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おやじのつぶやき

おやじの日々の暮らしぶりや世の中の見聞きしたことへの思い

吾妻(あがつま)線。その1。青春18きっぷ。吾妻線とは? 高崎駅~渋川駅。

2024-09-08 17:40:59 | ローカル鉄道の旅

知人から2回未使用の「青春18きっぷ」を譲り受けました。使用期間が今月10日まで、ということで、さっそく利用します。

         

乗った路線は、「吾妻(あがつま)線」。

吾妻線

群馬県渋川市渋川駅から同県吾妻郡嬬恋村大前駅を結ぶ、東日本旅客鉄道(JR東日本)の鉄道路線地方交通線)である群馬県北西部にあり、利根川支流の吾妻川により形成された吾妻谷を渋川から西進する路線。

沿線には草津温泉四万温泉沢渡温泉万座温泉鹿沢温泉川原湯温泉尻焼温泉小野上温泉など、温泉が多く存在し、東京上野駅)から直通の特急が運行されている。また普通列車も全て上越線経由で新前橋駅または高崎駅から直通している。

     

 中央が終着駅「大前駅」、右上が「八ッ場ダム」。        (「歴史的農業環境閲覧システム」より)

JR吾妻線は、1945(昭和20)年1月に国有鉄道長野原線(渋川駅~長野原駅)として開通しました。開通当時は、六合村元山の鉱山から、軍需用の鉄鉱石を輸送することが目的の、貨物専用線でした。第二次世界大戦に間に合うようにと、突貫工事で建設を進めたと言われています。
 その後、1945(昭和20)年8月に、渋川駅~中之条駅で旅客営業を開始し、次第に旅客区間を伸ばし、1954(昭和29)年10月には、渋川駅~太子駅が旅客営業となりました。
 1960(昭和35)年には、準急草津号(上野駅~長野原駅)の運転が始まり、1962(昭和37)年にはディーゼル化、1967(昭和42)年7月には電化されました。1971(昭和46)年3月には長野原駅~大前駅を開業し、吾妻線と改称されました。しかし、1971(昭和46)年5月には長野原駅~太子駅が廃止されました。
 2014(平成26)年に、八ッ場ダム建設に伴う線路付替えにより川原湯温泉駅が新駅に移転。新駅の前後が新線に切り替えられました。

(この項「」HPより)

9月6日(金)。快晴。

6時過ぎに自宅を出て、上野からJRに乗車。6時40分発普通「高崎」行き。高崎で乗り換えて「吾妻線」の終点「大前」に着いたのが、10:40。折り返しの電車に乗り、「川原湯温泉駅」で下車。そこから歩いて「八ッ場ダム」へ。

「川原湯温泉駅」13:26発の電車に乗り、途中、新前橋駅で小休止。「上野」に戻ったのが午後5時過ぎ。

慌ただしい行程でしたが、充実した一日でした。

車内のようす。皆さんどこまで乗るのでしょうか?

高崎駅を出発します。

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八高線(高崎~八王子)。その8。箱根ヶ崎駅~八王子駅。

2024-09-04 20:17:51 | ローカル鉄道の旅

「箱根ヶ崎駅」から「横田基地」の脇を抜けるように進みます。かつて基地の北端に唯一のトンネルがありましたが、撤去され、八高線には一つもトンネルがなくなりました。

(現在)(1970年代)

※横田基地に離着陸する米軍機によって落下した部品から線路を守る事を目的に造られたようです。

「日光千人同心街道」歩きの時、八王子から「東福生駅」を経由、基地の脇を通り、「箱根ヶ崎駅」に向かいました。

「拝島駅」。

                      向こうは西武線ホーム(拝島線の終点)。

JR東日本の各線(青梅線五日市線八高線の3路線)と、西武鉄道の拝島線の2社4路線が乗り入れている。JR線と西武線の連絡改札は設置されておらず、乗り換えにはそれぞれの改札を通過する必要がある。

