扇子と手拭い

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とっつあんは鉄人78号

2015-04-30 22:49:07 | 落語
100㌔持ち上げる男
 医者に勧められて週1、2回通っているスポーツジムにすごい親父がいる。100㌔を超すバーベルをベンチプレスで易々と持ち上げる。しかも1セット20回を5、6セットたやすくこなす。こちとらは、50㌔持ち上げるのも「やっとこせ」だ。

 背筋もピンとして、腕回りは私の2倍強。筋肉隆々だ。これで、おん歳78と聞いた時、ひっくり返りそうになった。とてもその歳には見えない。だってふだんはタータンチェックのスポーツシャツや、ロゴ入りのTシャツにブルージーンズ姿でやって来る。せいぜい60半ばがいいところ。とにかく歳に似合わずシャレ者だ。だから気分が「若い」のだと思う。

▼「自慢じゃないが」と自慢
 とっつあんに「鉄人78号だ」と言ってやったら、たいそう喜んで次の週、写真を持参してみんなに見せてくれた。「オレが28ん時の写真だ」。ボデービルダーの大会にでも出るような写真である。彼はこの写真が自慢らしく、「いつも財布に入れて持ち歩いている」と言った。

 そのころは大型バイクのハーレーダビットソンを乗り回していた。「自慢じゃないが、一度もひっくり返ったことがない」、としっかり自慢していた。とにかく元気だ。「医者に掛ったことがない」というのが、もう一つの自慢。

▼とっさのダジャレに大笑い
 いつもは額に粋なバンダナを巻いてトレーニングジムに登場する。が、今日は深紅の野球帽をかぶってやって来た。「おや、お似合いですね」と冷やかすと、「ボランティアでもらった」と応えた。

 「あたしもそれ、やってます」と言うと、「何やってんの」と聞いてきた。「チョイト、落語をやっています」に、「聴かせてくれ」と言う。「あたし先月、店の旦那から帽子もらったんですが、きのう、どっかに忘れてきた。旦那、帽子(申し)わけありません」―。こんなとっさのダジャレに、とっつあんは大笑い。

▼落ちる前に連れて来い
 予想外に受けたので、稽古中の落語「藪医者」の冒頭部分を披露した。

「「先生、チョイト診てやってくんねえ」
「どうした? 慌てて」
「熊の野郎が屋根から落っこちて、目―まわして」
「そりゃいかんな。・・・おおー、これは残念だが、もう手遅れだ」
「だって、今落ちて、すぐ連れて来たんすよ」
「落ちる前に連れて来なくちゃあ」 

▼やっと「落ち」着いたコーチ
 笑ってくれるのはいいが、とっつあん、つい手をたたいちまった。この騒ぎにコーチが「何事か」と、慌てて飛んできた。わけを話すとコーチはやっと「落ち」着いた。   ばー!

東大も、京大も、噺家に

2015-04-29 23:24:01 | 落語
▼考えられない現象
 ひと昔前は、落語家と言えば、握り飯を踏んづけたような顔の主もいたが、今の噺家には総じてイケメンが多い。しかも有名大学出が次々と高座を務める。「俺たちの時代には考えられない現象」と、ベテラン噺家は感慨深げだ。時の流れか、一時的な現象か。

▼柳亭痴楽はいい男
 ユニークな顔を逆手に取って、アピール・ポイントにしたのは、「破壞し尽くされた顔の持ち主」のキャッチコピーで人気を博した四代目の柳亭痴楽(1993年、72歳で没)。

 「柳亭痴楽はいい男。鶴田浩二や錦之助。あれよりぐーんといい男。痴楽とならば何処までも。水平線の果てまでも・・・」と続く名調子の落語、「痴楽の青春日記」は当時、子供がみんなマネしたものだ。引っ張りだこの人気者だった。

▼末路哀れは覚悟の前
 だが先般、亡くなった人間国宝で名人の桂米朝師匠が噺家を志した時代は、落語で生計を立てるのは至難の業だった。米朝師匠は、自分の師匠から「芸人になった以上、末路哀れは覚悟の前やで」と言われたそうだ。

 やがて、何度目かのブームを経て落語人気は定着した。今や大学卒の噺家など珍しくない。柳亭燕路は早大卒。立川志の輔は明大卒。二つ目の春風亭昇吉は東大卒の初の落語家である。

▼臨終の時に後悔しない
 これにびっくりしていたら京大出身の噺家がいた。上方落語の桂福丸。神戸生まれの彼は灘中学、灘高校から京大法学部に進学した。渡米後の2007年2月に四代目桂福団治に入門。作家の藤本義一が「福丸」の名付け親だそうだ。

