HARD HEAD

旅行 社寺

山中城跡 3

2014-08-24 12:53:19 | 
 2014.08.17 山中城 岱崎出丸に向かいます。



  案内図





  宗閑寺と武将の墓 城主松田康長、副将間宮康俊などの墓と隣には豊臣方武将

           一柳直末の墓も三の丸宗閑寺境内にひっそりと苔むしています。







  出丸御馬場跡 土塁で東側と北側を守り、西側は深い空堀につづき、南側は急峻な谷で

         囲まれた岱崎出丸最大の曲輪です。



  同上 土塁上から田方平野を眼下に見渡す事が出来、出丸防衛上の拠点で

         あったものと推定できる。







  出丸御馬場堀 堀内に畝が検出されたことから、西の丸堀と同様畝掘であったと考えられる。





  構築途中の曲輪跡

      曲輪を構築すべく工事を急いだ様子がうかがわれる。しかし、時間的に間に合わず、  

      工事の途中で戦闘に突入したものであろう。





  すり鉢曲輪見張台 三島.沼津方面から韮山城まで手に取るように望見できる。







  同上から眺めた 沼津.三島と一の堀。







  すり鉢曲輪 山中城出丸の最先端を防備する重要な位置にある曲輪である。曲輪への虎口は

        南に造られているが、更に東側に接続して、幅8mの長方形の曲輪が

        つくられており、防備の為の「武者だまり」と推定されている。







  岱崎出丸 地名の岱崎をとり、岱崎城とよばれることもある。天正十七年(1589年)秀吉の

       小田原征伐に備えて、各曲輪の修築と共に、この出丸の増築を始めた。

       この出丸を守ったのは、副将間宮豊前守康俊といわれ、壮絶な戦闘をくりひろげ

       全員が討死したと伝えられている。その墓は三の丸にある宗閑寺に建てられている。







  岱崎出丸 「一の堀」 約150mの間に、17ヵ所の畝を残し、70度前後の傾斜角もって

             たちあがっている。したがって堀底からすり鉢曲輪の土塁までは、

             斜距離18~20m前後の急峻な勾配がつくわけである。







  御馬場北堀 調査中であるが御馬場の西堀と北堀の両者で、出丸の尾根を二分しようと

        する戦略上の意図が察知できる堀である。

    見学して400年前の山城の遺構がそのまま復元され、障子掘.畝堀や土塁が良く残っており、

    尾根を区切る曲輪の造成法等、後北条氏流築城術は目を見張るものがありました。