扇子と手拭い

写真付きで日記や趣味を書くならgooブログ

なぜか医者は落語好き(落語2―100)

2012-07-26 01:12:56 | 日記
▼笑いと健康をネタに
 アマチュア落語家が本職の師匠から真打に認められた、という記事が載っていた。松江市在住の医師で、笑いと健康をネタに独自の落語スタイルを考え、年間70回前後、公演を続けているという。

 この人は形成外科医の安部正之さん。69歳。ご多分に漏れず安部さんも、子どものころから落語が好きで、ラジオの落語番組やレコードを聴いているうちに、自然に古典落語を覚え、宴会などで披露したという。

▼病院に本格的な寄席
 読売新聞によると、59歳の時、東京の炉端焼き店で偶然にも噺家、春雨や雷蔵に出会い、弟子入りを直談判。何度も頼み込んで2006年6月、63歳で入門を許された。精進の甲斐あって師匠雷蔵から「春雨や落雷」、真打として認められた。今年6月16日には450人を前に真打披露公演を行ったというからすごい。

 医師免許を持つ噺家と言えば、群馬県高崎市の中央群馬脳神経外科病院理事長の中島英雄さんが有名だったが、先月末に突然、亡くなった。院内に本格的な寄席を設けて自ら高座に上がるだけでなく、人気落語家を呼び寄せて、定期公演を開くほどの力の入れようだった。

▼「医者もできる噺家」
 中島さんのキャッチフレーズは「医者もできる噺家」。はじめて本格的に医療に落語を取り入れた医師である。中島さんは落語家になるのが夢だったが、医師の父親に反対され、やむなく医学の道を進み、親の後を継いだ。

 しかし、噺家への想いは断ちがたく、子どものころから自宅に出入りしていた桂伸治(のちの十代目文治)に稽古を付けてもらっていた。父没後は晴れて弟子入りを志願、1986年に師匠文治から初代「桂前治」の芸名をもらった。

▼根っからの落語好き
 他にも本職の噺家になった「立川らく朝」のような医師もいる。共通しているのは、子どもの時から根っからの落語好き、ということである。ところで、笑いが免疫力を高めることが分かり、治療に笑いを取り入れる医療機関は次第に増え、落語を覚える医師が各地にいるという。われわれも、負けれはおられませんぞ、ご同輩。精進、精進!!!

フルート、謡、落語のコラボ(落語2―99)

2012-07-25 01:03:28 | 日記
▼演奏中に山車・屋台
 うちわ祭の本番は22日夜。ということで懇親会に先立ち、この日、夕方から熊谷市内の小料理屋で、互いの素人芸を披露することになった。フルート演奏あり、謡(うたい)ありで、意外性も手伝って、会場はことのほか盛り上がった。そんな中、あたしも一席、うかがった。

 われわれメンバーのほか、幹事のかみさんと、そのお連れさんらもお越しいただき満席状態。開口一番は、学生時代、柔道で鳴らした男がフルート片手に登場したからビックリ。演奏がスタートした矢先、店の前を町内の山車・屋台が締め太鼓と擦り鉦(すりがね)を響かせてやって来た。

▼人前で初めて披露
 まろやかなフルートの音色は、あの迫力にはとてもかなわない。そのまま通過するかと思ったら、店の前で止まった。店に挨拶にやって来た。祭りの習わし通り、店は祝儀を出し、祝い酒をふるまった。この間、鉦や太鼓も小休止。間隙をぬって演奏が再開された。

 一行はあいさつ回りが忙しいらしく、山車・屋台は5分ばかりの滞在で次の場所に向かった。奥座敷ではフルートに代わり、能楽などに登場する謡が始まった。当人は人前で披露するのが初めてだとして、「声が出るかな」と心配していたが、最後まで見事演じ切った。

▼高座が前後に揺れた
 謡の最中に、急いで持参した着物に着替えた。元芸者だった和服姿のお姐さんが三味線で出囃子「東京音頭」を奏でてくれた。立派な「めくり」も幹事が用意してくれた。高座の座布団に上がろうとしたところ、肝心の高座が前後に揺れた。「なんだ、これは」と思ったが、この期に及んではどうすることも出来ない。時間がない。後に懇親会と祭りのクライマックス見物が予定されている。

 仕方なくスポンジのようなフワフワした高座の上で演ることにした。が、どうも落ち着かない。落語は想像芸。仕草がつきものだ。体が左右に動くのに合わせて高座が揺れる。気にしないでおこうと思うが、やはり気になる。最後までどうにかやり終えたが、身体じゅうに汗をかいた。

▼ハプニングまた楽し
 高座は座卓の上にしつらえてあるものと思い込み、事前点検を怠った私がいけなかった。初めて訪れた街とあって道に迷い、開演ギリギリに会場入りしたのもよくなかった。おそらく店の方は、落語の高座など作ったことがないだろう。開演前の自己点検。この鉄則、次回は守りたい。

