おやじのつぶやき

おやじの日々の暮らしぶりや世の中の見聞きしたことへの思い

日本橋~品川~藤沢。(江戸・日本橋から京・三条大橋まで。その1。)

2015-11-26 23:26:02 | 旧東海道
 「旧東海道」歩き。

 思いついたのは、去年の2月頃。はじめは宿場巡りをしてみようか、ということで、東京付近の宿場を何かのついでに立ち寄りました。だから「品川」「川崎」「神奈川」については、最寄り駅に降りて、宿場に因んだ名所、旧蹟を散策して、また最寄り駅から戻る、というようなカタチ。
 実際、一番最初は「川崎宿」を散策し、しばらく置いて「品川宿」、「神奈川宿」と順番が異なっています。
 そのうち、「一里塚」にも興味を持ち、今どうなっているか探索しよう、とそんな欲が出てきて、それなら東海道そのものも続けて歩いてしまおうか、と。その頃の探索は、行ったり来たりの旅です。
 その後、「神奈川宿」まで、何とか「旧東海道」がつながり、それから「保土ケ谷(程ケ谷)宿」以降は、順々に京・三条大橋を最終目的地にして歩くようになります。
 交通機関も東海道線を利用、日帰りが中心。やっと「旧東海道」歩きらしくなったのは、「戸塚宿」あたりから。東京駅から東海道線在来線を利用し「金谷」までは一日で往復。その後は、新幹線も利用しながらの一日旅。さらに、「岡崎宿」からは、泊まりがけで出かけることになります。
 泊まりがけになってからは、1ヶ月に1回のペース。

《東海道五十三次一覧》(宿場名のあとの里程はそこまでの距離を示す。)

日本橋 起点 東京都 中央区

1. 品川宿 2里 品川区
2. 川崎宿 2里半 神奈川県 川崎市 川崎区
3. 神奈川宿 2里半 横浜市 神奈川区
4. 程ヶ谷宿(保土ヶ谷宿) 1里9丁 保土ケ谷区
5. 戸塚宿 2里9丁 戸塚区
6. 藤沢宿 1里30丁 藤沢市
7. 平塚宿 3里半 平塚市
8. 大磯宿 27丁 大磯町
9. 小田原宿 4里 小田原市
10. 箱根宿 4里8丁 箱根町
11. 三島宿 3里28丁 静岡県 三島市
12. 沼津宿 1里半 沼津市
13. 原宿 1里半 〃 
14. 吉原宿 3里6丁 富士市
15. 蒲原宿 2里30丁 静岡市 清水区
16. 由比宿 1里 〃
17. 興津宿 2里12丁 〃
18. 江尻宿 1里3丁 〃
19. 府中宿 2里29丁 葵区
20. 鞠子宿 1里半 駿河区
21. 岡部宿 1里29丁 藤枝市
22. 藤枝宿 1里29丁 〃
23. 島田宿 2里8丁 島田市
24. 金谷宿 1里 〃
25. 日坂宿 1里24丁 掛川市
26. 掛川宿 1里19丁 〃
27. 袋井宿 2里16丁 袋井市
28. 見付宿 1里半 磐田市
29. 浜松宿 4里7丁 浜松市 中区
30. 舞坂宿 2里30丁 西区
31. 新居宿 1里(海上) 湖西市
32. 白須賀宿 1里24丁 〃
33. 二川宿 2里16丁 愛知県 豊橋市
34. 吉田宿 1里20丁 〃
35. 御油宿 2里22丁 豊川市
36. 赤坂宿 16丁 〃
37. 藤川宿 2里9丁 岡崎市
38. 岡崎宿 1里25丁 〃
39. 池鯉鮒宿 3里30丁 知立市
40. 鳴海宿 2里30丁 名古屋市 緑区
41. 宮宿 1里半 熱田区

(海上七里の渡し)

42. 桑名宿 3里(川舟) 三重県 桑名市
43. 四日市宿 3里8丁 四日市市
44. 石薬師宿 2里27丁 鈴鹿市
45. 庄野宿 27丁 〃
46. 亀山宿 2里 亀山市
47. 関宿 1里半 〃
48. 坂下宿 1里24丁 〃
49. 土山宿 2里半 滋賀県 甲賀市
50. 水口宿 2里25丁 〃
51. 石部宿 3里12丁 湖南市
52. 草津宿 2里25丁 草津市
53. 大津宿 3里24丁 大津市

三条大橋 3里 京都府 京都市 東山区


 東京都、神奈川県、静岡県、愛知県、三重県、滋賀県、京都府の都府県を結んでいます。

 2015年11月11日。京・三条大橋にたどりつきました。ここまでで、約2年の道のり。

 実際の日時は前後しますが、今回は日本橋から三条大橋まで道のりに沿って改めて振り返ります。その時々の写真や資料を織り交ぜて・・・。

 今回は、日本橋~(1)品川~(2)川崎~(3)神奈川~(4)保土ケ谷~(5)戸塚~(6)藤沢。



 東海道五十三次之内 日本橋 朝之景 / 歌川 広重

《日本橋》(2015.9.14~投稿)