「青梅線」。※青梅街道歩きの時に利用しました。

「五日市線」。「五日市街道」で利用しました。

「西武拝島線」。

JR東日本の駅に乗り入れている路線のうち青梅線を所属線としている。五日市線は当駅が起点で、一部列車は青梅線・立川駅方面へ乗り入れている。また西武拝島線は当駅が終点であり、「SS36」が付与されている

南口が昭島市、北口が福生市に面している。コンコースに設置されているステンドグラス(原画制作・監修 ルイ・フランセン)は「多摩川の清流=豊かで清らかな水の流れ」を共通テーマとしつつ、南口側が「アキシマクジラ」、北口側が「七夕まつり」などをモチーフとしている

               

               

             

「多摩川」。

多摩川

山梨県東京都神奈川県を流れて東京湾へ注ぐ一級河川。下流は東京都神奈川県の都県境となっており、全長138km流域面積1,240km2

万葉集』所載の東歌に「多麻河」が登場する。835年に朝廷が発した官符では、丸子の渡し近傍をもって「武蔵国石瀬河」と呼称されている。上流の「丹波川(たばがわ)」との近似はよく言われることである。江戸時代には同音の字を使って玉川(たまがわ)の名が使われることが多かった。そのため、現代でも玉川の名は、玉川上水二子玉川駅といった施設名や地名などに多く残る。

名称の由来

  • 最も有力であるのは山梨県丹波山地域から起こったという説である。そこから上流の川の名である「丹波川」(たばがわ)が生まれ、人が上流部から中流部へ移動することと伴い、転訛して「たまがわ」となった。「タバ」とはアルタイ語族祖語で「」を指す言葉で、多摩川の場合は丹波山峠を指すと言われる。また、中流部の人が「タバ」から流れてきたこの川を「タバ川」と呼ぶ可能性もあると見られる
  • 「タマ」とは「霊魂」のことで、つまり多摩川は「霊力をもつ川」「神聖なる川」である。武蔵国総社である大國魂神社の近くを流れ、のための聖水を提供していたことから名付けられたと言われる水神が取り憑く神聖な川から来た説もある。また、昔にこの地に定住していた部族が国魂神を信仰していたため、神聖な地として「霊の郡」(たまのこおり)、神聖な川として「霊の川」と呼ぶようになったという説もある
  • 「タマ」とは「玉石・美しいもの・優れているもの」を指す言葉で、この川の流れが「玉のように美しくきれい」であることから、「玉川」と名付けられた
  • 「タマ」とは「渟り」(たまり)から一部が脱落した言葉である。水の欠乏に悩んだ古代人は多摩川の大きさに驚いて、「溜まれる水」と賛嘆したことに由来する
  • 「タマ」とは「田間」、つまり「水田が広がっている所」のことで、「埼玉郡」「児玉郡」と同源である。ただし、この説では「多摩郡」の名前が先で、そこを流れる川として「多摩川」の名前が出たと見られる

※万葉集中の歌 多摩川に さらす手作り さらさらに 何そこの児の ここだかなしき 《東歌》

多摩川の水にさらして作る麻の布のように、さらさらに(ますます)あの子が愛しく思えるのはなぜなんだろう。

「小宮駅」。

かつてはJR貨物の駅でもあったが、1997年3月に貨物列車の設定が廃止された。駅に隣接して秩父セメント(現・太平洋セメント)のセメント包装所があり、施設への専用線もあった。そのため秩父鉄道から寄居経由で当駅までセメント輸送が行われていた。

                

           

「北八王子駅」。

2023年度(令和5年度)の1日平均乗車人員6,960人。他の路線への乗り換えがない「八高線」単独駅では最も多い。

「秋川」。                     

東京都西多摩郡檜原村の西端、山梨県との県境にある三頭山の山腹にある都民の森のブナの路(登山道)沿いを流れる三頭沢が源流である。少し下流には三頭大滝があり、周囲は整備されている。檜原街道に沿って蛇行しながら東へ流れ「数馬」集落を抜け、「笹平」地区で北に流れを変え檜原村本宿で北秋川を合わせる。あきる野市を東へ流れ、あきる野市、八王子市福生市昭島市の4市の境界付近で多摩川に合流する。

