道標。「寄居町約二里 秩父町約五里」。
「樋口村秩父分會第四班 青年團小坂支部」。
国指定史跡「野上下郷石塔婆」。
高さ約5㍍・幅約1㍍、厚さ13㌢のこの塔婆は現存する板石塔婆としては日本一の大きさである。・・・この塔婆は、当町大字小坂字城山に所在する「仲山城」の城主・阿仁和直家が落城の際討ち死にして、十三回忌の応安二年(一三六九)十月に、夫人の芳野御前(妙円尼)が追善供養のため建立されたものである。(「解説板」より)
西方の山を約1500m登ったところに石材を採集した「板石塔婆石材採掘遺跡」があります。ここの石材は「秩父青石(あおいし)」と呼ばれ、縄文時代から関東一帯で石皿・石斧や板碑(いたび)として使われてきました。(「ジオパーク秩父」HPより)
国道から右にそれたところに「寛保洪水位磨崖標」という標示があるので、立ち寄ってみます。
荒川河畔に見られる「結晶片岩」がこの辺りにも。
庭先に「大黒天講中」などの石塔。
長瀞第二小学校裏の山ぎわに「水」の文字が刻まれた岩(三波川結晶片岩)があります。
↓。だいぶ薄れてきています。
寛保2年(1742年)、関東各地に未曾有の災害をもたらした、大洪水の水位を史跡です。旧暦7月27日から豪雨が降り始め、4日間に荒川の水位は最高に達し、この付近一帯は、ことごとく水没しました。現在の暦に直すと、9月上旬から中旬にかけてのできごとです。後日、地元の四方田弥兵衛と滝上市右衛門によって「水」をいう字が刻まれました。当時の水位上昇が確認できる荒川洪水の貴重な記録です。
現在の荒川の川床から24mの高さにあたります。これは、当時、ここから2km下流の破久札の峡谷で、家や流木などでせき止められて、上流域では水位が60尺、メートル換算だと約19.8mにもなった、とのことです。(国道沿い、「長瀞第二小学校」校庭にはその水位が掲げられているようです。)
上空を見上げると、パラグライダーが。
手前が「長瀞第二小」校庭。
秩父鉄道「樋口」駅。
寄居駅方向。
案内板「ジオパーク秩父」。
石灰岩を載せた貨物列車が頻繁に通過。
こちらはガーデニングのお店。貨車が。
この付近から「荒川」は南に遡っていきます。上流から下流まで、東に北に南にと激しく水路を変化させる荒川です。
この先左手奥には「長瀞射撃場」が。
埼玉一の景勝地・長瀞で射撃技術の向上を目指そう
長瀞は、埼玉県の西部に位置し、都心から1時間半。名勝天然記念物の岩畳と渓谷美、それに四季の彩り豊かな山々に囲まれたすばらしい景勝地です。
(この項、「埼玉県長瀞射撃場」HPより)
「中野上」交差点を左折、秩父鉄道の踏切を越え、
「高砂橋」手前を右折し、「北桜通り」へ。
ところで、「高砂橋」は「おらく橋」という異名があるそうです。そのかかわりを「Wikipedia」より。
高砂橋が開通する以前は「袋の渡し」と呼ばれる(「根古屋の渡し」もしくは「いっけの渡し」とも呼ばれる)1923年(大正12年)に開設された私設の渡船場で対岸を結んでいた。渡船場は高砂橋のやや下流側にあり、運行は対岸町村と共同運営で、中野上地区(旧中野上村、後の野上村)と井戸地区(旧井戸村)でそれぞれ五軒が担当した他、荒川の増水時は船を陸揚げする作業なども行った。 この付近の荒川は流速が速く、川下に流されないようにするため両岸に太い針金を横に張り、その針金と船を綱で結び付け、針金を手で繰ることで対岸とを行き来するという繰船を運行していた。この渡船場は1932年(昭和7年)の橋の架橋により廃止されている。現在、県営白鳥団地付近に渡船場への道が現存している。なお、この場所は現在の荒川ライン下りの終着点でもある。
井戸地区は秩父鉄道が通る対岸の野上村とを結ぶ橋は無く、野上へ渡るには荒川沿いの断崖を通り谷底に降りて袋の渡し、または上流にある金石の渡し(現、金石水管橋)を利用する他なく不便であった。 磯部らく(1868-1938)は困っている人を見過ごすことができない義侠心の強い女性で、元白鳥村長の夫と共に、井戸地区で悠々自適な余生を送っていた。1928年(昭和3年)近隣の野上の市街地へ行くために、両岸が断崖の荒川で通行に取手間取り難儀している井戸の人々を見かねた磯部はその義侠心から、私財を投じて井戸と野上の間に架橋を行う決心をした。なお、これとは別に1929年(昭和4年)1月16日に白鳥村会において、村民より白鳥村議員に高砂架橋の請願書が提出されていた。
橋の架設は難航したが着工から4年後の1932年(昭和7年)2月に橋の竣工にこぎつけた。橋長100メートル、幅員2メートル、高さ30メートルの木造吊り橋である。橋桁は木造でケーブルは鉄索製である。橋は架橋者によって「高砂橋」と名付けられ、2月11日に開通式が挙行された。しかし、その日の夜、無理な資金調達が祟り、磯部は土地と家を差し押さえられ村を去ってしまった。その偉業に強く感銘を受けた村出身の議員やその地域の有力者は周辺町村を動かし、その経済的困窮な状況から救済することを決め、村民が総力を挙げて磯部を呼び戻した。白鳥村は橋の架設に掛かった工事費を磯部に支払い、橋を村道に編入して村によって管理することとなった。村の人々は磯部に感謝の気持ちを込めてこの橋を「おらく橋」と呼び親しまれた。 この初代の橋は村の経費で維持され[6]、多くの住民に利用され続けたが1938年(昭和13年)9月1日午前6時ごろに台風の集中豪雨により発生した大水害により流失した。このとき上流の親鼻橋で観測された水位は10.6メートルにも及んだ。なお、この年は奇しくも磯部が他界した年でもあった。現在、「昭和七年二月竣工」と刻まれた橋脚(橋台)が遺構として残っている。・・・
この付近の今昔。
1880年代のようす。橋はまだ無い。
2010年代のようす。荒川沿いに「北桜通り」。