おやじのつぶやき

おやじの日々の暮らしぶりや世の中の見聞きしたことへの思い

遠州鈴ヶ森。見付宿木戸。阿多古山一里塚。旧見付学校。・・・(掛川駅から磐田駅まで。その6。)

2015-03-26 19:00:42 | 旧東海道

 そのまま坂道を下っていくと、国道一号線に合流します。目の前の歩道橋を渡って右側に。その歩道橋の脇に急な石段が。上がりきった、狭く草ぼうぼうのところに「遠州鈴ヶ森」という大きな標識。

    
                                    「無縁之萬霊」。
 大盗賊、日本左衛門の首がここで晒されたと伝えられています。日本左衛門は、遠州・金谷の生れ。美濃から相模の八か国にかけて、盗賊団の首領として暴れまわっていましたが、江戸の火付け盗賊改め方に捕えられて、江戸で斬首され、この地に運ばれた、といいます。
 ここの敷地はあまりにも狭く、小高くなっている(国道の拡幅整備の関係で、丘が切り崩されてここだけ残った雰囲気ですが。たたりでもあったのか? )ので、実際あった場所はもう少し西側だったようです。

 国道から分かれて右の道を行くと、左手の橋が「涙橋」。同名の橋が、東京の鈴ヶ森、小塚原の刑場にもありました。
        

 そのまま急坂を下ると、東木戸跡。

 左手にある「愛宕山」。

 愛宕神社を上ると、「見付宿」(磐田)方向がよく見渡せます。

 その北側、社の裏手に「阿多古山(愛宕山)一里塚」が現存しています。
       

    
    南斜面。                            北斜面。

 回り込んで、広い通りに出ると、「見付宿」入口らしく解説板や歓迎のモニュメントが。 

    

 見付宿と阿多古山一里塚

 見付宿は、江戸日本橋から数えて28番目、京都三条大橋から26番目を数えます。見付宿は中世に作られた狂言『磁石』に「見付は長い町」と紹介されています。江戸時代後期の資料によれば東木戸から、東坂町、馬場町、西坂町、横町と西木戸まで並び、ほぼ中央に南北両本陣や脇本陣が置かれました。西に天竜川を控え、東海道各宿の中でも重要な宿の一つでした。
 この見付宿の東側の入口に、阿多古山一里塚があります。この塚は見付の町を見下ろす高台にあり、教へ向かう旅人は、ここから宿場を眺めてほっとしたことでしょう。
 一里塚は、江戸時代の初期(1604年以降)に整備されました。阿多古山一里塚は江戸から62里、京から64里の位置にあります。一里塚が残っている所は少なく、さらに阿多古山一里塚のように街道の両側に塚が現存する例は極めて珍しく、昭和42年に磐田市の指定史跡になっています。

 注:街道の反対側に残っている塚の方は行きませんでした。

JA遠州中央見付の前にある絵地図。

 予備校もしゃれたつくり。
 
     
       問屋場跡。                             本陣跡。

足元には「見付17小路」の案内。

 右手の奥に、「史跡 旧見付学校」。

    

 史跡 旧見付学校
 見付学校を第12中学区内第1番小学校にと地元の熱意で、明治7年堂宮棟梁伊藤平左衛門の設計で着手、翌8年に開校しました。
 基礎の石垣は遠州横須賀城の石垣を利用し、間口12間、奥行き5間の木造洋風2階建てに屋上2階の楼を完成させました。玄関はエンタシス様式の飾り柱、分銅付き窓の日本最古の現存木造洋風建築です。
 明治16年に2階天井裏を改築し、現在の3階2層になりました。

 磐田市教育委員会文化財課

 現在、校舎内は明治の教室風景や職員室をはじめ、学校関係の資料等が展示されています。昭和44年、国指定史跡となっています。自由に中を見学して回れます。一見の価値は、充分あります。

     

急な階段を上り下り。

4階からの展望。

5階からの展望。

 5階は、太鼓楼でした。

 5階は太鼓楼です

 この最上階(5階)は太鼓楼で、伝酒井の太鼓が置かれていました。(現在は1階に展示中)
 この学校ができた明治8年(1875年)から大正中期頃まで、児童の登校や正午の時報として毎日打ち鳴らされていました。当初は、小使いさん(用務員うが叩いていましたが、その後太鼓当番の上級生が叩くようになったようです。
 この太鼓の音は児童だけでなく、見付町民の生活の音としても親しまれ、ここから1㎞離れたところでも、はっきりと聞こえていたといわれています。