上流から、あきる野市の山田大橋までは渓谷を刻んでいて、キャンプ場などの施設が多い。下流の五日市の街辺りには比較的広い河原があり、田園が広がる箇所もある。山田大橋より下流は、川沿いに道が整備されている。

「八王子駅」に近づきます。

「八王子~川越」。

川越行きの折り返し電車。

「上野~高崎~八王子」とJR高崎線・八高線をぐるっと回った列車旅もここから中央線で帰途につきます。

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八高線(高崎~八王子)。その7。東飯能駅~箱根ヶ崎駅。

2024-09-03 20:20:22 | ローカル鉄道の旅

東飯能駅付近の地図(現在)。

                                西に大きくカーブしていくのが「西武秩父線」。

※西武線が直接、東飯能駅に向かう短絡線の用地がそのまま残されています。そのわけは?

・・・西武秩父線に対して短絡線の計画は、なかなか進みませんでした。東京のベッドタウンとして発展し続けていた飯能市の市街中心部を通るルートだったため、全長わずか500mほどの距離ながら、用地買収交渉や都市計画との調整などで時間がかかったためといえます。それでも1980年代の後半には用地買収がほぼ完了し、複線の線路を敷くことができる建設用地が確保されました。

赤い線の部分。

 しかし、そのあいだにセメント輸送がトラックなどに移ったこともあり、貨物列車の輸送量が減少。1996(平成8)年には貨物列車の運転が終了してしまいます。短絡線のメリットを最大限に生かせる列車がなくなったこともあり、西武は短絡線の計画を休止。せっかく確保した建設用地は数十年にわたり放置された状態になっています。

(この項「」HPより)

八高線は南下します。

              高架線になっていきます。                   

「入間川」。

入間川(いるまがわ)

埼玉県を流れる荒川水系一級河川である。上流部は名栗川(なぐりがわ)とも呼ばれる。荒川の支流としては最長である。川越市古谷付近で荒川に合流する。江戸時代の頃は、舟運が江戸の市中まで通じた。

古代の入間川は単独で東京湾へ注いでいた(最下流は隅田川)。荒川は入間川とは合流していなかったが江戸時代1629年に荒川の付替えが行われ、熊谷市久下から現在の荒川合流点まで開削し、現在の流れが形作られた。

また、さらに古くは現在の入間川が荒川に合流するあたりから下流の旧入間川は現在の流路より北部を蛇行して流れていた。今より浦和市街に近い位置で、大宮台地を避けるように蛇行していた。流路はいくつかの河川や排水路として現在も面影をとどめている。

(この項、「Wikipedia」より)                

「県道195号線」。  

           

「金子駅」。 

都県境歩きの時、東京都青梅市と埼玉県入間市との都県境がこの駅の西方にありました。その先は、丘陵地帯から山に入っていきます。

葛飾区と三郷市の境に当たる「水元公園」から延々歩き続けた都県境(北西編)。ここを一区切りとし、「金子駅」から帰路につきました。

・・・

                左側。    

茶畑が広がります。

都県境が茶畑の間を抜けています。(都県境歩きのときの記録)

