扇子と手拭い

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一歩違えると猥褻噺に

2012-12-26 23:14:32 | 日記
▼締め出し食った2人
 「雑俳」と合わせて初春の高座までに覚えたいと思っているのが「宮戸川」。この噺は大人向きの艶笑落語である。それだけに、一歩違えると猥褻な噺になりかねない。そこを、どうまとめ表現するか、が思案のしどころ。(敬称略)

 噺は、将棋に夢中になった半七が、帰りが遅くなり、おとっつあんから締め出しを食う。いつものように叔父のウチに泊めてもらうことになったが、そこに歌かるたで遅くなり、おっかさんから締め出しを食ったお花が泊めて欲しいとやって来た。

▼「半ちゃん恐いわ」とお花
 近所で「早合点で早とちり」として有名なおじさんは、「そーいうことか、分かった」と2人を二階へあげてはしごを外す。戸惑う2人。そのうちに、ポツリポツリと降ってきた雨が、やがて盆を返したようにザー。雷がピカッと光って近所に落ちた。

 お花は「半ちゃん恐いわ」と、思わず半七の胸に飛び込む。とっさのことで、思わず知らずお花をグッと抱きかかえる半七。裾が乱れた着物の下からお花の雪のように白い足がスーと出ている。

▼半七とお花どう描く
 さて、問題はこれから先である。古今亭志ん朝は、「裾が乱れた着物の下からお花の雪のように白い足がスーと出ている・・・」と言った後、「こっから先、本が破けちゃって読めなくなって、失礼いたしました」と下げている。

 古今亭菊志んは「半七はお花さんの膝の上に手を乗せて、その手がだんだん上がってくる・・・。というところでお時間でございます」と志ん朝を手本に、少しだけ手を加えている。

▼難しい半七の手
 これに対し、「半七が19で、お花が18・・・。2人はいま、誰もが一度は通らなければいけない青春の門に差しかかっている。知らず知らずのうちに半七の手が外腿から内腿へ・・・。というところで本が破けてまして」というのが春風亭小朝。

 確かに、小朝の「宮戸川」は面白いが、自分が演じるとなると、考えてしまう。小朝の場合は「小朝の宮戸川」が聴きたいためにやって来る客が対象。ところが、あたくしの場合は落語を初めて聴く人がほとんどだから、いきなり「内腿」まで行くとエロ話が始まった、と錯覚される。

▼艶笑噺と下ネタとの違い
 艶っぽい噺は、どこでも演じても人気が高い。が、「お色気」でとどめるべきで、「エロ」まで飛び込んでは、それこそ艶消し。落語は、ヘンなお笑い芸人がやる下ネタとは違う。下品になっては元も子もない。その辺りの線引きをキチンとしないといけない。落語は想像芸である。マイルドに包み込んだ言葉から「色や艶」を頭に浮かべていただければ、と思っている。

 そこで、あたくしは、落語仲間ではない友人に、いろんな噺家のサゲの部分を比較して聴いてもらった。その結果、「知らず知らずのうちに半七の手が・・・というところでお時間でございます」で決着した。

落語と歌舞伎は裏表

2012-12-25 00:24:22 | 日記
▼案内状片手に庵に参集
 十一代桂文治襲名後、初のおさらい会が24日午後、東京目白の和風庭園内の庵で開かれた。この会は平治時代から熱心なファンのコアの集いで毎回、大阪や札幌などからわざわざ、これだけを聴きにやって来る。この日も満員札止め状態。出遅れたあたしなんぞは座布団もない、通路わきの狭い空間にじかに座る始末。(敬称略)

 この会は師匠から届く案内状持参の人に限っての会。全席自由席とあって午後2時の開演に、朝の10時から整理券をもらうために並んでいるというから驚いた。外の気温はおそらく7、8度だろう。無理をしてはいけない。

▼楽しみは師匠の解説、裏話
 開口一番は「高砂や」を引っ提げて師匠、文治が登壇。普段なら前座が登場するのだが、春風亭昇々クンが二つ目になったのでゲスト扱い。敬意を表して自分が先に上がった。昇々クンは「粗忽長屋」をネタおろし。そして文治が再度登場し、「棒鱈」をかけた。中入り後は三席目として「睨み返し」を披露した。

 おさらい会の楽しみは師匠の解説、裏話。「高砂や」は今ではほとんど高座にかける人がいない噺だそうだ。「あたしは、わかば師匠から教わった。三べん稽古の後、師匠の目の前でやった」と文治。よく3回ぐらい教えてもらっただけで出来るものだ。あたくしなど、とてもプロの噺家にはなれない。

