高校生までが850人だという。

 これは育英会に一時金の申請があった数で、実際は、もっと多いようだ。兄弟や祖父母、親戚が養育を担っているが、就職先が見つからない保護者も多く、厳しい生活を強いられている。

▼中断した支援活動
 私たち文七迷人会は昨年、復興支援チャリティー落語会を開き、義捐金を募った。当初、義捐金は被災地に届ける予定だったが、支援活動に熱心だった落語仲間が突然、がんに侵され、彼岸に旅立ったため計画は中断したままになっていた。

 その後、既報の通り、昨秋にいわきのNPO「ザ・ピープル」と連携を取り、今月20日にやっと落語会を開催する運びとなった。ところが、直前になって私がドクターストップをかけられ、いわきに行くことが出来なくなった。しかし、みなさんの温かいお気持ちが詰まった義捐金を、いつまでも預かりっ放しでは気が落ち着かない。

▼8万2550円の義捐金
 思い浮かんだのが震災遺児のことだった。集めた額はわずかだが、何かの足しにしてもらおうと考えた。そんな矢先に「あしなが育英会」の活動が耳に入った。義捐金の届け先は「あしなが育英会」に決めた。

 お預かりしている義捐金は次の通り。市川市の「九条の会」が1万9650円。新松戸の「幸谷花の会」が2万750円。浅草での第4回文七迷人会が2万1650円。そして柏市の旧吉田家での「あじさい寄席」が2万500円。4回で合計8万2550円である。

▼高座のわきに募金箱
 落語会を終え、「九条の会」のお客様に募金を呼びかける時は、勇気がいった。何しろ募金活動は生まれて初めてだからである。100円ショップで買ったポリ容器に「東日本大震災復興支援 義捐金」と書いた紙を貼りつけた。

 「私たちと同じように、こうして生活をしていた人たちが突然、地震に襲われ、家族も、家も一瞬にして津波にさらわれてしまいました。一つ違ったら、私たちが被災者になっていたかも知れません。協力を」と呼びかけた。高座のわきに募金箱を置き、着替えのため退室した。

▼うれしかった誤算
 箱の中を見て驚いた。予想していた100円コインではなく、ほとんどが1000円札だった。有難かった。うれしい誤算。思いやりが無性にうれしかった。ほかの3会場も同様に、大半が1000円札だった。中には私のご贔屓さまのように、「木戸銭代わりに」と5000円札を入れてくださった方もいた。ただ、感謝である。

 大変遅くなりましたが、お預かりしていた義捐金は「あしなが育英会」の遺児募金に届けさせていただきます。本当に有難うございました。  

大丈夫 みんな生きてる(落語番外編)

2012-02-27 09:48:39 | 日記
 昨夜(26日)遅く、疎開支援の会から1通のメールが届きました。一読いただきたいと思ったのは、私どもへの評価ではなく、後段の「おむすび」にまつわる話と、3・11のナマの声です。長くなりますが、注釈なしに原文のまま、全文を転載させていただきます。

 昨日の落語会に出席した全盲の男性から感想が届いていますのでご覧ください。 

 昨日の落語会に参加して、少しばかり感想を述べさせていただきます。多少ですが、落語を聞くことも好きな私です。何と言っても「円生」や「志ん生」「文楽」の名人芸でないと落語を堪能できないと思っておりました。

 所詮、素人さんの落語なので、内容的にはあまり期待いせずに参加したのが本音でした。しかし、お二人の語りを聞いてみると、とても素人落語でのレベルではなく、ご本人達が説明していたような、定年退職後に勉強会に3年ほどしか参加してないようなレベルではありませんでした。

 心から楽しみ、そして少々、反省するとともに、改めて、お二人の才能に喝采するばかりでした。そして、お二人の笑いで元気を出してもらいたいとの暖かい思いが伝わりました。また、疎開者の皆さんの、屈託のない笑い声に、本当に参加してよかったと思うばかりです。

 そして、終了後に、朝から作っておられた、「おむすび」をいただく時に、
私に、手渡しで「よかったら、食べて」とわたしてくれます。この「おにぎり」のずっしりした重さ、そして手のヌクモリごと、渡してくれたこと。私には、現在はコンビニで、柔らかく握った物より、心をこめて、一粒一粒をギュット堅く握った「、疎開者の皆さんが握ってくれた、東北の心が詰まっている、この「おにぎり」が、田舎育ちの私には本当に久しぶりに味わう、東北魂の詰まった最高のごちそうでした。

