おやじのつぶやき

おやじの日々の暮らしぶりや世の中の見聞きしたことへの思い

初めての釧路。その3。

2018-05-14 20:22:51 | つかのまの旅人
                                      夕日が美しい。
「春の像」。春夏秋冬の像があります。
           携帯写真なので実際以上に夕日が大きく見えます。

釧路空港へ戻るまでの時間。つかの間の市内見学。

「幣舞橋」。橋のたもと正面には大きな「花時計」。

幣舞橋(ぬさまいばし)
 釧路川に架かる橋。幣舞の名前はアイヌ語の「ヌサ・オ・マイ」(nusa-o-mai 幣場の・ある・ところ)が由来とされている。
 幣舞橋は、1889年(明治22年)に北海道内で最も長い木橋「愛北橋」(全長207m、幅3.6m)として架橋されたのが始まりである。それまで渡船により越えていた釧路川に、名古屋に本社を持つ商事会社「愛北物産」が自費で架橋し、有料で橋を運営した。ところが、1898年(明治31年)に橋は倒壊してしまう。
 1900年(明治33年)、官設となる木橋(全長203m、幅4.2m)が架けられ、地域の名称から「幣舞橋」と名づけられた。しかし、この橋も増水による上流からの流木や、冬場の結氷や流氷によって1909年(明治42年)に倒壊。同じ年に新たな木橋(全長203m、幅4.5m)が架けられたが、流木や流水によりおよそ6年で倒壊してしまった。1915年(大正4年)には幅員を拡げた新たな木橋(全長201m、幅7.2m)を架けた。
 1928年(昭和3年)、およそ4年の歳月をかけて永久橋(全長113m、幅18.3m)が完成。歩道と車道が分けられ、車道は片側2車線になった。優雅なアーチを描くヨーロッパ風のデザインと橋上に設置された四基の大理石によるオベリスクは、頑丈なだけでなく美しさも兼備しているとして高く評価され、豊平橋(札幌市)、旭橋(旭川市)と並んで「北海道三大名橋」と称された。
 1976年(昭和51年)、老朽化と渋滞緩和を目的に新たな橋が架橋された。設計は市民参加型で行われ、四基のオベリスクやアーチ型などは旧橋の面影を残しながら新たな試みを採用し、橋脚上には4人の彫刻家による作品「四季の像」が設置されている。
(以上、「Wikipedia」参照)

・春の像 舟越保武 作「若葉が萌えいずる雪解けの季節」
・夏の像 佐藤忠良 作「さわやかな風を受けて羽ばたく若々しさ」
・秋の像 柳原義達 作「迫りくる厳しい冬に立ち向かう精神と緊張感」
・冬の像 本郷新 作「寒さと冬をはねのけて春を待ち望む心」
(「国交省北海道開発局釧路開発建設局」HPより)

「冬の像」。

石川啄木の歌碑がある、というので「米町公園」へ。その途中には、
「啄木ゆかりの人 小奴」碑。

明治四十一年一月二十一日石川啄木、妻子をおいて単身釧路に来る
同年四月五日当地を去るまで釧路新聞社に勤め記者として健筆をふるえり

  あはれかの国のはてにて
  酒のみき
  かなしみの滓を啜るごとくに

当時の生活感情を啄木はこのようにうたう
当時しゃも寅料亭の名妓小奴を知り交情を深めり

  小奴といひし女の
  やはらかき
  耳朶なども忘れがたかり

  舞へといへば立ちて舞ひにき
  おのづから
  悪酒の酔ひにたふるるまでも

漂浪の身に小奴の面影は深く啄木の心をとらえ生涯忘れ難き人となれり
小奴もまた啄木の文才を高く評価し後年旅館近江屋の女将となり七十余年の生涯を終るまで啄木を慕い通せり
今、此処小奴ゆかりの跡にこの碑を刻み永く二人の追憶の記念とす