 ついでに「や」と「屋」の違いについても教えてくれた。「焼き芋や」、「唐茄子や」など担いで歩く商いは「や」と言い、店を持って商いする「屋」と使い分けた、という。

▼落語と歌舞伎は裏表
 「棒鱈」は料理屋の二階で官軍らしき田舎侍が、隣座敷の町人と大喧嘩。そこへ急を聞いて下から駆けつけた料理人が「まあまあ」と仲裁に入る。ところが、手にした胡椒に気づかず両手を振り回したので部屋中に胡椒を散布。双方ともクシャミが止まらず、喧嘩どころの騒ぎではない。階下の客からの「喧嘩はどうしました」の問い掛けに、「胡椒が入ったところ」。

 このサゲの意味は歌舞伎「三人吉三」を知らないと分からない、と師匠。「三人吉三」とは、ご存じ「月もおぼろに白魚の 篝もかすむ春の空、 冷てえ風にほろ酔いの 心持ちよくうかうかと」の名台詞で知られた「三人吉三巴白浪」(さんにんきちざ ともえのしらなみ)の主人公たち。和尚吉三、お坊吉三、お嬢吉三の3人だ。

 2人の吉三の喧嘩の止め役が和尚吉三。つまり和尚がけんかの仲裁に入った。落語のサゲ「胡椒が入ったところ」は、「和尚が入ったところ」をもじった洒落。「落語と歌舞伎は兄弟みたいな関係。だから歌舞伎が好きな人は落語が好き。落語が好きな人は歌舞伎が好きな人が多い」と師匠は話した。

▼超SFの世界の噺
 さらに、「落語の“らくだ”は勘三郎さんがよく舞台にかけていたが、この噺は歌舞伎の方がよく分かる。“らくだ”が酔っぱらって、みんなと一緒に踊るところなど落語ではとても表現できない」と続けた。

 話は「粗忽長屋」にもおよび、「これは超SFの世界の噺だから演じるのは難しい」と言いながら、あたま山、愛宕山など同類の噺を例に、新鮮な解説をしてくれた。

 この日はもっとすごい話が飛び出したが、長くなるので表題を改めて紹介したい。

鼠穴でリッチな気分

2012-12-22 00:19:32 | 日記

▼鼠穴でリッチな気分
 いつもながらいい噺を聴くと、とてもリッチな気分になる。20日夜の日暮里特選落語会は、実によかった。特にトリをとった立川談幸の「鼠穴(ねずみあな)」は、思わず聴き入った。(敬称略)

 前座の開口一番「金明竹」に続いて、三番手のはずの柳亭燕路が登壇。「粗忽長屋」を高座にかけた。本人は「(三遊亭)吉窓あにさんはいま、こちらに向かってほふく前進中」。だが、あとで高座に上がった吉窓が「アイツが先に上がらせてくれ、といったのです」と笑う。

▼桂小文治の「品川心中」
 何でも小三治主催の柳家一門の忘年会があるそうで、燕路は噺を終えると急いで会場に飛んで行った。年の瀬ならではの光景である。二番手は私たちの落語の学校の師匠、桂小文治。「品川心中」をたっぷり聴かせた。のどを壊していたがすっかり元に戻っており、安心した。

 仲入りの後は吉窓が「熊の皮」を一席披露。そしてトリが談幸の「鼠穴」。この噺は六代目、三遊亭圓生や談幸の師匠、談志が得意とする大ネタ。大店の主人である兄に、あきないの元手を借りに行った弟。「貸してやろう」と兄が差し出た金が三文。現在の貨幣に換算すると、わずか60円である。

▼どんでん返しに沸く聴衆
 弟、竹次郎は「世間の噂通り、兄は鬼だ」と怒る。とはいえ、「地べた掘ったって一文のゼニが出て来るわけがない」と一念発起。三文を元手に蔵を三つ持つまでになった。ところが、年の瀬の風の強い日に火事が起き、ネズミが開けた穴から蔵に火が入った・・・。

 笑いの少ない「聴かせる噺」である。談幸は45分以上の長講を巧みに演じ、最後のどんでん返しで聴衆を沸かせた。タップリ聴かせてもらい大満足である。

▼いなせな江戸の町火消し
 「武士・大名小路・錦絵・火事・喧嘩」と謳われるほど、江戸は火事が多かった。木造建築の上、棟続きの長屋とくれば一旦、火が出たら延焼は免れない。水をかけるポンプなどない時代。類焼防止の手段は周りの家の打ちこわしである。

