おやじのつぶやき

おやじの日々の暮らしぶりや世の中の見聞きしたことへの思い

芦野宿~白坂宿(実は白坂駅から黒田原駅まで)その2。(「奥州街道」をゆく。第4日目。)

2016-10-25 20:04:46 | 奥州街道

 緩やかに上って行くと、意外に早く県境(福島と栃木。旧磐城国と旧下野国)の峠に着きます(10:52)。
 ただ、この国道。ほとんど信号がないせいか、大型トラックやダンプなどが、かなりのスピードで通り過ぎて行きます。それほど交通量は多くありませんが、歩道もないので路肩を歩くしかない旅人は冷や汗ものです。
 運転手は人間が歩いているとはあまり思っていないのでしょうか、避け方もけっこう激しい。峠付近はカーブも多く、坂道で見通しもきかないため、ちょっと怖い感じです。
 栃木県に入ってしばらくすると、道路も広くなり、見通しもきき、歩道もあって安心して歩けます。福島県側の白坂宿付近は整備された広い道でしたが。

来た道を振り返って望む。
 峠の手前に「弘法大師衣替えの清水」という史跡があるようですが、案内板も見当たらずに通り過ぎてしまいました。

境の明神とニ所の関」。

 白河の関は「ニ所の関」と古来からいわれるとおり二ヶ所にあった。勿来の関といわれた菊多剗(せき)と共に大和政権が蝦夷対策として設けたもので南北八キロ間に数ヶ所配置された関があった。白河市旗宿地内の「関の森」は城主松平定信候が「古関蹟」と断定し昭和十三年国史跡指定となっている。奈良、平安初期の国境には男女ニ神を祀るとされ、下野国住吉神社に中筒男命を祀り、関東明神と称し、岩城国玉津島神社に衣通姫命を祀り、奥州明神と称し「二社の関」の由来するところであります。
 江戸五街道の設置と奥州街道白坂宿場町の発展と共に旅人の安全祈願の参詣も多く、参勤交代や旅人の茶店南部屋の千代の餅、仙台屋のうぐいす餅が親しまれたという。関守石井家と共に、境の明神祈願寺別当に天台宗一実神道派修験法院の豊神寺が社殿脇に建立されたのもこのころである。
 徳川最盛期元禄ニ年、庶民芸術・文化のはなやかな頃、芭蕉が曽良を伴い奥州の第一歩を関の明神へとさしかゝり夕暮れ時、くいなが鳴いていた。

     関守の 宿をくいなに 問おうもの  曽良

 初夏の奥州路は、うつぎの花が真白に咲いてにぎやかな田植え唄がきこえやっと奥州に入った。気をはずませて旅を続けたことゝ思う。

道路をはさんだ反対側にある解説碑。

白河ニ所之関址
 白河ノ関ハ古クカラニ所ノ関ト呼ハレハ潢準平原ノ中ヲ横断スル奥州路ハココテ道ヲ幾通リニモ選ヘルノテアル白河楽翁ニヨリ指定サレタ今ノ旗宿道ハ其ノ一本テアル 然シコレヨリ西側三キロノ所ヲ通ツテイル白坂道ハ昔カラヨク利用サレ古ノ関蹟ニミラレル関ノ男女ノ明神址カアリ古関ノ体裁ヲモツトモヨク保チナカラ白坂ノ関址ハ全ク無視サレテ来タ 余 多年関境ノ研究ニ没頭シ江戸時代ヨリノ関守ノ家テアル石井浩然(南部藩士テ故アツテ南部藩ノ参勤交代路ニアタル白河ノ関守トナッタ石井七兵衛ノ子孫)ト其ノ考証ノ當タリ遂ニソノ関屋跡ヲ確認スルコトカ出来タ 茲ニ白河ニ所ノ関址之証ヲ機トシ白坂道白河関址ニ記念碑ヲ建立シ永ク白河ニ所ノ関ノ意ヲ傳承セントスルモノテアル
     昭和五十七年五月  建之
     理学博士・東京学藝大学名譽教授・國士館大学教授 岩田孝三
     白河関守                            石井浩然

