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575の会

名古屋にある575の会という俳句のグループ。
身辺のささやかな呟きなども。

あじさい    麗

2009年06月04日 | Weblog
「紫陽花」が荻原教室の宿題ということで
私もチェレンジしてみます。

紫陽花の咲く梅雨の時期、私は体調を崩しやすくあまり晴れやかな気持ちで
この花を眺めた記憶がありません。ただ降り込められた雨の一日
窓から見える紫陽花に幾度となくなぐさめられました。

     紫陽花の色を集めて晴れ気分   麗

じめじめ気分を吹き飛ばしましょう。
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荻原教室の宿題    遅足

2009年06月03日 | Weblog
今日の宿題は「紫陽花」と「夏のたべもの」
さて、どんな句が、どんな添削を受けるのか?

ご報告します。



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雪の上にけもののごとく屠りたり   長谷川素逝

2009年06月03日 | Weblog
戦争を俳句は、どのように詠んだのか?

昭和13年の刊行された長谷川素逝の句集
「砲車」は、まさにそうした句集です。

長谷川素逝は、明治40年、大阪生まれ。本名・長谷川直次郎
三重県の津中学卒業、第三高等学校を経て、昭和3年、京都大学へ。
この年、ホトトギスに初入選。
卒業後、津中学の国語教師に。

日中戦争が本格化した昭和12年8月召集。
京都の野砲兵第22連隊に入隊。第二小隊長に。
馬の乗って駅まで行進。日の丸に送られて戦地へ。

  汗の目に人も故郷も遠ざかる

砲兵隊の小隊長として、南京攻略戦に参加。
戦場体験を詠んだ句が、
翌13年、ホトトギス1月号雑詠の巻頭に。

  みいくさは酷寒の野をおほひ征く
  友をはふりなみだせし目に雁たかく
  ねむれねば夜の焚火をとりかこむ
  をのこわれいくさのにはの明治節

南京陥落後、帰国する間もなく転戦。北支へ。
討伐行が続く。
昭和13年4月の句。

「ふたたび討伐に出づ、黄河北岸を掃討す」の前書き。

  匪ら棲むと李花咲く村をとりかこむ
  李花咲いて平和な村のすがたなれど
  おぼろ夜のいくさのあとのしかばねよ
  麦の芽をしとねと君がかばねおく
  おぼろ夜のはふり火に立つわれ隊長
  おぼろ夜の頬をひきつらせ泣かじ男

同じ13年の句

「討伐、敗残兵多し」の前書き。

  かをりやんの中よりわれをねらいしたま
  かをりやんの中よりひかれ来し漢
  てむかしゆゑ炎天に撲ちたふされ
  汗と泥にまみれ敵意の目を伏せず

最後のこうりゃんの句は、昔、見た映画「赤いコーリャン」を
思い出しました。遅足

                (つづく)
  




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時は金か   鳥野

2009年06月02日 | Weblog
「時は金なり」はキンなのかカネなのか。おかしなことがふと気になっているうちに、6月10日は時の記念日です。

この記念日は日本書紀の記述,天智天皇の漏刻に由来するものだそうです。
それまでの日時計に比べて、より正確な水時計の設置、それは画期的なものだったのでしょう。

とろが最近、電波時計が普及し始めて、誤差は10万年に1秒というから大変。

日常生活はのんびりノロノロ。貴重な“金”をたっぷりと失っているワタシには、この精密機械の律儀さは恐怖。
やっぱり当分は、アナログの掛け時計や手巻きの腕時計との付き合いが続きそうです。

 ・ お役目はもう御免だと鳩時計 刻を違えてホーホー放恣

 ・ 青き言葉ためらいもせず走らせしあの日の時計失せて久しも

                        鳥野





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蛍火や男は黙って居なくなる   朱露

2009年06月02日 | Weblog

     「蛍火や女の道をふみはづし」鈴木真砂女。 
     真砂女の心意気はわかったが男の道は何だ。
     「さあ殺せ」幡随院長兵衛じゃあるめえし。
     今の気分で取り敢えずこうして見ましたが。

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一茶の頬杖ありました。           愚足

2009年06月01日 | Weblog
 この前のブログで宣言したように、信州旅行のついでにかねての疑問に決着をつけるべく一茶のふるさと長野県信濃町柏原にある一茶記念館を訪ねた。
 到着すると記念館はすっかりリニュアルされていてカラス張り2階建てのモダンな建物に変身していた。
 とるものとりあえず、館内の展示室に急行。
 ありました!!! 「一茶愛用の頬杖」が
 写真のようにお巡りさんの警棒のような、幼児のバットおもちゃのような形態だがもっと細身であり室内用である。60センチ弱の漆塗りの立派なもの。途中に紐が通してある。
 説明札には肖像画の一茶の持っている物と同じで、一茶亡きあと門人に継承され現在に残されているという。「頬杖」とも「脇杖」とも呼ばれていたらしい。
 想像するに顎を乗せたのかも知れないが、宋匠としての権威づけの小道具だったのではないだろうか。

 ほおづえをして五月雨を聴きにけり    ぐ
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簡明にランニングシャツ衣更   朱露

2009年06月01日 | Weblog

     殆ど人に会わないのでこの句の通りの姿。
     敗戦前後はランニングシャツもなかった。
     何を着て学校へ行ったのか見当がつかぬ。
     況んや何を食って・・・真鶴の海のお陰。

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