 懇親会は「高座」を酒の肴に盛り上がった。ハプニングもまた、楽し、である。愉快な思い出がまた一つ、出来た。

町全体が爆発した祭(落語2―98)

2012-07-24 19:15:03 | 日記
▼熊谷うちわ祭
 「熊谷」と聞いて、頭に浮かぶのは日本一の暑さ。その、真夏の暑いさなかに繰り広げられる「熊谷うちわ祭」を見に行った。時間の経過とともに町がせり上がり、ついに町全体が爆発した。あの活気、人出の多さ。立派な祭りに驚き、堪能した。

 年に一度、青春を共有した悪友が集まり旧交を温めている。昨年の房総の集いで日本一の暑さが話題になり、熊谷の名が飛び出した。「一度そこへ行こうじゃないか」のひと言で、次回は熊谷開催と決まった。「それでは、うちわ祭に来てもらおう」と新幹事。

▼3日間だけの仮宮
 7月22日は大暑。暦の上では、1年で最も暑さが厳しい日とされている。が、期待?は裏切られ、この日の熊谷は思ったほど暑くない。空は真っ青。駅を降りると露天商が軒を連ね、町は祭ムード一色。昼過ぎには、関西や四国など各地に散った友が熊谷に集った。

 地元幹事の先導で、市内の中心に鎮座した八坂神社に参拝、1人1人うちわを頂戴した。幹事の話によると、境内が狭いため参拝客を収容しきれず、祭の3日間だけ市の中心に仮宮を設けているそうだ。日の暮れとともにドンドン人が増え、会場付近は身動きが取れない状態。揃ってホテルを出たものの、気が付けばバラバラ。

▼付け締め太鼓と擦り鉦
 フィナーレが近づくと、ライトアップされた絢爛豪華な12の山車・屋台が、四方から次々に中央会場めがけて集まった。屋台の上からは、力いっぱい打ち鳴らす付け締め太鼓と擦り鉦(すりがね)が響き渡り、祭りは最高潮に達した。その様子をひと目見ようと、観客が押し寄せる。

 祭りの主催者らが居並ぶ中央ステージ周辺は機動隊が輪を作って規制。「押さないでくださーい」とハンドマイクで繰り返す隊員。それでも、一歩でも前へ出て、いい場所を確保しようと詰めかける観客。背中をグイグイ押されよろけた。一瞬、左足を着地しようにも人の足だらけで、足をつく場所が場がない。

▼屋台が競う「叩き合い」
 出囃子、地囃子、おさめ囃子、きざみ、数え唄・・・。それぞれの屋台が競う最後の「叩き合い」が始まった。相手のリズムに調子を崩された方が負けらしい。だから互いに、張り裂けんばかりに太鼓と擦り鉦を打ち鳴らす。熱気で観客も興奮気味。別のマイクで主催者が何やら祭りの進行状況を説明しているが、機動隊の規制の声と混じって聞き取れない。

 左右から押され、気が付けば最前列に押し流された。背中を汗がスーと流れ落ちた。まだ後から後から押してくる。機動隊の持つロープが大きくしなった。「このままでは将棋倒しになるぞ。外に出る通路を」と目の前の隊員に叫んだ。「危険ですから、こちら側に入ってください」と、指揮棒を手にした隊員が私をロープの内側に引っ張り入れた。

▼頭をよぎった「百川」
 主催者の合図で叩き合いが止んだ。最後のイベント「年番送り」が始まる。半纏をまとった4人の若い衆が青竜、白虎、朱雀、玄武と書かれた提灯をステージの四隅に掲げた。落語の「百川」(三遊亭圓生)の、次の一節が頭をよぎった。

 「東を青竜、西を白虎、南が朱雀、そして北が玄武と申しまして、四方の神様を祀ったもので、四神旗というのが本当だそうですが、江戸では剣がついているところから四神剣と呼んでいまして、これは年番預けと言いますから、今年は甲の町内、来年は乙の町内というように持ち回りでした」。

▼刷り込み祭り体験
 ステージ中央に年番と彫り込んだ分厚い「年番札」を両手で抱え、裃を身にまとった当代の総代が、来年の総代に「年番札」を手渡した。大きく掲げると、会場から割れんばかりの拍手が鳴り響いた。「年番送り」は滞りなく終了。

 子どものころの祭り体験は、刷り込まれて生涯忘れない。だから祭になると、どんなに遠く離れていても、故郷に帰りたくなる。祭は人の心を一つにする。祭の顔は、どの顔も笑顔。喜びにあふれている。うちわ祭は、浅草・三社祭とは一味違った良さがある。楽しかった。熊谷署の調べだと、期間中の人出は75万人だったという。