入間市側の茶畑。

青梅市側の茶畑。

・・・

「箱根ヶ崎駅」。

この駅は、「日光千人同心街道(日光街道)」歩きのときに利用しました。

「旧日光街道」交差点。  

箱根ケ崎
 語源は、古語で「ハコ」は神の棲む、「ネ」は山を意味するという説があります。
 この地区にある狭山池は、中世までは今よりもずっと広大で、面積は10町(10万平方メートル)以上もあったといわれ、狭山丘陵の西端に位置することから、後世鎌倉街道と呼ばれるようになった古街道が通っていました。箱根ケ崎の名称が古文献に現れるのは、戦国時代後期の天文年に北条氏照が発したに「筥根賀崎」と書かれています。
 しかし、江戸時代前期の古地図には箱根ケ崎の地名はなく、絵図上の当該地点には村山村と記されています。
 そのため、中世まで当地は中世郷村としての多摩郡村山郷の一部だったと思われます。
 慶安5年(1652年)に八王子千人同心の日光勤番が始まると、同心達が日光へ往来するための勤番経路として日光街道が整備され、その沿線上に位置した箱根ケ崎村は、幕府より人馬の継立てを命じられ日光街道の旅人の往来が活発となり、箱根宿として発展しました。
 このため、村山村の現箱根ケ崎地区に人口が増加し、寛文8年(1668年)の検地をもって村山村から分村したようです。
(以上、「」HPより)

「青梅街道」歩きの時の記録。

JR八高線の踏切に近づきます。

             「金子駅」方向。

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八高線(高崎~八王子)。その6。高麗川(こまがわ)駅~東飯能駅。附「高麗郡」について。

2024-09-02 19:50:25 | ローカル鉄道の旅

高麗川駅に近づきます。

                         住宅と田畑と。

          

緩やかな丘陵地帯。豊かな緑の中に住宅が。

畑が広がっています。

「高麗川駅」に到着。隣のホームから「八王子行き」。スムーズに乗り換え。

当駅の所属線である八高線と、当駅を終点とする川越線の分岐駅となっている。

八高線は当駅を境に八王子方面が電化高崎方面が非電化となっており、運転系統が分断されている。また、川越線も電化されており、川越線の川越方面と八高線の八王子方面で当駅を経由して直通運転が行われている。また八高線には、かつて当駅から青梅線を経由して中央線直通で東京駅との間を結ぶ電車も設定されていた。

八高線は八王子駅から当駅までが八王子支社、当駅から北の区間が高崎支社、川越線は大宮支社の管轄となっており、当駅は八王子支社の管轄となる。

※川越線 

埼玉県の県庁所在地であるさいたま市から西へ向かい、川越市を経由して日高市の高麗川駅までを結ぶ路線であるが、早朝時間帯の南古谷駅始発の下り列車を除き、川越駅を境に東西に運転系統が分断されている。川越駅以東(大宮駅 - 川越駅)の区間では、埼京線を介した東京臨海高速鉄道りんかい線新木場駅までの直通運転と、相鉄線直通列車として埼京線および相鉄新横浜線を介した相模鉄道本線海老名駅までの直通運転が行われ、車内に掲示してある路線図には、「埼京線・川越線」との表示がなされている。川越駅以西(川越駅 - 高麗川駅)の区間では、八高線八王子駅までの直通運転が行われており、車内に掲示してある路線図には、「川越線・八高線」との表示がなされている。

※写真を撮り忘れました! その穴埋めに、

日高市とJR東日本は、八高線・川越線高麗川駅に東西自由通路を設置し新たに駅舎を整備することを決めた。これまで迂回(うかい)が必要とされてきた原宿や鹿山など駅東側の地区と、西口に位置する高麗川などの地区との往来の時間が短縮され、東口からの駅の利用も可能になる。2023年3月ごろに着工し、26年3月末の完成を目指す。1933年に運用が始まった現行の駅舎は解体される。

(この項「埼玉新聞」HPより)

※「高麗(こま)川」について

ふるさと『日高市』の歴史を知ろう!

(イラスト)高麗郡1300年の巻わたしたちが案内するよ!

今から、およそ1300年前、現在の日高市を中心に「高麗郡」ができました。

どのようにして「高麗郡」ができたの?