 日本橋は五十三次の出発点であり、ここより京都までは124里半(約492km)である。鐘が七ツ(午前四時)を打つと木戸が開かれ、一日が始まる。朝焼けの空を背景に、日本橋の近くの肴市場から威勢のいい魚商が魚をかついでゆく。大名行列が橋を渡ってくる。犬が遊んでいる。塀や甍の直線に日本橋の力強い曲線の構成が、街の活気をさらに強調している。そして橋の中央から高く立つ毛槍が爽快な旅立ちを表わしている。

(「知足美術館」HPより)

現在の日本橋。

 いよいよ京へ向かって出発。

    
                          史跡 高輪大木戸跡

 高輪大木戸は、江戸時代中期の宝永7年(1710)に芝口門にたてられたのが起源である。享保9年(1724)に現在地に移された。現在地の築造年には宝永7年説・寛政4年(1792)など諸説がある。
 江戸の南の入口として、道幅約六間(約10メートル)の旧東海道の両側に石垣を築き夜は閉めて通行止めとし、治安の維持と交通規制の機能を持っていた。

《1 品川》(2014.4.17~投稿)

            
 「従是南(これより南) 品川宿 地内」。             京急線踏切。

 京急が「品川」駅を出発してすぐ南にある駅が「北品川」。「品川宿」の北に当たる地域のため。「品川駅」は、品川区ではなくて、港区にある。

旧東海道・品川宿の町並み。

東側(海側)はかなり低くなっている(ほぼ1㍍台)。
 この付近の旧東海道の標高は4メートルほど。南に進むにつれてだんだん標高は低くなっていく。東海道・品川宿は海岸線沿いの台地上にある。

 南北に細長かった「品川」宿を過ぎると、道は海岸線沿いに南に向かい、現在の「美原通り」へ続く。

 
 
 

 左が1880年頃のようす。大森の北付近では、海岸縁を通っている。右が1970年頃のようす。西側の広い道路は「第一京浜」。旧東海道の道筋は、現在も鮮明に残っている。(「歴史的農業環境閲覧システム」より)。

南側(第一京浜方向)を望む。

北を望む。
                       街路樹の柱に「日本橋14キロ、品川宿5キロ」とあった。

説明板。
 「旧東海道(美原通り)」

 ・・・昭和2年(1927)東海道は拡幅整備され、第一京浜国道が完成した。そのため往時の幅員を比較的よく残しているのはこの美原通りと六郷地区の一部だけとなった。・・・旧東海道はかつて三原通りと呼ばれた。三原とは、南原、中原、北原のことで、美称して美原となった。

《2 川崎》(2014.3.29~投稿)

「多摩川」に架かる「新六郷橋」際にある「六郷の渡し」説明板。

 関東でも屈指の大河である多摩川の下流域は六郷川とよばれ東海道の交通を遮る障害でもありました。
 そこで慶長5年(1600)徳川家康は、六郷川に六郷大橋を架けました。以来、修復や架け直しが行われましたが、元禄元年(1688)7月の大洪水で流されたあとは、架橋をやめ明治に入るまで船渡しとなりました。
 渡船は 、当初江戸の町人らが請け負いましたが、宝永6年(1709)川崎宿が請け負うことになり、これによる渡船収入が宿の財政を大きく支えました。      川崎市
 
対岸(大田区側)を望む

「川崎宿京入口」。
 このあたりが、「川崎宿」の京(都)側入口。「川崎宿」は江戸から来ると、「六郷の渡し」から下の本陣、中の本陣、上の本陣と続きここまでが宿場町。
 この宿場の入口には切石を積んだ土居があり、これを出るといわゆる八丁畷の一本道となって鶴見市場に至る。
 文久2年(1862)外国人遊歩区域となった当宿には、この土居付近に外国人警護のための関門が設けられた。

「関札」

 石垣の上にはその日その宿場に泊まる大名の関札が掲げられた。これは「八月三日 加藤遠江守宿」と記されている関札


《3 神奈川》(2014.3.11~投稿)

 「国道」駅脇を通る旧道を行くと、

    
                     「生麦事件発生現場」碑。

 文久二年八月二十一日辛未(かのとひつじ)晴天
(薩摩藩主) 島津三郎(久光)様 の上洛の行列と異人4人内女1人、横浜より来て本宮町勘左衛門前にて行き違おうとしたとき、下馬しなかったので切りつけられた。
 直ちに逃げ去ったので、追いかけて一人を松原で討ち取った。外の3人は神奈川(宿)の方へ傷を負ったまま逃げ去った。
 お役人様が桐屋へご出当、村の役人一同も桐屋に詰めた。
右の異人の死骸は外の異人が大勢来て引き取っていった。
               生麦村名主 関口日記より
平成11年1月生麦事件参考館設置