注:「伝酒井の太鼓」は、三方原の合戦の際、浜松城で酒井忠次が打ち鳴らしたと伝えられる太鼓。

 この施設のすばらしいところは、明治以来の教科書の変化、学校制度の変遷、昔の生活道具の展示だけではなく(これもけっこう充実した内容)、地元の子供達や親など地域住民に開放しているところ。
 何人も子供達や親子連れが訪れて、階段を上ったり下りたりして遊んだり、昔の遊び(自転車の車輪回し)をやっていたりしていました。
 過去の教育施設ではなく、今もなお現役、というのは素敵なことです。

 何だかゆっくり見学している内に、4時少し前。磐田駅まで向かいました。
「旧見付宿脇本陣大三河屋門」。

 「西坂」を下ると、突き当たりには「姫街道」の標識。

《街道成立の理由》
 東海道の新居関所は、女性に対して特に取り調べが厳しいことで有名であった。徳川家康は、江戸への武器流入や諸大名に対する「人質」として江戸に住まわせた大名の妻たちの脱走を防ぐ為に関所を設置したと言われているが、新居関所では江戸へ向かう「入り女」に対しても厳しい取り調べが行われていた。また、当時は男装して関所を抜けようと考える女性も多かったらしく、関所には「女改め」と呼ばれる性別調べを専門に行う女性も常駐していたという。
 新居関所の執拗な取り調べを嫌った女性たちが、同所を避けて浜名湖の北側の陸路を通ることになったのが、東海道の脇往還としての「姫街道」の発祥と一般的には言われている。また、東海道の舞阪宿と新居宿間の「今切の渡し」の今切を不吉として、女性が避けるようになったと言う説もあるが、文献として残っている訳ではない。ただ、実際に『姫様』の通行があったことは間違いない。
 徳川吉宗の時代には、象が通行したという記録が残っている。

《津波被害の迂回路》
 宝永4年(1707年)の宝永地震津波によって、新居宿および新居関は流失し、浜名湖が太平洋に通じる今切は1里(約4km)もの大口を開けてしまったため、舞阪から新居までの航路では太平洋の荒波を直接受けるようになった。「法螺でない荒井の津波路」とまで呼ばれた危険な渡海を避けて、姫街道が盛んに利用されるように成ったという[1]。
 しかし、参勤交代などで迂回されることとなった見附から御油の間の宿場町は経営が困難となり、宝永6年3月(1709年)には、浜松宿を始め、舞阪・新居・白須賀・二川・吉田の6宿から「見附宿より市野村、御油宿よりすせ村江人馬継立不申様に被為仰付被下候は、難有奉存候」という嘆願書が出された。その結果、享保2年11月(1717年)になり漸く、本坂通(姫街道)通行差留となった。しかし、その後も姫街道を利用する者が後を絶たなかったという



(以上、「Wikipedia」参照。地図は、HPより。)

 東海道は、磐田駅方向に向かいます。

「西木戸跡」。

    

 ここで、「見付宿」を後にし、次の「浜松宿」への道となります。加茂川交差点のところを渡り、一つ目を左に入り、道なりに進んで、磐田郵便局のところで、再び県道56号線に戻ります。旧東海道は、磐田駅前交差点のひとつ手前を右折しますが、今回はここまで。

 「ジュビロ磐田」に敬意を表して。

 帰りは、磐田から熱海行きに乗り、そこで「篭原」行きの各駅に乗り換え、上野まで。
 ずうっと「東京」行きでしたが、3月14日に「上野東京ライン」が開通し、東海道線と常磐線・高崎線などとの相互乗り入れが始まって「東京」止まりはなくなった! そうなってから、初めて乗りました。(「篭原」は、埼玉県熊谷市にある駅)。

 途中までは乗降客もこれまでと変わりはありませんでしたが、品川駅からは乗る人も増えて、新橋からもまた増えてきました。今までは東京駅止まりでしたから、降りる人はいても、乗る人はほとんどいなかった! ところがずいぶんと様変わりでした。 

 品川から乗った二人連れのサラリーマン。ボックスシートに乗るや否や、ビール缶を出し、つまみも出して飲み始めました。斜めどうしに座っていて、窓側に座っている目の前をつまみが行きかうということに。

 便利になりましたか? 
 ええ、そりゃ20分も違いますから。 
 席を交代しましょう、上野で降りますから。
 すいません、有り難うございます。

 窓側の対面になったお二人はおいしそうに、また飲み始めました。
 

コメント    この記事についてブログを書く
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする
« 木原一里塚。江戸の古道。七... | トップ | 「宮之一色一里塚」跡。長森... »
最新の画像もっと見る

コメントを投稿

旧東海道」カテゴリの最新記事