 江戸町奉行の大岡越前は、「いろは四十八組の町火消し」を組織した。火消を扱った落語に「火事息子」がある。大店の跡継ぎ息子が粋でいなせな町火消しに憧れ、ウチを飛び出す噺だ。

 ところで、大名の江戸屋敷が軒を連ねる屋敷町には大名小路といって広くて、大きな道路が設けられた。徳川幕府は参勤交代と称して諸国の大名を江戸に集めた。江戸の町は武士であふれ、人口の半分が武士だったという説がある。大名小路は防火対策の一環である。

▼落語談義に花が咲く
 午後6時30分に始まった落語会が終わったのは午後9時近く。余韻冷めやらぬ中、連れといっしょに居酒屋「酔の助」の暖簾をくぐった。狭い店内は落語の先客でいっぱい。そこここで落語談義に花が咲き、大盛り上がり。そこへ衣装を着替えた師匠連が、打ち上げにやって来た。

 自宅が同じ私鉄の沿線ということで師匠、小文治と連れだって帰った。驚いたことに私の住んでいる町で、その昔、内弟子時代を過ごしたという。先代、桂文治の自宅があったので、あの辺りは馴染みがあると話していた。

 縁とは不思議なものである。すっかりいい心持ちになってわが家に着いた時は、午前零時を回っていた。

観る者を夢の彼方へ

2012-12-18 23:14:29 | 日記
▼伝統芸の素晴らしさ
 久方ぶりに歌舞伎を見物した。1階正面席の前から3列目。ここからだと、役者の細かな動きや顔の表情まで手に取るようによく分かる。3回観るところを1回に減らしても、歌舞伎はいい席で観たいものである。伝統芸の素晴らしさを味わった。充実した3時間半だった。

 平日だというのに東京・銀座の新橋演舞場は、開演前から長蛇の列。開演5分前のブザーが鳴るころは、1階から3階まで人で埋まった。師走興行・昼の部は、通し狂言「御摂勧進帳(ごひいきかんじんちょう)」。尾上菊五郎、菊之助親子をはじめ、坂東三津五郎、尾上松緑ら当代の人気役者が出演した。

▼夢の彼方へ誘う舞台
 前もって作成した道具帳と色彩、寸法、配置が寸分違わず設営された舞台は、どの場面も豪華絢爛で観る者を夢の彼方へと誘う。1階正面の後方客席に脚を組んだテレビカメラのようなものが3台並んでいた。なんとこれは照明器具だという。

 照明装置は2階席両サイドの先端部分にセットされているのが普通だと思っていたのでビックリ。それらに加えての設置。「目線で舞台の役者を追うので絵姿がクッキリ浮かぶ」と照明担当が説明してくれた。

▼「おんな」仕草は歌舞伎
 歌舞伎を観る理由の一つは落語の勉強のためだ。落語の学校に通っていた時、師匠から「落語をやるなら、出来るだけ歌舞伎を観た方がいい」とよく言われた。吉原の花魁だけでなく、長屋のおかみさん、粋な小唄のお師匠さん、小間物屋の箱入り娘など、落語で「おんな」を演じる場合、歌舞伎が仕草の手本になる。

 落語は男が「おんな」を演じるからおかしくて、笑えるのである。現在の女性から「おんならしさ」を学ぼうとしても所詮、無理な話だ。年齢が若くなるに従って最近の女性たちは、立ち振る舞いから服装、髪型、言葉づかいまで、限りなく男に近づいている。そんなわけで、「おんな」の仕草は歌舞伎で学べ、となるのである。

▼絶妙のタイミング
 さて、勧進帳は誰でも知っている歌舞伎の演目だ。安宅関で弁慶が主君の義経を打ち据え、難を逃れる、あの場面だ。一幕目はご存じ「暫(しばらく)」。顔に朱色と墨で隈取をした松緑が、大きく目を見開いてグッと睨みをきかすと、すかさず、大向うから「とーわゃ」と声が飛んだ。絶妙のタイミングで歌舞伎通が「音羽屋」と声援を送ったのである。

 舞台と舞台の間の休憩時間は「仲入り」とは言わず、「幕間(まくあい)」と呼び、約30分間ある。この間に観客は弁当を食べ、歌舞伎談議に花を咲かせる。これも芝居見物の楽しみの一つだ。幕の内(弁当)は、ここから出た言葉である。