その地点から北(川崎方向)を望む。


 神奈川宿寄りのはずれ、リチャードソン遺体発見現場(落馬地点)付近に建てられた生麦事件之碑。明治16年建立。碑文は中村正直による。ただし、現在は、横浜環状北線建設のため、仮移設されている。

 旧東海道は京急線、東海道線を越えて台地(かつての海岸縁)へ向かう。

「臺(台)町茶屋の景」。

 旧東海道のポイントごとにこうした丁寧な案内板が設置されている。描かれている「さくらや」(櫻屋)が現在の「田中家」付近とのこと。

「田中家」。

 「田中家」は、坂本龍馬の妻おりょうが、龍馬亡きあと、ここで住み込みの仲居として勤めていたところ。龍馬からおりょうにあてた恋文が、今も田中家に残っているそうだ。

《4 保土(程)ケ谷》(2014.8.26~投稿)

商店街を進む「旧東海道」。

現「帷子橋」からの「帷子川」。

 現在の横浜市保土ケ谷区天王町一帯は片方が山で、片方が田畑であったため、かつては「かたひら」と呼ばれていた。その地を流れていたので「かたびらかわ」と呼ぶようになったともされているが、名称の由来については諸説ある。
 
※かたびら【帷子】〔あわせの「片ひら」の意〕

「帷子橋」から来た道(旧東海道)を振り返る。

    

 相鉄線「天王町駅」ホーム下をくぐると、「天王町駅前公園」に旧帷子橋跡のモニュメント、また、公園入口に『江戸日本橋より八里』と刻まれた石柱が立っている。

 JR「保土ケ谷」駅を横目に見て旧東海道を進むと、本陣跡など宿場の中心の建物跡が続く。

    
                                      「本陣門」。

「今井川」沿いの「一里塚跡・上方見附跡」。

《5 戸塚》(2014.9.04~投稿)

        
 「境木」。武蔵国と相模国の国境(現在は保土ヶ谷区と戸塚区の区境)。

 木柱の正面に『武相国境之木』、左面に『↑これより 武蔵国 保土ヶ谷 一里』、右面に『↓これより 相模国 戸塚宿 一里九丁』と書かれている。
 台座には「日本橋九里九丁」、「京都百十七里」とあり、、台座の周りには、日本橋から三条大橋までの宿場名がずらり。

標柱「品濃一里塚」と「←戸塚 →保土ケ谷」と白ペンキで書かれた石の道標。

右塚の手前から右の細道を登ると塚の裏側が「品農一里塚公園」になっていて、塚の頂上を見ることが出来る。



 かつては開かずの踏切として有名だった「戸塚駅」構内の踏切も、「歩道橋」が完成してスムーズに通過。宿場内に入ってしばらく行くと、「渡邊本陣跡」などあり、その先に、

「芭蕉句碑」。

 「鎌倉を 生きて出でけむ 初松魚(かつお)  芭蕉翁」

 当時鎌倉で水揚げされた初鰹は戸塚を通り江戸に運ばれました。嘉永2年、当地の俳人達によって戸塚にちなんだこの句の碑が建てられました(「解説板」)。

《6 藤沢》(2014.9.11~投稿)

 藤沢宿に入る手前には、「遊行寺坂」の長い下りが。

 

 崖上の高さまであった旧東海道を掘削改修したのが現在の道路。江戸時代には、街道の両側に盛土し榎を植えた一里塚があって、旅程の目印とされていた。この「一里塚」は日本橋から12里目。

現在の「遊行寺坂」。

 宿場の中心部。道路沿いに「藤沢宿」に関する写真や標識などがある。駅前の雑踏に比べて静かな旧東海道筋。

 

    

国登録有形文化財(建造物)
• 店蔵 明治44年(1911年)• 主屋 明治44年頃、昭和初期増築• 文庫蔵 文久元年(1861年)、大正14年(1925年)改修
 桔梗屋は、旧東海道藤沢宿で茶・紙問屋を営んだ旧家。本社は横浜に移転したが、現在も、店蔵は藤沢支店として使用されている。土蔵造の店蔵は、黒漆喰仕上げで1階に重厚な観音開の塗籠戸を吊るなど、優秀な左官技術を伝える。文庫蔵は当地で近世に遡る貴重な例で、店蔵とともに東海道の旧宿場的雰囲気を伝えている。

「日本橋」から「藤沢宿」はずれの「引地橋」まで。日帰りで5日がかりの旅。

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