▼初の大ネタに挑戦
「素人の落語はせいぜい7、8分がいいところ。15分の噺など、とても聴くに堪えない」。私たちの師匠ではないが、あまり知られていない真打の落語家が言ったのを覚えている。それなのに今、30分を超える大ネタに初挑戦している。恐れを知らない試みである。さあ、どうする。
私たちは今月30日、浅草で落語会を開く。そこで「百川」のネタ卸しをしようと考えている。何しろ大作だ。なかなか覚えきらない。場面展開に合わせて、ぶつ切りにして、稽古するが無手勝流だから、肝心の仕草が分からない。カミシモにも自信がない。再度、落語の学校に通うのは落語会の前日からだ。とても間に合わない。
▼のどはカラカラ
第一、こんな長い噺は、師匠に稽古をつけてもらえない。私たちがやるのは寄席と同じで、一席15分と決められている。悪戦苦闘していたが先日、三鷹に向かう途中の電車内で「百川」を復唱していたら、偶然にも通しで出来た。一度でも上手くいくと、妙に自信がつく。
圓生さんの「百川」は30分少々だが、同じ噺を私がやると35、6分かかる。向こうは昭和の名人、噺のテンポが違う。この辺りが素人芸の悲しさ。圓生さんは「百川」の中で、何度も脇の湯呑みからお茶を含む。自分で演じてみて初めて分かった。とにかくのどが渇く。何しろ延々としゃべりっぱなしだからカラカラ。
▼落語専用の田舎弁
「縮めなくては」と、噺をドンドン刈り込んだ。ストップウォッチをそばに置いて、最初からやり直し。「刈り込み」と「稽古」を繰り返すうちに、どうにか30分近くに収めた。あとはどう、仕草を付けるかである。生きのいい河岸の若い衆は、手ぬぐいを片手に持って演じてみた。老舗の旦那は、ゆったりとした感じでやってみよう。
問題は「百川」のスターである百べえさん。田舎から江戸へ出てきた百べえさんを演じるのが一番難しい。「山かもんで、一向わけ分かんねえもんでがすが」。「がす」などと言う方言はない。鹿児島だ、富山だ、と特定地域を連想させるような言葉は好ましくないとして、落語専用の田舎弁が出来上がったのだろう。
▼落語を腹に入れる
落語仲間は「もっと大げさに、言葉に抑揚を付けたら」と言う。百べえさんの仕草はどうする。落語は芝居と違い、舞台装置も何もない。あるのは扇子と手拭いだけ。しかもたった一人で、いろんな人物を演じ分けなくてはならない。覚えた言葉をしゃべっているだけでは、「誰が何を」話しているのか、見当がつかない。
時々、自分で今、だれの役をやっているのか、こんがらがってしまうことがある。間合いや仕草を意識し過ぎるとそうなる。そうならないためには「落語を腹に入れること」と師匠。完璧に覚えろ、と言うのである。以前、師匠から「稽古100回」と教わった。落語は100点と零点しかない。中間点がない。90点は零点と同じ。ほとんど覚えた、ではダメなのである。
▼もう、やるしかない
高座に上がって1カ所詰まったら、後が続かない。パニックって、焦りばかりが頭の中を駆け巡る。そうなると落語どころではない。初めて高座にかける「百川」。どうなるか分からないが、もう、ここまで来たらやるしかない。
「素人の落語はせいぜい7、8分がいいところ。15分の噺など、とても聴くに堪えない」。私たちの師匠ではないが、あまり知られていない真打の落語家が言ったのを覚えている。それなのに今、30分を超える大ネタに初挑戦している。恐れを知らない試みである。さあ、どうする。
私たちは今月30日、浅草で落語会を開く。そこで「百川」のネタ卸しをしようと考えている。何しろ大作だ。なかなか覚えきらない。場面展開に合わせて、ぶつ切りにして、稽古するが無手勝流だから、肝心の仕草が分からない。カミシモにも自信がない。再度、落語の学校に通うのは落語会の前日からだ。とても間に合わない。
▼のどはカラカラ
第一、こんな長い噺は、師匠に稽古をつけてもらえない。私たちがやるのは寄席と同じで、一席15分と決められている。悪戦苦闘していたが先日、三鷹に向かう途中の電車内で「百川」を復唱していたら、偶然にも通しで出来た。一度でも上手くいくと、妙に自信がつく。
圓生さんの「百川」は30分少々だが、同じ噺を私がやると35、6分かかる。向こうは昭和の名人、噺のテンポが違う。この辺りが素人芸の悲しさ。圓生さんは「百川」の中で、何度も脇の湯呑みからお茶を含む。自分で演じてみて初めて分かった。とにかくのどが渇く。何しろ延々としゃべりっぱなしだからカラカラ。
▼落語専用の田舎弁
「縮めなくては」と、噺をドンドン刈り込んだ。ストップウォッチをそばに置いて、最初からやり直し。「刈り込み」と「稽古」を繰り返すうちに、どうにか30分近くに収めた。あとはどう、仕草を付けるかである。生きのいい河岸の若い衆は、手ぬぐいを片手に持って演じてみた。老舗の旦那は、ゆったりとした感じでやってみよう。
問題は「百川」のスターである百べえさん。田舎から江戸へ出てきた百べえさんを演じるのが一番難しい。「山かもんで、一向わけ分かんねえもんでがすが」。「がす」などと言う方言はない。鹿児島だ、富山だ、と特定地域を連想させるような言葉は好ましくないとして、落語専用の田舎弁が出来上がったのだろう。
▼落語を腹に入れる
落語仲間は「もっと大げさに、言葉に抑揚を付けたら」と言う。百べえさんの仕草はどうする。落語は芝居と違い、舞台装置も何もない。あるのは扇子と手拭いだけ。しかもたった一人で、いろんな人物を演じ分けなくてはならない。覚えた言葉をしゃべっているだけでは、「誰が何を」話しているのか、見当がつかない。
時々、自分で今、だれの役をやっているのか、こんがらがってしまうことがある。間合いや仕草を意識し過ぎるとそうなる。そうならないためには「落語を腹に入れること」と師匠。完璧に覚えろ、と言うのである。以前、師匠から「稽古100回」と教わった。落語は100点と零点しかない。中間点がない。90点は零点と同じ。ほとんど覚えた、ではダメなのである。
▼もう、やるしかない
高座に上がって1カ所詰まったら、後が続かない。パニックって、焦りばかりが頭の中を駆け巡る。そうなると落語どころではない。初めて高座にかける「百川」。どうなるか分からないが、もう、ここまで来たらやるしかない。