  昭和四十一年十一月
    朝日生命保険相互会社
                   

 以下、「青空文庫」より。
石川啄木と小奴 野口雨情
 石川啄木が歿なくなつてからいまだ二十年かそこらにしかならないのに、石川の伝記が往々誤り伝へられてゐるのは石川のためにも喜ばしいことではない、況や石川が存生中の知人は今なほ沢山あるにも拘はらず、その伝記がたまたま誤り伝へられてゐるのを考へると、百年とか二百年とかさきの人々の伝記なぞは随分信をおけない杜撰なものであるとも思へば思はれます。ですから一片の記録によつてその人の一生を速断するといふことは、考へてみれば早計なことではないでせうか。
 私の思ふには石川が最後に上京して朝日新聞在社時代の前後や、晩年の生活環境については石川の恩人であつた金田一京助氏が一番正確に知つてゐるはずで、同氏によつてその時代のことを書かれたものが、正確なものだと考へられるが、北海道時代、ことに釧路時代の石川のことについては全く知る人が少いやうに思ふのでそれをここで述べてみよう。
 石川の歌集を繙く人は、その作品の中に小奴といふ女性が歌はれてゐることを気づくであらう。
 小奴といふのは釧路の芸者で、石川とは相思の仲であつたともいへよう。私は小奴に逢つたのは石川が釧路を去つて約一年後であつた。その動機といふのは、大正天皇が皇太子のころ北海道へ行啓されたことがあつた。その時私は、東京有楽社のグラフイツクを代表して御一行に扈従して函館から、札幌、小樽、旭川、帯広と順々に釧路へ行つた。その時東京からの扈従記者は新聞では国民新聞の坂本氏、通信社では電報通信の小山氏、日本通信の吉田氏らであつた、その時の新聞班の係長はつい先ごろまで、千葉県や群馬県の県知事をしてゐた県忍氏で県氏はその当時北海道庁の事務官であつたため新聞班の係長に選定されたのである。
 そこで我等扈従こせう記者の一行が県氏の案内で釧路へ着くと、釧路第一の料理亭、○万楼で土地の官民の有志が我我のために歓迎会を開いてくれた。私も勿論その席に出席して招待を受けたのであつた。
 時は丁度灯ともしごろ、会場は○万楼の階上の大広間で支庁長始め、十数名の官民有志が出席して、釧路一流の芸妓も十数名酒間を斡旋した。その時私がふと思ひだしたのは、嘗て石川から聞いてゐた芸者小奴のことであつた。私はこの席に小奴がゐるかどうかを女中に尋ねてみると、女中のいふには
『支庁長さんの前にゐるのが小奴さんです。』
 見ると小奴は今支庁長の前で、徳利を上げて酌をしてゐるところである。齢としは二十二、三位、丸顔で色の浅黒い、あまり背の高くない、どつちかといへば豊艶な男好きのする女であつた。その中に小奴は順々に酌をしながら私の前に来た。そこで私は
『小奴とは君かい。』
と聞いてみた。すると
『ええ、わたしですが何故ですか。』
と不思議さうに私の顔をみる、私は
『君は石川啄木君を知つてゐるだらう。』
といふと小奴は
『石川さん?』と小声に云つて、ぽつと頻を染めながら伏目勝ちになつて
『どうしてそんなことをおききなさるのですか。』
『いいや、君のことは石川君からよく聞いてゐたものだから……』
『あら、あなたは東京のお方でせう、それにどうして石川さんを知つてらつしやるのですか。』
『私は、今は東京にゐるが一、二年前までは小樽や札幌にゐたからそんなことはよく知つてゐるよ。』
 実は私は札幌で石川を始めて知つて、それから小樽の小樽日報へ一緒に入社したのであつた。小奴は
『あなたのお名前は何とおつしやいますか。』
と、不安さうな瞳をみはつて尋ねるのであつた。
『私は野口といつて石川君とは札幌からの懇意だもの。』
『まあ、あなたが野口さんでしたか、それでは石川さんから始終あなたのお噂を聞いてゐました。それにしても今石川さんは何処どこにゐらつしやるのでせうか。』
 小奴は石川が釧路を去つてからの後は石川のくはしい消息は全く知らないらしかつた。
『いまは東京にゐるが、君はそれを知らないのか。』
『ええ、東京へ行つてゐるといふことはうすうす聞いてゐましたが、東京の何処にゐらつしやるのかその後音信がないので存じません。』といふ。