 「どうしてまた」と思う向きもあろうが、福丸は言った。「臨終の時に後悔しないほうを選ぼう」と、噺家になることを決心した。当初、大反対だった両親も、今は息子の決断を応援しているそうだ。

▼イェール大卒がいるぞ
 京大で驚いていたらもっとすごいのがいた。立川志の春。千葉県柏市出身の志の春は米国、イェール大を卒業した後、三井物産に就職。ある日、立川志の輔の落語を聴き衝撃を受ける。「これだ」と思った彼は3年で物産を退職し、志の輔の弟子となった。現在二つ目だ。みんな、すごい。人生は一度だ。

 日本は肩書社会。人物よりも、「どこへ勤めているか」で人を判断したがる。くだらない。中身より包装紙を重視するおかしな社会だ。だが、肩書など退職した途端に「ハイ、それまでよ」。それこそ誰も「鼻もひっかけない」タダの人である。

▼包装紙よりも「中身」
 それに比べ落語の社会は実力主義である。いくら立派な肩書、学歴があっても「落語の技量」がないと客は納得しない。「包装紙よりも中身」が落語の世界だ。実力で勝負の世界は、分かり易くていい。

 肩書を投げ捨てて、落語の世界に身を投じた若者たちにエールを送りたい。

江戸落語に魅せられて 1

2015-04-29 00:35:44 | 落語
▼花伝舎で稽古した落語
 師匠について落語を習うのに二通りある。一つは将来プロの噺家になってオマンマを食おうという人たち。片一方は趣味、道楽で落語を習いたいという面々だ。あたしはうしろっ方の組で、粋な江戸落語に魅せられて習う気になった。

 素人への落語指導で最も名が知られているのは花伝舎。桂歌丸が会長を務める公益社団法人、落語芸術協会(芸協)の関連団体で、東京・西新宿で落語塾を開いている。

▼師匠の前で落語を披露
 現在、24期生を募集中だ。あたしもここの「卒業生」で、入った時は15人いたが、卒業したのはたったの6人。試験に落ちたわけではない。途中でやめた。思惑違いだったようだ。

 落語塾と聞き、プロの師匠から「落語の話でも聞くのか」と思って入門した連中は1、2回目で来なくなった。1回目は扇子や手拭いの使い方などを教わる。が、次の回からは、落語を覚えて師匠の前で披露するのである。なかなか覚えられない。自分で話すと知って、退散したわけだ。

▼飾り物はすべて外して
 落語ブームらしくて、各地で素人がプロの噺家に落語を教わっている。大抵はジーンズやスニーカーなど普段着のままでOKだ。洋服を着たまま練習するが、花伝舎は違った。

 着物か、ゆかたに着替えなくては稽古をつけてくれない。もちろん白足袋もはく。眼鏡、腕時計、ネックレスなどの飾り物はすべて外して稽古に臨む。

 師匠は言う。「落語は1人で何人もの人物を演じる。熊さん、八っつあん、大家さん。時には吉原の花魁、坊主に侍。そんなとき、ロイド眼鏡の女郎が出て来たら、客はしらける」―。 

▼きっかけはNHKニュース
 教え方は本調子だ。だから教わる側も真剣そのものである。師匠たちは、身振り手振りで熱心に教えてくれる。あたしが花伝舎の門をたたいたのはちょうど6年前の5月。きっかけはNHKの朝7時のニュース番組。落語を話題に取り上げた。銀行の支店長らが落語を習っていた。小学生も楽しそうに稽古をしている。

 すぐNHKに電話をかけ、どこで教えてくれるか尋ねた。花伝舎と分かり、連絡を取り入門した。1期で8回。1回の稽古は、師匠1人に生徒が3人から6人。1人ずつ高座に上がって落語を話す。  (続)

江戸落語に魅せられて 2

2015-04-29 00:23:55 | 落語

 あたしは通算5期、稽古をつけてもらった。指導していただいた師匠は桂小文治、三遊亭圓馬、桂文治(現在の十一代文治)、山遊亭金太郎、春風亭柳橋、三遊亭遊雀、橘ノ圓満らである。

▼講師には第一線の噺家
 芸協は「素人に舐められてはかなわない」と考えたのか、「どうだ」とばかり、講師には第一線の噺家を揃えた。ちょうど、レストランのショーウインドーと同じで、店に入ってみたくなる料理(噺家)を並べた。

 厳しい稽古のおかげで基本が身につき、なんとか人前で話せる落語も覚えた。数えてみたら6年間で演目は16に増えた。半年がかりで大ネタ「明烏」を仕上げ、今は「藪医者」に挑戦している。