そこから「神社」側を望む。

 本殿脇には、芭蕉の句碑があるようですが、見逃しました。

        はせお
     風流の
       はじめや
         奥の
       田うへ唄

 栃木県那須町方向(下野国)を望む。
    

県境の峠はけっこうガレ場がある切り通し。

 写真左に「県境の碑」があります。『境 福島縣西白河郡・栃木縣那須郡』と刻まれた県境の碑が立っています。

栃木(下野)側の「境の明神」。

福島県側を望む。

解説板。

那須町指定史跡 境の明神
 玉津島神社とよばれ、奥羽側の住吉神社と並立している。
 創立は古く、天喜元年(1053)4月14日に、紀州和歌浦の玉津島神社の分霊勧請と伝える。起源は峠神として生まれ、奥州街道が開かれると交通の発達とともに発展したが、明治に入り新国道や鉄道の開通によって衰退したものとみられる。ことに明治39年12月の火災により類焼し、昔日の面影を失ってしまったが、旧東山道沿いの「追分の明神」とともに、道中安全の神として古い歴史をしのばせる貴重な史跡である。
                        
                那須町教育委員会

 峠は鬱蒼とした木々の中にあります。かつてはもっと急な峠道だったようで、現在の国道は2㍍ほど掘り下げられているようです。 

 (11:05)峠で小休止し、栃木県側に来ると、左右に里山風景が続きます。
    

「明神の地蔵様」。

(11:13)こちらは「馬頭観音碑」。

緩やかに下って行きます。

 ここで、いかにも街道歩きをしている方が向こうからやってきました。「今日はどちらまで。」「芦野温泉に泊まって、今日は白河までです。」という。「逆コースをお歩きですか? 」「いや、バスの便が悪いんで、今回だけ逆コースです。」「白坂はすぐですよね。」「ええ、けっこうダンプとか大型車が通るので気をつけて下さい。」

 (11:24)しばらく進むと、国道から離れ、「山中」に入っていきます。
    
                                           振り返って望む。
   「山中」。

    

 (11:33)民家の塀の内側に「明治天皇山中御小休所」の石碑と説明板が立っています。石碑は、昭和13年3月建之とあります。

明治天皇山中御小休所 
 那須郡蘆野町大字寄居字堂矢場にあり。
 鈴木留治宅地千八百五十六番地三百三十坪の内、實測百十一坪六合を指定せり。
 明治十四年山形秋田両縣及び北海道巡幸の際、八月七日及び還幸の砌十月七日御小休所となりたる處なり。
 白河に通ずる舊陸羽街道中、山中とよばれし所にして、當時鈴木清次郎の居宅なり。
 今、孫留治繼承せり。
 平屋建茅葺なり。御座所にて充てられしは、八疊の座敷にして舊規模よく保存せらる。
     昭和十ニ年十二月 文部省発行明治天皇聖蹟抜粋

 この史跡を見物していると、同じように入ってくる方が。挨拶がてら聞くと、昨日、芦野温泉に泊まって今日は白河まで行くとのこと。「前に一人歩いている方がいましたよ。」「芦野に泊まった方ですね。」「奥州街道はどこまでですかね。」「一応白河までとなっているようですが。」「ま、青森っていうわけにはいかないけれど、仙台までは行ってみようと思っていますが。」「芦野宿までですので、のんびり行きます。」「では、お気を付けてお互いに。」
 この方はすでに「五街道」の内、東海、中山、日光、甲州を制覇し、残りはここだけということでした。 

集落の外れには「馬頭観音」が数体建っています。 

そして再び国道に合流して進みます。

「奈良川」。芦野宿迄この流れにほぼ沿って進みます。

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