 今まで、どんな災害があっても、どんな苦しい時があっても、日本人は、すぐに行うことの一つに、まず、炊き出しのおにぎりで助けあうことでした。そんな時は、海苔なんかでは包みません。こころの詰まった「塩むすび」でした。食べて欲しいから、元気を出して欲しいから、心を込めて、女性達は、ギュット堅く握るのではないでしょうか。

 正に、心と心を結ぶから「おむすび」ではないでしょうか。もっと、元気を出して欲しいと逆に励まされたような気持ちです。先日も豪雪に巻き込まれた車の列に、近所のオバチャン達が、「ただの、塩むすびを握って励ましているのがニュースで放映されておりました。まだまだ、私達日本人は負けずに、頑張っていけます。

 恥かし話しですが、このメールを書いている今でも、昨日の「おにぎり」を思い出すと、涙がコボレテきます。NTT社宅の方々の心に感謝、感謝です。そして、間もなく3月11日がやってきます。この一年、視力を失った私には、TVでの映像を見ることもできずに、新聞等の報道で、東北のことを思い浮かべることしかできませんでした。

 仙台で生まれ育った私にとって、ほとんどの土地は幼ないときの記憶のままです。周りの方の中には、見れなくて本当はよかったかも知れませんと言われる方もおられました。

 最後になりますが、以下のような記事を見つけましたので、貼り付けます。被災者のお一人お一人が様々な体験をお持ちで、この一年過ごしてきたわけです。我々、柏の疎開支援の会は、ちっぽけな集まりかも知れませんが、少しでもお力になれることを行っていきたいと思いを改めて決意する本当によい一日でした。

 それでは、以下、よろしければお読み下さい。

 昨年3月11日午後2時46分。ビィー! ビィー! 携帯から不快な音が鳴る。

 《緊急地震速報 強い揺れにそなえてください》

 グラッ…グラグラ。慌てて道路脇に車を止める。電信柱がしなりまくる。揺れが収まると胸騒ぎがした。

 …津波。

 この地にうまれたときからの教えなのか。気仙沼港の魚市場前で水産物の包装資材会社を経営する実家が気にならないわけでもなかったが、山の麓にある6歳だった長男の幼稚園に向かった。妻に送ったメール。

 《午後3時2分 パパ大丈夫。ママ次男大丈夫かな? パパ幼稚園行く》

 長男は園児、先生とバスで不安そうに待っていた。

 《午後3時22分 ママ大丈夫か。長男確保》

 返信がない。長男と待機する。…ママが来ない。

 雪が降ってきた。車内の光に反射して白いのがわかる。時折、爆音が聞こえる。町の中心が大火事で赤く染まっている。誰一人言葉を発する者はなかった。眠れず夜を過ごす。時折、園児の泣き声も聞こえる。

 メールが残っている。

 《12日午前1時28分 大丈夫大丈夫大丈夫大丈夫大丈夫大丈夫大丈夫みんな生きてる。大丈夫》

 《12日午後2時26分 助かれ助かれ助かれ。お願いしますお願いしますお願いします》

 妻は震災当時、実家で長男を迎えに行く直前で、揺れが収まるまで抱き合っていた。幼稚園に車で向かうが、愛犬チワワのことを思いだしUターン。チワワを確保し再度幼稚園に向かうが道路は大渋滞。午後3時半ごろ後方の海から波が襲う。前からは川からあふれ出た波が襲いかかる。波にさらわれ慌てて次男のチャイルドシートのベルトをはずしたとき、波は車を全てのみ込んでいた。

 もがきながらなんとか後ろの窓から脱出する。両手で次男を抱えながら。

 泳げない妻が浮いたのは寒い日でダウンジャケットを着ていたため。2人とも海面から顔を出すと「プッハー」と息をした。目の前にはがれきと、叫ぶ人の声。「こっちこっち! 大丈夫か!」。近所のおじさんの家の2階に避難。びしょぬれの妻と次男におじさんは毛布を貸してくれた。

 翌12日午後、自衛隊により救助。後日、この場所で5体の遺体が見つかった。

 結局、妻と次男に再会できたのは13日の夜だった。暗い避難所を隅々探す。懐中電灯で照らすのも気がとがめた。妻と次男を発見する。何も言わず抱き合う。不思議と涙は出なかった。我慢強い妻は目の前で涙を流した。貴重な涙だった。生きているではなく…生かされている。強く感じた。