 折から、東京・浅草では師走の風物詩である羽子板市が開かれている。ここで売られる羽子板は、縁起物として昔から人気が高い。その中に、先だって彼岸に旅立った歌舞伎の名優、十八代目・中村勘三郎の羽子板もあった。

マクラは落語の八寸

2012-12-16 23:30:52 | 日記
▼マクラは大事な役どころ
 落語にはマクラが付き物だが、これがなかなか難しい。落語のマクラは、音楽でいえば前奏曲、懐石料理なら八寸といったところか。この出来がよければ、後に続く本題の噺もすんなりいく場合が多い。だからマクラは、落語にとって極めて大事な役どころなのである。(敬称略)

 新春の高座にかけるため、落語「雑俳」の稽古をしている。新宿の落語講座には通っていないので、故春風亭柳昇の音源だけが頼り。この人の「雑俳」は何度聴いても面白いので、やってみようという気になった。ところが、マクラで早くも躓いた。元の音源は次の通り。

▼バカバカしさが愉快
 あたしは競馬、競輪、麻雀、釣何もやりませんで、まあ、好きなのはタンカですね、1回乗ったことがありますが・・・。俳句も好きで18ん時に作ったんで我ながら傑作だと思ったのは「古池や蛙飛び込む水の音」・・・、これ私が作ったんすよ、ホント。聞いたらおんなし様なのがあるんですってね。驚いたね、江戸時代、私の盗作した人がいるんですってね・・・。

 という具合だ。このバカバカしさが愉快で、思わず吹き出してしまう。ところが、自分がやると、ちっとも面白くない。どこか空気が抜けている。これに対し、柳昇の語り口は独特の早口で、部分的に何を言っているか分からないところがある。が、全体を通して聴くと、ほんわかとした柳昇のリズムで噺が流れており、心地いいのである。

▼どうにも超えられない壁
 この違い。超えられない壁である。ひとの.真似をするだけではダメ、と改めて悟った。人はそれぞれ波長が違う。そこで柳昇のマクラの材料を参考に、自分なりに作ってみた。「雑俳」は俳句をネタにした噺なので、こんな風にした。

 近ごろ、新聞やなんか見ますと、素人が作った俳句で上手いのが載ってますね。「信濃川 雪の越路を真っ二つ」・・・。雪化粧をした越後平野に太い線を1本引いたように流れる信濃川が目に浮かぶようですね。「雪の朝 二の字二の字の下駄の跡」。これ、6つんなる女の子が詠んだ、ってんですから、すごいですね。あたしなんかだと、雪の朝 下駄で、すっ転んで尻の跡。そうかと思うと、「黒犬を 提灯にして雪の道」。・・・。雪道に黒犬を連れて歩くと、提灯代わりになるてんですが、そんなの、なりゃしませんが、なるような気がする、てんです。

▼俳人か廃人どっち?
 口に出して読んでみたが、イマイチしっくりこない。落語は川の流れのように澱みなく運ばないといけないのに、スムーズに流れない。三転四転の手直しの挙句、結局、たどり着いたのが以下である。

 私、雪の降る季節になると、思い出す俳句があるんです。「雪の朝 二の字二の字の下駄の跡」・・・。これ、6つんなる女の子が詠んだ、ってんですから、驚きました。朝起きて外を見たら一面が真っ白な雪景色。子どもだから多分、積もった雪の上を下駄で歩きまわったんでしょうね。そしたら綺麗に下駄の跡がついていた。何だか情景が目に浮かぶようですね。この子は田捨女と言って、のちに有名な女流俳人になった。はいじん、たって薬やったんじゃないんですよ、俳句の方の俳人ですから。でね、さっそく、あたしも真似して一句作ってみました。「雪の朝 下駄ですっ転んで尻の跡」・・・。

▼まずは、やってみよう
 「はいじん、たって薬」を、最初は「はいじん、たって覚せい剤」としたが、言葉がきつすぎる、として「薬」に改めた。だが、「薬」で「俳人→廃人」が分かってもらえるか心配だ。腕に注射する仕草を加えた方がいいのかどうかも、思案のしどころ。「俳句の方の俳人ですから」の文言は、邪魔ではないか、と迷っている。落語は耳から聴く想像芸だから聴き手に理解してもらうのが難しい。

 で、「雪の朝 下駄ですっ転んで尻の跡」のあと、一呼吸おいて「こんちわ」。「おや珍しい、八っつあんじゃないか。まあまあお上がり」と本題に入る、という寸法だ。このマクラで、客がすんなり噺に入ってくれるか気がかりだ。が、思案ばかりしていては、前に進まないので一度、これでやってみることにする。