高麗郡は「高句麗」という国から日本に渡って来た人たち(「高麗人」と呼ばれる渡来人)によってつくられました。

高句麗から日本に渡る船と地図のイラスト

 高句麗は、中国の東北部から朝鮮半島にかけて約700年間(紀元前37年頃から668年(天智7年))栄えた大きな国でした。
 その高句麗は、唐(今の中国)や新羅と戦っていましたが、戦いにやぶれ、668年(天智7年)にほろんでしまいました。
 国がなくなってしまったため、高句麗から海を渡って日本に来る人たちが多くいました。その人たちを日本では「高麗人」と呼びました。

  • 高句麗・新羅・百済などから来た人たちを「渡来人」と言います。
  • その当時、日本は倭(わ)とよばれていました。

高麗人のイラスト渡来人のイラスト

 

716年(霊亀2年)(今から1300年前)に、関東各地(当時の7カ国)に住んでいた「高麗人」1,799人が武蔵国に集められ、「高麗郡」ができました。

1300年前の武蔵国周辺の地図のイラスト

 「高麗郡」ができたことは、昔の歴史書である『続日本紀(しょくにほんき)』に書かれています。
 高麗人たちの渡来人は、大陸の進んだ技術や文化を伝えました。

続日本紀や農具などのイラスト

 

その時、どんな人が中心になっていたの?

高麗郡をつくった時のリーダーが「高麗王若光(こまのこきしじゃっこう)」という人で、日高市にはゆかりの建物があります。

日高市の高麗王若光(こまのこきしじゃっこう)ゆかりの建物と地図のイラスト

 若光は、666年(天智5年)高句麗よりのつかい(戦いの援軍をお願いするため)として、日本へやってきました。
 しかし、668年(天智7年)高句麗がほろび、帰れなくなってしまいました。
 703年(大宝3年)、日本の朝廷より「高麗王」の姓を与えらえました。その時から「高麗王若光」と名のることになりました。
 

歳をとって、白ひげをはやしていたので「白ひげ様」ともいわれたとの伝説も残っています。若光と、歳をとった「白ひげ様」のイラスト

約1200年間続いた高麗郡は、1896年(明治29年)入間郡に組み入れられて、その名が消えました。

高麗郡の範囲に色が付いた地図のイラスト

 その時の高麗郡の範囲は、日高市と鶴ヶ島市の全域、それに飯能市や川越市、狭山市、入間市の一部まで入っていました。

 市内には、高麗郡がつくられた時に建てられた古い寺跡が3か所あります。
 そこからはお寺の屋根につかわれた瓦が多く発見されています。
 また、当時の役人が使っていたさまざまな品物が武蔵高萩駅周辺から見つかっています。

太古から近世まで、人々の営みが脈々と息づいてきた日高。

その歴史の足跡をしのび、のんびりと一日探訪してみませんか。

高麗家住宅
高麗家住宅の写真1
高麗神社の裏手にあり代々宮司を務めた高麗家の住宅。かやぶきの入母屋造りの住宅として県下で最も古いものとされており、国指定重要文化財に指定されています。

高麗郷古民家(旧新井家住宅)

高麗郷古民家(旧新井家住宅)の写真1
敷地内には、江戸時代末から明治時代前半に建てられた母屋と客殿を中心に納屋と2棟の土蔵があり、通りに面した箇所には人目を引く石垣や白壁が築かれ、高麗郷の美しい景観を創り出しています。

高麗石器時代住居跡

高麗石器時代住居跡の写真
約4500年前の縄文時代中期のもの。円形で直径6メートル。多数の出土、装飾品、石皿などが出土。柱を立てた穴もあります。

詳細は歴史・文化財のページをご覧ください。

(この項「」HPより)

川越線・川越駅から来た八王子行きの電車に乗ります。

「高麗川駅」を出てしばらく行くと、線路沿いに「八高線事故慰霊碑」があります。

(「Googleマップ」より)