 家族がそろった。生き残った。食べるものがない。

 道端でリンゴを売っていた。1個100円。たまたま持っていた300円で息子に食べさせようと立ち寄った。「リンゴを3個」と言って300円渡すと、おばさんは「1個、2個、3個、3個、3個、3個…」とリンゴを10個、袋に詰めて渡してくれた。涙が出た。これで息子たちに食べさせられるという思いと、人の温かみに涙が止まらなかった。

 3月20日。妻の父と妻の姉の夫が千葉県香取市から500キロの道のりを10時間かけて迎えに来た。100リットルのガソリンをかき集め夜通し走ってきてくれた。

 妻の父に気仙沼に嫁がせたことを申し訳なく心が痛んだ。しかし、妻の父はそんなことにはみじんもふれず、私と妻と孫2人を快く迎えてくれた。後ろ髪を引かれる思いだったが、妻の実家に引っ越しをする。

 慣れない土地、3・11のフラッシュバックに耐えられなくなる。あの日、僕はなぜ生き残ったのか。うまれたことに助かったことに後悔さえしていた。

 あらゆる方から支援していただいた。今の福祉事業・相談員の仕事も、妻の姉の友達による紹介です。今も大変な気仙沼に残った両親からは電話が入る。「お金はあるか」「自転車送ろうか」「体に気をつけてよ」。自分が言わなければいけない言葉を言われる。思っている以上に両親の愛情を感じる。ありがとう。

 物静かな妻と長男、反抗期の次男。4人揃わなかった3日間は辛かった。本当に辛かった。いつも側にいてくれてありがとう。

 人は、ひとりでは生きていけない。生きてて…よかった。

癒すハズが癒された(落語2―92)

2012-02-25 16:34:38 | 日記
▼落語が癒しを実感
 落語会に来た被災者の方は実によく笑ってくれる。それまでこらえていたものが、堰を切ったかのように一気に弾ける。客席の前も後ろも、右も左も、みんな眼を細くし、声をあげて笑った。落語が癒しになっている。改めて実感した。

 明け方、手洗いに立った際、何となく開いた枕元の携帯電話で、今日が「25日」であることを知った。「落語会はあさって」と思い込んでいたので、まだ、高座にかける噺をさらっていない。もう一度、ベッドに潜り込んだが、落語が気になって寝付けない。そのうちに、携帯が午前6時を告げる音を響かせた。

▼流しのそばまで立ち見
 午前10時には落語仲間の「つばる」を駅まで車で迎えに行くことになっている。朝食をすませてすぐ稽古に入った。外は冷たい氷雨。これをマクラに「時そば」をさらったが、肝心なところが抜け落ちた。やり直した後、「宿屋の富」を通しでやった。9時半を過ぎている。急いで車に乗り込んだ。寒いはずだ。外気は3度だった。

 柏市のボランティアグループ「疎開支援の会」主催の「柏たんぽぽ寄席」は、25日午前11時から柏市内のNTT社宅談話室で開演した。幼児を連れて避難してきた30代の親子からお年寄りまでお越しいただき、狭い部屋はすぐ埋まった。台所の流しのそばまで人が立っている。

▼ツーと来て、高い木の枝に
 CD出囃子に促され登壇したが、全く拍手がない。「あたしが座布団に座って皆さんに頭を下げたところで、拍手が来る、という段取りでよろしく願います」と笑わせると、納得したのか、今度は、笑いといっしょに大きな拍手が沸いた。今朝の稽古が効いたのか「時そば」はどうにかこなせた。

 次いでつばるが「つる」を披露。控室で聴いていたが、つばるは花伝亭の亭号のいわれから、どうして「つばる」と命名したか、について言葉巧みに説明。マクラで、あれだけ笑いを取るのは大したものだ。そして本題の「つる」へ。「ツーと来て、浜辺の高い木の枝に止まる。またつぎのが・・・」。何度も大きな笑い声が響いた。

▼にぎり飯に浅漬け
 最後はぺん太が「宿屋の富」でご機嫌をうかがった。ちょうど今、震災復興支援のジャンボ宝くじの発売中。1等(3億円)が当たると、前後賞(1億円)を合わせ5億円。江戸のジャンボな当選金は千両。千両と言えば、家族4人で40、50年は暮らしていけるほどの大金だったという。いずれにしても目出度い話だ。そんな話を交えて景気よく、にぎやかに高座にかけた。

