坂上から振り返って宿内を望む。
旧家。
「市場杭跡」。
写真、図解入りの解説板が各所にあり、楽しませてくれます。地元の「鳩ヶ谷宿」への愛着、保存精神に感動!
「高札場跡」。
「三八市の市場杭跡」。
江戸時代中頃から、鳩ヶ谷宿では毎月3と8がつく日の月に6回の市が立ちました。
市の日には、近在から雑穀・土物・青物・飼葉・茶・藁灰などの出店が並び大変賑わう有名な市で、明治時代以降も出店が550軒以上も並ぶ盛況を極め、宿内に4本あった市場杭は、市の開催日毎に出店できる範囲を示していました。
昭和20年代から流通事情の変化から、徐々に姿を消しましたが、往時を偲ぶように、今も右前方に三八市の神を祀る市神社(いちがみしゃ)が鎮座しています。
「鳩ヶ谷宿」の街並み。
「←鳩ヶ谷宿 浦寺村→」境界線。
街道沿いに残る商家。
(10:39)道標。「右 古しがや道」。
「日光御成道・鳩ヶ谷宿」。
「越谷」への道。
1880年代のようす。 現在のようす。
街道は、関東ローム層(赤土)による台地上を進みます。
(10:49)「新井宿(西)」交差点。
この付近には園芸農家がたくさん。
(11:06)「東京外環自動車道」を歩道橋で越えます。
この付近の今昔。
1880年代のようす。 現在のようす。東京外環自動車道。
この先、道幅が狭く、商店や民家、さらに民家の垣根が道路にぴったり植えられています。そのためか、歩道はまったくありません。その道を幹線道路の抜け道になっているのでしょうか、たくさんの車(大型ダンプ含む)が歩行者・自転車すれすれに(それもかなりのスピードで)通り過ぎます。けっこう恐い歩きに。皆さんもお気をつけて。
沿道にはこういう雑木林なども残されています。
(11:36)車に神経を使って進むと、「一里塚ポケットパーク」が交差点右手の角に。ホッとします。
・・・この場所は「戸塚の一里塚」と呼ばれ、日本橋から6ヶ所目にあたり、道の東側に松、西側に榎が塚の上に植えられていました。また、この道は徳川将軍家が日光社参の際に利用したため、日光御成道と称されております。日光社参の行程は江戸城大手門から岩槻、古河、宇都宮を経て日光までの行程36里3町2間(約147.㎞)を片道3泊4日で、往復8泊9日をかけて実施されました。
来た道を振り返って望む。
(11:59)その先でJR武蔵野線を越えます。右手に「東川口駅」。
この付近からは、台地の縁を進んでいきます。右手が大きく開けてきます。今は、住宅などが建ち並び、景観は少し狭まりますが、かつては見晴らしのよい道筋だったと思われます。
「東川口駅」方向。
1880年代のようす。街道の東側は田畑が続く。 現在のようす。住宅地となっています。斜めの線が武蔵野線。
西側は台地上になっていて、現在も樹木栽培などの畑が多くあります。
街道は、次の「大門宿」に向かいます。
注:「日光御成道」記事中の、今昔のようす比較のための地図・写真は、
「歴史的農業閲覧システム」HP http://habs.dc.affrc.go.jp/
を引用させていただいています。
このHPは、明治初期から中期にかけて関東地方を対象に作成された「迅速測図」と、現在の道路、河川、土地利用図とを比較することにより、農村を取り巻く環境の歴史的な変化が閲覧できます。大変参考になります。
旧家。
「市場杭跡」。
写真、図解入りの解説板が各所にあり、楽しませてくれます。地元の「鳩ヶ谷宿」への愛着、保存精神に感動!
「高札場跡」。
「三八市の市場杭跡」。
江戸時代中頃から、鳩ヶ谷宿では毎月3と8がつく日の月に6回の市が立ちました。
市の日には、近在から雑穀・土物・青物・飼葉・茶・藁灰などの出店が並び大変賑わう有名な市で、明治時代以降も出店が550軒以上も並ぶ盛況を極め、宿内に4本あった市場杭は、市の開催日毎に出店できる範囲を示していました。
昭和20年代から流通事情の変化から、徐々に姿を消しましたが、往時を偲ぶように、今も右前方に三八市の神を祀る市神社(いちがみしゃ)が鎮座しています。
「鳩ヶ谷宿」の街並み。
「←鳩ヶ谷宿 浦寺村→」境界線。
街道沿いに残る商家。
(10:39)道標。「右 古しがや道」。
「日光御成道・鳩ヶ谷宿」。
「越谷」への道。
1880年代のようす。 現在のようす。
街道は、関東ローム層(赤土)による台地上を進みます。
(10:49)「新井宿(西)」交差点。
この付近には園芸農家がたくさん。
(11:06)「東京外環自動車道」を歩道橋で越えます。
この付近の今昔。
1880年代のようす。 現在のようす。東京外環自動車道。
この先、道幅が狭く、商店や民家、さらに民家の垣根が道路にぴったり植えられています。そのためか、歩道はまったくありません。その道を幹線道路の抜け道になっているのでしょうか、たくさんの車(大型ダンプ含む)が歩行者・自転車すれすれに(それもかなりのスピードで)通り過ぎます。けっこう恐い歩きに。皆さんもお気をつけて。
沿道にはこういう雑木林なども残されています。
(11:36)車に神経を使って進むと、「一里塚ポケットパーク」が交差点右手の角に。ホッとします。
・・・この場所は「戸塚の一里塚」と呼ばれ、日本橋から6ヶ所目にあたり、道の東側に松、西側に榎が塚の上に植えられていました。また、この道は徳川将軍家が日光社参の際に利用したため、日光御成道と称されております。日光社参の行程は江戸城大手門から岩槻、古河、宇都宮を経て日光までの行程36里3町2間(約147.㎞)を片道3泊4日で、往復8泊9日をかけて実施されました。
来た道を振り返って望む。
(11:59)その先でJR武蔵野線を越えます。右手に「東川口駅」。
この付近からは、台地の縁を進んでいきます。右手が大きく開けてきます。今は、住宅などが建ち並び、景観は少し狭まりますが、かつては見晴らしのよい道筋だったと思われます。
「東川口駅」方向。
1880年代のようす。街道の東側は田畑が続く。 現在のようす。住宅地となっています。斜めの線が武蔵野線。
西側は台地上になっていて、現在も樹木栽培などの畑が多くあります。
街道は、次の「大門宿」に向かいます。
注:「日光御成道」記事中の、今昔のようす比較のための地図・写真は、
「歴史的農業閲覧システム」HP http://habs.dc.affrc.go.jp/
を引用させていただいています。
このHPは、明治初期から中期にかけて関東地方を対象に作成された「迅速測図」と、現在の道路、河川、土地利用図とを比較することにより、農村を取り巻く環境の歴史的な変化が閲覧できます。大変参考になります。