 さうしてゐる中に酒席は酣になつて、一同のかくし芸が始まる。小山氏の手品、坂本氏の詩吟等と主客共愉快になつて、大はしやぎにはしやいだ。私は小奴と石川のことを話し合つてゐたために、同行の某君は、けしからんけしからんといひながら傍へよつて来て、たうとう私と小奴との話をさへぎつてしまつた。そこで小奴はまた支庁長の方へ行つて三味線をひきだした。私も大分酔つて来て一行と共に出来ないかくし芸なぞしてはしやいだ。
 やがて宴会が終つて芸者連は帰つてしまつた。私達も旅館へ引きあげようとして階段を下りて来ると、女中が一通の手紙を私に渡した。封筒には唯、野口様と書いただけで誰からの手紙ともわからなかつたが、開けてみると鉛筆の走り書きで、
『石川さんのお話もお伺ひしたうございますから、お帰りに私の家によつて下さい、人力車でいらつしやればすぐでございます。  小奴』
とあるのでその手紙が小奴からであることがわかつた。そこで私は帰りに小奴の家に寄つてみた。家は○万楼から四五丁位の処でその辺は花柳街で、小奴の家は格子戸のはまつた、下が三畳に六畳の二間、二階も一間位はあつたらしい、小じんまりした家であつたやうに記憶してゐる。
 小奴は私の行くのを待つてゐたらしく直すぐに六畳の部屋に迎へて呉れた。壁には三味線が二梃ばかりかかつて本箱の上には稽古本が二冊位のつてゐた。左の方の柱に石川の書いた短冊が一枚かかつてゐた。短冊にかかれた歌の文句は忘れてしまつたが、歌の意味は、『小奴ほど人なつかしい女はない』といふやうなことであつた。全く小奴は人なつかしい温和しい女性でまた正直な女であつた。小奴は酒に酢のものを添へて料理を出して、心から私を歓迎してくれた。
 何でも小奴にはそのころ三つか四つぐらゐになる子供があつた。その子供の親は石川ではなく、小奴の前の旦那の子供であるといふことであつた。小奴の家庭は、小奴とその子供と箱屋と女中とをかねた五十ぐらゐの婆さんの三人暮しで、いふまでもなく小奴は自前の芸者として釧路でも姐さん株であつた。小奴の母親は幼少のころ亡くなつたが、父親は、そのころ、――実の父親か義理の父親であつたかよく記憶はしてはゐないが、――何れにしろ父親は釧路駅の従業員をしてゐて小奴とは別居して暮らしてゐた。小奴と逢つた翌日その父親にも停車場で逢つたが、決して裕福な暮しではなかつたやうである。
 小奴は私に石川のことについて次のやうなことを話して聞かせた。
『石川さんが釧路へ来て間もなく、社(釧路新報社のこと)の遠藤決水さん達と一緒に逢つたのが、初めてで、それから始終石川さんとお逢ひしてゐましたが、初めの中は料理屋の勘定なども無理な工夫をして支払つてゐましたし、私も出来るだけお金の工面もしましたが、たうとう行きづまつて、はてはお座敦に行けばお客達から『石川石川』といつてからかはれお座敷の数もだんだん減つてどうすることも出来ないやうになつてしまつたのです。それに石川さんにはお母さんも奥さんも子供さんまであつて、お金に困りつつ小樽にゐるといふことを遠藤決水さんから聞かせられて、私は第一奥さんにすまないと思ひましたのでそれからは、心にもない不実な仕打をするやうになりました。それとしらない石川さんはその後私を大変恨むやうになりました。そこへまた社の社長(釧路新報の社長白石義郎氏のこと)さんも石川さんに意見をするやうになつたので、それやこれやで石川さんは釧路をたつ気になつたのでせう。
 けれどもたつといつたとこで、一文の金の融通さへも出来ないまでに行きづまつてしまつた石川さんは、丁度その春の解氷期をまつて、岩手県の宮古浜へ材木を積んで行く帆前船に乗つて、大きな声ではいはれませんがこつそりと夜だちしてしまつたのです。
 さあ石川さんが夜だちをしたとなると勘定の滞つてゐる料理ややそばやが皆私の方へ催促をするので私はよくよく困つてしまひました。仕方がないから社の社長の白石さんを尋ねて何とかして下さいませんかと頼みましたが、白石さんはぷんぷん怒つてゐて、てんで取り合つてくれませんでした。尤も石川さんが夜だちをする二日ほど前に