1947年(昭和22年)㋁25日午前8時前。買い出しのために定員の3倍以上を乗せた列車が転覆事故を起こし、死者184名、重軽傷者570名という大惨事を招きました。その慰霊碑。

※八高線では、1945年8月24日にも、多摩川橋梁上で105名の死者が出る大事故を起こしている。

・・・

                 

           

「東飯能駅」。

                右手のホームが西武線。

東飯能駅(ひがしはんのうえき)は、埼玉県飯能市東町(あずまちょう)にある、東日本旅客鉄道(JR東日本)・西武鉄道の駅である。

この駅では西武池袋線・秩父線と乗り換えができます。

西部池袋線。

西武秩父線。

※西武線は一つ手前の「飯能駅」でスイッチバックとなり、西武秩父駅まで行くには、これまでと進行方向が反対になる。特急で西武秩父に向かう場合は、要注意。

スイッチバックの駅として、東京近郊では、他には東武野田線 柏駅/小田急江ノ島線 藤沢駅/箱根登山鉄道線 出山信号場・大平台駅・上大平台信号場/富士山麓電気鉄道大月線・河口湖線 富士山駅などがあります。

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八高線(高崎~八王子)。その5。小川町駅~毛呂駅。(附)武者小路実篤「新しき村」。

2024-08-31 15:36:01 | ローカル鉄道の旅

しだいに雨も上がり、青空が広がってきます。

            

住宅が増えてきます。 

「明覚(みょうかく)駅」。 

埼玉県比企郡ときがわ町大字番匠(ばんしょう)にある、東日本旅客鉄道(JR東日本)八高線である

ときがわ(都幾川)町にある唯一の鉄道駅で関東の駅百選にも認定されている。

※当時の村名が「明覚村」であったことにちなむとする説と、当時「妙覚寺」というお寺があり、それが「明覚」に転訛したという説がある。

            駅舎。(この項「Wikipedia」より)

        田んぼが広がる。

        

住宅が建ち並ぶ。

越生(おごせ)駅で東武線と接続します。

越生駅・東武線ホーム。

東部越生線。坂戸で東武東上線と接続する。

             

武州入間郡越生郷、越辺(おっぺ)川の渓口集落として発展し、相州より上州に通ずる街路にあたり、その中枢の宿場町として栄えました。昭和30年に梅園村と合併し、越生梅林、黒山三滝等の景勝の地があり、太田道潅(どうかん)で有名な山吹の里にも近く、観光客で賑(にぎ)わっています。駅名は町名より命名されました。

※越生梅林は、埼玉県入間郡越生町の越辺川沿いに広がる梅林です。南北朝時代太宰府から武蔵国小杉村へ天満宮を分祀する際に梅を植えたのが、その起源と言われています。その後、越辺川左岸が梅の生育に適していたことから梅を多く植え、その実で梅干しを作るなどしたことから、梅の里として知られるようになりました。

        

現在の越生梅林は梅園神社向かいの越辺川岸に位置し、約2haもの広大な面積を有する梅園として整備されています。水戸偕楽園、熱海梅園と共に「関東三大梅林」の一つに数えられ、「白加賀」「越生野梅」「紅梅」など様々な品種の梅の木が約1000本植えられています。中には650年以上も前に植えられたという古木もあるとか。春先には辺り一帯に梅の花の香りが漂い、いち早く春の訪れを感じられるスポットとして人気を集めています。 川に面した東側の梅林から河原に降りることもでき、見上げるように眺める梅林の風景もまた風情があり見事。天気の良い日は梅の花を眺めながらお弁当を食べる観光客の姿もよく見かけます。

(「」HPより)

越生は難読地名の代表格です。 その語源については諸説がありますが、平野と山地の接点にあたる越生からは、秩父に向かうにも、上州に向かうにも尾根や峠を越えなければなりません。 それに由来した『尾根越し(おねごし)』の『尾越し(おごし)』という言葉から変化したという説が有力視されています。

(この項、「」HPより)

