おやじのつぶやき

おやじの日々の暮らしぶりや世の中の見聞きしたことへの思い

金沢城・兼六園。その5。

2018-04-26 20:51:58 | つかのまの旅人
                           登り口に芭蕉の句碑があります。
                 
                     あかあかと 日はつれなくも 秋の風



 卯の花山・くりからが谷をこえて、金沢は七月中の五日なり。
 ここに大坂よりかよふ商人何処(かしょ)といふ者あり。それが旅宿をともにす。
 一笑(いっしょう)といふものは、この道にすける名のほのぼの聞えて、世に知人もはべりしに、去年の冬、早世したりとて、その兄追善をもよおすに、 

  塚も動け 我(が)泣(く)声は 秋の風

 ある草庵にいざなはれて 

  秋涼し 手ごとにむけや 瓜茄子

 途中吟

  あかあかと 日はつれなくも 秋の風

 小松といふ所にて
 
  しほらしき 名や小松ふく 萩すすき

 この所太田(ただ)の神社に詣ず。
 真盛が甲・錦の切れあり。
 往昔、源氏に属せし時、義朝公よりたまはらせたまふとかや。
 げにも平士(ひらさむらい)のものにあらず。
 目庇(まびさし)より吹返(ふきがえ)しまで、菊唐草のほりもの金をちりばめ、龍頭に鍬形打ったり。
 真盛(さねもり)討死の後、木曽義仲願状にそへて、この社にこめられはべるよし、樋口の次郎が使せしことども、まのあたり縁記にみえたり。

  むざんやな 甲の下の きりぎりす

(『奥の細道』より)

 金沢から小松へ向かう旅路での吟詠。「七月中の五日」は陰暦7月15日。盂蘭盆会の日でもある。すでに秋の気配、その夕べの風情。「つれなく」は、「さりげなく」と「かそしらぬふり」の意。「も」の一語が活きている。
 先行する歌に「秋来ぬと目にはさやかに見えねども風の音にぞおどろかれぬる」『古今集』(藤原敏行)がある。
「くりからが谷」は、富山県と石川県の境にある倶利伽羅峠。木曽義仲が牛の角に松明を点けて大軍と見せかけ、平家を敗走させたという古戦場。

苔むした道を上っていきます。



頂上にある四阿。

  

「辰巳用水」を取り入れたせせらぎ。

眺望台」からの眺め。能登半島方向。

水道の遺構」。

          
 園内を流れてきた辰巳用水がここから逆サイフォンの原理で金沢城二の丸へ導かれた水道の遺構である。寛永9年(1632)に作られたときは木管であったが、天保15年(1844)に石管に替えられた。
 この取水口を土塀で囲み三つの番所水御門を構えて厳重に管理していた。

        「徽軫灯籠(ことじとうろう)」。
  

                      

 霞ヶ池の北岸に配された兼六園を代表する景観です。徽軫灯籠は足が二股になっていて、琴の糸を支える琴柱(ことじ)に似ているのでその名が付いたと言われています。この灯籠は水面を照らすための雪見灯籠が変化したもので、高さは2.67m。かたわらのモミジの古木、曲水に架かる虹橋と一体となって優れた風景を醸し出しています。(http://www.pref.ishikawa.jp/siro-niwa/kenrokuen/point_win/21/より)

 この灯籠はこれまで何度も倒されたそうで、もともとは両脚とも同じ長さ・高さだったが、明治維新前後に片脚が折られ、石の上に乗っている。その特異な形のため、かえって注目を引くようになった、とか。
 1969(昭和44)年に修復されが、1977(昭和52)年に壊され、現在のものは、2代目だそうです。

満開の桜の下には大勢の外国人。

兼六亭」。
 室生犀星の小説「性に目覚める頃」お玉の掛け茶屋が今の「兼六亭」です。

 
                                「噴水」。
 この噴水は霞ヶ池を水源としており、自然の水圧であがっている。通常、水の高さは3.5㍍で、霞ヶ池の水位の変化によって変わる。1861(文久元)年、金沢城二の丸の居間先に噴水があがっているが、兼六園の噴水はその試作といわれている。日本最古といわれている噴水である。(「パンフレット」より)

 そろそろ帰る時間ですが、名残惜しく「黄門橋」から「獅子巌」の方へ。
 

 結局、梅林、「時雨亭」、長谷池方面には行く時間がなく、お茶屋さん、お土産屋さんが並ぶ通りを抜けます。


  
「ゴジラ対金沢城」。                      「金沢城対キングギドラ」。 
   
江戸町跡」。
 平成元年に茶店の改築にともなって、埋蔵文化財発掘調査をおこなったところ、「江戸町」の遺構が確認された。
 「江戸町」とは、慶長6年(1601)に前田利常(後の三代藩主)のところへ二代将軍徳川秀忠の娘珠姫が輿入れ(嫁入り)したときに、江戸からお供してきた大勢の武士等が、長屋を建てて移り住んだ町並みのことである。

「兼六園案内図」。

 「兼六園」に別れを告げ、「石川門」から「金沢城」へ。前日行けなかったところへ向かいます。

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