『「これから郷里の岩手へ行つて金をこしらへて来る。」といつてゐましたが、そんなことはあてにならないとは思つてゐましたが、さうでもしてくれればいいがとせめてもの心頼みにもしてゐたのです。けれどもここをたつてからは一度の音信もありませんから、釧路のことも、私のことも、もう忘れてしまつたのだと思はれます。』
と話して小奴は泪をさへうかべてゐました。私は小奴が気の毒になつたので、
『私が東京へ帰つたら、石川に早速話して石川を慕つてゐる君の心をよく伝へるから。』と慰めの言葉を残して旅館に帰つて来た。
 その後東京へ帰つてから、東京朝日新聞社に石川を尋ねて小奴の話を伝へると、石川はきまり悪さうに笑ひにまぎらして何とも答へなかつた。同じその晩石川と銀座のそばやで一杯やりながら再び小奴のことを話しだすと石川も感慨無量の面もちでうなだれてしまつたので、もうそれ以上私は石川に小奴の話をする勇気がなくなつてしまつた。そしてその後幾度か石川には逢つてもついその話はせずにしまつた。
 それから余程経つた後であつた。小奴にそのうち石川と一緒に釧路へ君を尋ねるといふ葉書を出したことがあつたが、小奴からは何の返事もなく、石川も他界してしまつたので、時折歌集を繙く度に小奴の名の出てくるのをみると、釧路の夕を思ひ出しては芸者小奴は今、どうしてゐるかといふことを考へるのであつた。
     ○
 その後大正十年の春、私が奈良市へ講演に行つて四季亭へ泊つた時、どうした話のはずみだつたか四季亭の女中が、あなたを知つてゐる坂本さんといふ女の方が京都にをりますよと私にいふのである。その女中は何でも京都の生れであつたやうに思はれた。私は坂本といふ婦人はいくら考へても思ひ出せなかつたので女中にだんだん聞いてみると、その坂本といふ婦人こそ、釧路の芸者小奴であつた。小奴の本姓は坂本といふのであつた。
 その女中の話しによると、小奴の坂本はその当時京都のある呉服屋の支配人の妻君になつて京都に住んでゐたのであつた。釧路と京都とはどんな事情で小奴が今京都にゐるかは知らないが、不思議な感がしてならなかつた。
 大正十年といへば今から七八年前のことであるから、今も小奴は京都にゐるかも知れない。
 そのころ無名の詩人であつた石川、今の石川の名声と思ひ合はせて考へた時、小奴はたしかに感慨深いものがあるであらう。
 私も機会があつたら、もう一度小奴に会つて石川の話もしてみたいやうな気もするが単に京都とばかりでは、京都の何処どこにゐるのやら知るよしもなくそのままになつてしまつた。
     ○
 石川は人も知る如く、その一生は貧苦と戦つて来て、ちよつとの落付いた心もなく一生を終つてしまつたが、私の考へでは釧路時代が石川の一生を通じて一番呑気であつたやうに思はれる。それといふのも相手の小奴が石川の詩才に敬慕して出来るだけの真情を尽してくれたからである。かうした石川の半面を私が忌憚きたんなく発表することは、石川の人と作品を傷つける如く思ふ人があるかも知れないが私は決してさうとは思はない。
 妻子がありながら、しかも相愛の妻がありながら、しかもその妻子までも忘れて、流れの女と恋をすることの出来たゆとりのある心こそ詩人の心であつて、石川の作品が常に単純でしかも熱情ゆたかなのも、皆恋する事の出来る焔が絶えず心の底に燃えてゐたから、それがその作品に現れてきてゐるので、もし石川にかうした心の焔がなかつたならば、その作品は死灰の如くなつて、今日世人から尊重されるやうな作品は生れて来なかつたかも知れない。
 いはば石川の釧路時代は、石川の一生中一番興味ある時代で、そこに限りなき潤ひを私は石川の上に感ずるのである。
 このことを石川が地下で聞いたならば苦笑をもらすか、微笑をもらすか、石川のことであるから多分苦笑をもらし乍ら煙草を輪に吹いてだまつてゐるだらうとそれが私の目に見ゆるやうに感じられてくる。
底本:「定本 野口雨情 第六巻」未來社
   1986(昭和61)年9月25日第1版第1刷発行
底本の親本:「週間朝日」
   1929(昭和4)年12月8日

