おやじのつぶやき

おやじの日々の暮らしぶりや世の中の見聞きしたことへの思い

竹町公園(旧竹町小学校、現平成小学校)。(震災復興52小公園。番外編。その13。)

2014-02-16 21:15:04 | 震災復興小公園

1880年頃のようす(「歴史的農業環境閲覧システム」より)。赤丸が「竹町小学校」の位置、赤い線がのちの「佐竹商店街」。東側の通りが現在の清洲橋通りにあたる。(「佐竹商店街」「三味線堀」跡などについては、昨年の11月11日付けで紹介済み)

1941(昭和16)年頃。赤丸が竹町小学校、下谷(現竹町)公園。「佐竹本通り」が「佐竹商店街」。
(「竹町 - DTIwww.maroon.dti.ne.jp/~satton/taitou-imamukasi/syouwa16/taketyo.html」より)。‎

 近隣の台東区立小学校では震災復興公園に関わる学校も多い。そうした土壌があったのでしょうか、竹町(たけちょう)公園と旧竹町小学校の関係は、まさに震災復興52小公園と同様の発想があったと思われます。
小学校と公園の関連が似ている。この公園は、小学校の校庭に面してつくられた公園仕様。


平成小学校南側に公園が広がっている。
校庭とのフェンスにある出入口。残念ながら校庭側は花壇で占められている。
コンクリート製の花壇が並んでいる。
西側に段差をつけて遊具がある。
東側は広場。学校側にコンクリート製の昇降台が設置されている。毎朝のラジオ体操の会場に。
古い樹木も。
フクロウ。
「佐竹商店街」のマスコットは「竹にフクロウ」。
地名にちなんで、公園の一角には、小さな竹林。
「平成小学校」正面玄関。ネーミングは? 複数の学校が統合して一校になると校名がもめますが。ただし、併設の幼稚園名に「竹町」が残っている。
(「平成2年に二長町小学校と統合されて平成小学校となり、永い歴史を閉じた竹町小学校です」mixiコミュニティより引用)

 この公園と小学校との関係は、「震災復興52小公園」当時のコンセプトを引き継いでいるように思えます。
 90年以上前の、小学校を機縁とする地域コミュニティ計画が、今も地域にとって必要なことを実感しました。

地名由来。
エリア。

 明治5年(18729秋田の久保田藩主佐竹邸、伊勢の津藩主藤堂邸、伊予の大洲藩主加藤邸、秋田の矢島藩主生駒邸と周辺の屋敷が合併して竹町はできた。町名の由来はこの地に最も広大な敷地を有した佐竹邸の西門扉に竹を用いたことにちなむという。
 この地は竹町と命名されてからめざましい発展を遂げて、佐竹邸の跡地は講談寄席や料理店がならび大変にぎわった。その後、大正12年(1923)の関東大震災で一面焼失したが、聖人や職人の町としてよみがえった。そして第二次世界大戦で二度にわたる空襲を受けたにもかかわらず他にさきがけて復興し現在の姿になった。

 学校と公園のある場所が、佐竹邸跡。また、「秋葉神社」は佐竹邸の屋敷神として、現在も公園の脇に存在しています。

公園の周囲には、古い民家がまだ残っている。

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