 落語の後は、皆さんが用意してくれた五目にぎり飯を一緒にパクついた。「これ、私が作ってきたの」と言って、キュウリの浅漬けを出してくれた。向こうからは「カブもあるよ」と声がかかった。「疎開支援の会」の方が、紙コップにワインを注ぐ。「車ですから」とぺん太。おいしいおにぎりを3個もいただいた。

▼癒すハズが癒された
 「ちょっといいですか」と部屋の隅から声が上がった。「80超えてんだけどお、どうして鶴の首が長くなったのか、今まで知らなかった。今日はええこと聞いた。おじいさんは8年前に死んだが、あっち行ったら、教えてやんだ」。岩手から避難してきたおばあちゃんだ。このひと言に、座がドッと沸いた。癒すハズのこちらが逆に癒された。

生きる元気が出た(落語2―91)

2012-02-22 22:59:48 | 日記
▼被災地で出前寄席
 福島県いわき市で開催した被災者支援の落語会は、どこも盛会だった。「いや、笑った、笑った。ほんとに面白かった」と、受け入れ側のNPOの方から電話があった。これも「木製」(もくせい)、「のみ助」のご両者、それに、急を聞いて“助っ人“に駆けつけてくれた「活砲偽」(かっぽうぎ)のおかげである。お三方に感謝したい。

 私たち社会人落語家集団「文七迷人会」は、東京・銀座をはじめ首都圏各地で東日本大震災復興支援チャリティー落語会を開いているが、前々から被災地に出前寄席を届けたいと考えていた。ところが、熱心だった相棒が突然、彼岸に旅立つなどしたため、予定がとん挫。

▼2日間で計4か所
 そんな矢先に、支援物資の関係で昨年秋、知り合ったのが、いわきのNPO「ザ・ピープル」だった。落語の出前を知った先方が、「いわきにも、出前して欲しい」と注文。それでは、せっかく行くのだから、何か所かやろうじゃあないか、となり20、21の2日間で計4か所と決まった。場所の選定は「ザ・ピープル」に一任した。

 ところが、直前になり私が体調を崩し、診断の結果、医師からいわき行きを止められた。だが、何カ月も前から計画し、被災者の皆さんも心待ちしている落語会だ。中止にはしたくなかった。自分は行かないで、他の人に言ってくれというのは虫のいい話である。

▼本当にうれしかった
 断られるのを承知で、事情説明したところ、「私でよければ、行きますよ」と木製。「2人でやってきますよ」と、のみ助も二つ返事で快諾してくれた。よかった。うれしかった。「今回は中止しよう」と言われても仕方ないと思っていたので、本当にうれしかった。おふたりに心から感謝している。

 落語仲間の活砲偽に、木製が“助っ人“を依頼、快諾を得た。20日早朝、3人は車でいわきに向かった。楢葉町の中央台第10仮設住宅(第2集会所)で午後1時、開演。ナマの落語を聴くのは初めての人が多い。最初に登壇した活砲偽は、故郷の山形弁で語りかけることにした。

▼フワーと漂った安心感
 木製の話によると、その瞬間、客席に「フワーと安心感が広がった」。緊張していた会場の空気が、山形弁で一気に溶けるようだった。きっと、福島に近い人が来てくれた、といった安心感が漂ったのではないか、と木製。

 初日はこのほかもう1か所で公演。翌日も2か所をはしごした。どの会場も40、50人の入りで席が埋まったという。人集めのために、現地の世話役の方が何度もハンド・スピーカーを片手に、呼びかけてくれたそうだ。

▼生きる元気が出た。ありがと
 おびただしい仮設住宅が立ち並ぶ周りには、「何も見当たらなかった。これといった娯楽もなく、みなさん、ほとんどウチにいるんでしょうね」。厳しい現状を目の当たりにして、のみ助は言葉を飲んだ。

 被災者の皆さんは落語会を楽しみにしていたようで、「本当によく笑ってくれた。帰り際に、被災者が手を握って(落語を聴いて)“これで長生きするよ”と言ってくれた」とのみ助。「落語やってよかった。私にとっても、うれしい落語会だった」。

 別の会場で木製が「鶴」を披露したところ、今年86歳になるおばあちゃんがやって来た。地震、津波、原発に襲われ、生きる希望をなくしていたという。それが、噺の中で「鶴は1000年生きる」と聞いて、「生きる元気が出た。ありがと」、と言って両手で何度も手を握りしめてくれた。胸が詰まって・・・。木製は返す言葉が出なかった。