▼その役になり切れる
 落語の楽しさは、現実ではかなわない役柄になり切れるところである。ある時は、ひょうきん者の八っつあん役で隠居と落語談義。ある時は大工の棟梁、政五郎として強欲な大家と掛け合う。

 そうかと思うて~と、文無し男がお大尽の振りをして、散々ぱら大ぼらを吹いて周りを煙に巻く。みんな愉快な役柄だ。師匠は「落語は演じている自分が楽しくないと客は笑えない」と言ったが本当である。役柄になり切って愉快にやることが大事だ。

▼江戸言葉に酔いしれる
 江戸言葉の粋に酔い、ポーンと、飛び出す都都逸の文句にしびれる。落語はいい。実にいい。楽しい。こんなことを言ってるうちに、何だか一杯やりたくなった。

4月29日は右朝の命日

2015-04-28 13:42:02 | 落語
▼うちょう」って誰だ
 落語の友との飲み会で、しきりに「うちょう」の名が飛び交った。「胃腸」なら知っているが、「うちょう」は知らない。後で、古今亭右朝のことだと教わった。とにかく凄い噺家だったそうだ。「アンタの波長に合うから聴いてごらん」と言われ、音源を捜して聴いた。

 彼の「片棒」を聴いて驚いた。天下の名人、志ん朝でさえ23分かけた噺を、わずか12分足らずで見事にまとめ上げていた。噺は、ケチで知られ、一代で身代を築いた赤螺屋吝兵衛(あかにしや・けちべえ)が、3人の息子の誰に継がせるか品定めに、「おとっつあんが死んだら、どんな葬式をするか」と聞く。

▼通夜は二晩、お車代に3万円
 長男は、「これだけの身代だから、みっともない葬式は出せない」と言って、築地の本願寺か芝の増上寺を借り切って、坊主50人を集め、通夜は二晩やると言う。酒肴のほか、お持ち帰りは輪島の本塗り三段重ねの重箱。そこに一流の料理人の手による料理を詰める。お車代として1人3万円入りの封筒をつけたらどうだと提案。黙って聞いていた親父は、「そんな葬式なら、こっちが行きたいよ。 出てけ」と怒る。

 「おらー、とっつあんの葬式は色っぽくやりてー」と2男。白黒の葬式幕は陰気臭くていけねえ。隣近所に紅白の幕を張り巡らせて、鳶の頭連中による木遣りと芸者衆の手古舞で練り歩く。景気付けに神輿が続く。その後にソロバンを持った勘定高いとっつあんのカラクリ人形が登場するという塩梅だ、と2男が言った。「お前も、とっとと出てけー」。

▼棺桶代わりに菜漬けの樽
 これを脇で聴いていた3男。棺桶の代わりに物置にある菜漬けの樽を使うと言い出した。これに親父は大喜び。樽は荒縄を掛けて天秤棒で担ぐ。「先棒はオレが担ぐが、後の片棒は人を雇ってくれ」と頼むと、親父が「心配するな。片棒はあたしが担いでやる」。

 「片棒」は古典落語の名作で、あたしもいつかやりたいなと思っている噺だ。でも素人がやるとなると25分以上はかかる。これだけ長いと客が聴いてくれない。噺がだれるからだ。短くならないものかと思っていた矢先に、右朝の「片棒」に出会った。

▼古今亭右朝という噺家
 12分足らずの噺の中に「くすぐり」という笑いどころがちゃんと入っている。3兄弟の性格の違いもはっきり分かる。それに声がいい。よく通る。右朝は上手い。あたしは志ん朝“信者”だが、ひょっとすると、右朝は師匠の志ん朝より上手いのではないか、と思った。

 そんな話しを落語の友人に話したところ、「お見事。右朝は、プロになる前から知られていた。学生ですごく上手いのがいると評判だった。噺家になってからは、志ん朝を超えてるんじゃないか、と言われた男だよ」と教えてくれた。

▼4月29日は右朝の命日
 志ん朝が自分の跡継ぎは右朝しかいないと可愛がっていたそうだ。だから右朝が52歳で癌に侵され、亡くなった時、一番がっくりきたのが志ん朝だった。まさか自分より早く逝くとは考えてもみなかった。志ん朝は愛弟子の突然の死に落胆した。

 あす、4月29日は右朝の命日だ。14年前のこの日、彼は彼岸に旅立った。同じ年の10月1日に後を追うように志ん朝が亡くなった。享年63歳。一度でいいから2人の名人落語を聴いてみたかった。  合掌。