 注:上記の碑文とこの文章では晩年の「小奴」のようすが異なっています。

啄木の恋人は?今も論争 76日滞在の釧路で     
                            (日経新聞2015/1/13付)
 明治期の歌人石川啄木(1886~1912年)が新聞記者として76日間を過ごした北海道釧路市で、当時の恋人は誰だったのか、今も論争が続いている。12日には文化施設「港文館」主催の啄木講座が開かれた。没後100年以上も経過し、何が人々の心を捉えているのか。
 「小奴だというのが通説だが、ふたりは芸妓(げいぎ)と客の関係にすぎず、恋人は梅川操だと思う」。講座で、講師役の釧路啄木会会長北畠立朴さん(73)は持論を展開した。
 恋人と目されるのは、芸妓の小奴と看護師の梅川。講座の女性参加者からは「妻一筋では」との第三の説も飛び出した。
 啄木は1908年1月に妻子を小樽に残し、釧路入り。滞在中、頻繁に料亭に通い、揚げ句に借金を踏み倒して上京。釧路では「女たらしだった」と伝えられている。
 啄木は「小奴といひし女の やはらかき 耳朶なども忘れがたかり」などと歌集「一握の砂」で小奴を詠んでおり、通説の有力な論拠だ。
 一方、梅川は啄木の小説「病院の窓」に登場する看護師のモデルとされ「『喰ひつきたい程可愛く思はれる』と梅川に寄せる思いが書かれている」(北畠氏)という。
 論争が続く理由について北畠氏は「啄木は恋多き男で、作品と恋は切り離せない」と指摘。参加した女性(66)は「啄木の歌は分かりやすく、身近な存在。週刊誌的な話題をしても、誰も傷つけない点もいい」と話す。
 別の女性は「未解明の点が多く、興味深い研究対象」と話す。ただ近年新資料の発見はなく、当面決着の見通しはない。
 啄木が釧路に着いた1月21日に開かれる行事「雪あかり」は今年も、啄木と小奴に扮(ふん)した男女が通説通り恋人を演じる。〔共同〕
(以上、「」HPより)

 「米町公園」にある石川啄木「歌碑」。
 
しらしらと氷かがやき
千鳥啼く 
釧路の海の冬の月かな


 啄木日記の明治41年(1908)1月21日に「・・・九時半釧路に着。停車場から十町ばかり、迎へに来た佐藤国司らと共に歩いて、幣舞橋というを渡った・・・」とあって、76日間の釧路生活が始まりました。啄木22才の時のことです。
 この歌は歌集「一握の砂」に収められた一首であり、歌碑は啄木生誕50周年を記念して昭和9年(1934)に建立されました。この知人岬の地は作家林芙美子の勧めにより選ばれたもので、釧路の啄木歌碑の中では最も古く、全国で6番目に立てられたものです。

 釧路市内には、26基の啄木歌碑などが各所に建てられているようです。


高浜虚子の句碑もあります。
                燈台は低く霧笛は峙てり

 明治・大正・昭和の日本俳句界に大きな足跡を遺した巨匠高浜虚子は、昭和8(1933)年8月23日この釧路を訪れた。
 碑句は知人岬付近から眺めた北の港の厳しさとこれを守る燈台、霧笛への虚子独特の感慨を詠ったものである。一連の中には
露領より帰りし船と鮪船
があり、ともに当時の釧路港の歴史、産業、風土、文化を今に伝えている。・・・


 「展望台」から望む。
釧路港。

                              



                釧路市内。街並み。

 漁港に立ち寄ります。一時の賑わいはなくなった、とのこと。


               

      

 こうして駆け足で市内見物。空港に向かいました。市内は車の数はそこそこありますが。歩く人の姿はほとんど見かけません。たまに、ジョギングしたらり散歩しているのはお年寄りが目立ちます。
 「20万都市から今は17万くらいですか。日本製紙の工場が頑張っているくらい。・・・」送ってくれた方の弁。

「たんちょう釧路空港」。
 
              求愛のポーズのようです。

 夕日に染まる空港。北の大地。



 「啄木ゆかりの地」巡りなどを兼ねて、またゆっくりと訪問したい、と。

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