東武線から離れていきます。

「毛呂(もろ)駅」。

埼玉県入間郡毛呂山町大字岩井にある駅。八高線の当駅以北は高崎支社管轄であり、隣駅の高麗川駅以南は八王子支社管轄となる。

※毛呂山町

秩父山地関東平野が接する八王子構造線にまたがり、西部の緩やかな山地は標高約300 - 400mで、外秩父山地の東縁部にあたり、秩父古生層が広く分布している。一部が県立黒山自然公園に指定されており、農業用灌漑貯水池である鎌北湖はその中心となる湖である。この湖から飯能市天覧山まで奥武蔵自然歩道が伸び、ユズをはじめとする果樹園や畑が多く自然環境に恵まれていることから、観光客がハイキングなどに訪れている。

南部の丘陵地帯には武者小路実篤が理想社会を目指して創設した「新しき村」があり、1939年宮崎県から移住して以来、現在も農業を基盤とした共同生活を続けている。

中央部から東部にかけては越辺川(おっぺがわ)と高麗川に挟まれた標高約60m前後の平地で、表面は関東ローム層に覆われている。

町内を走る東武越生線は坂戸駅で東武東上線に接続し、沿線は東京都内の通勤圏に入ることから町内には住宅団地が多い。武州長瀬駅近辺に1959年(昭和34年)に武蔵野霊園が開園したのと合わせて日生団地と長瀬団地といった郊外住宅団地が造成されたのがはじまりで、両団地の成功と都市化はさらなる住宅団地造成と、他デベロッパーによる同駅周辺の住宅団地の造成を呼び込み、かつては森林で占められていた武州長瀬駅近辺は町の全世帯数の35%(1972年当時)を占める町内の一大住宅団地エリアを形成するに至った。近年においても、1997年(平成9年)からガーデンシティ目白台の開発が行われている。

また、首都圏からのアクセスも良く地形が適当であったことからゴルフ場も多く開発されている。

・・・

※「新しき村」

武者小路実篤の理想郷の100年後 「新しき村」が挑む再生への道 永沼仁

「白樺派」

※主な同人に、作家では志賀直哉有島武郎木下利玄里見弴長與善郎の他、美術家では柳宗悦有島生馬、美術史家の児島喜久雄らがいる。武者小路はその明るい性格と意志の強さから思想的な中心人物となったと考えられている。多くは学習院出身の上流階級に属する作家たちで、幼い頃からの知人も多く、互いに影響を与えあっていた。

の作家、武者小路実篤(1885~1976)が開いた理想郷「新しき村」が大きな転機を迎えている。100年を超え存続してきたものの、本拠地の「村民」は減り続け、今や3人だけ。再生に向け、新たな挑戦が始まった。

 埼玉県毛呂山町の丘陵地。茶畑が広がるのどかな景色を見ながら村に入ると、2本の柱が目に入る。

 「この門に入るものは自己と他人の 生命を尊重しなければならない」

 「自他共生」などを説き、理想の社会をめざした実篤の考えの一端が伝わってくる。

 村では現在、40~70代の男性3人がそれぞれ別棟で暮らし、協力しながら無農薬で米や茶を栽培している。

1918年にスタート

 始まりは、大正時代にさかのぼる。ロシア革命の翌年、第1次世界大戦が終わった1918年。国内では、米騒動スペイン風邪が流行していた。

 そんな不安定な時代に、実篤は、仲間と宮崎県の山間地を開拓した。一定の労働をすれば衣食住が平等に保証され、自由に余暇を過ごせる「人間らしい生活」のできる場をめざした。

 しかし、ダム建設で主な農地が水に沈むことになり、39年に現在の場所に本拠地を移した。

※宮崎においても、ダム完成後、別の地に移って存続している。

 当初、村外からの経済支援が欠かせなかった。だが、戦後に始めた養鶏事業が成功した。58年には、村の事業だけで自分たちの生活費をまかなえるようになったという。60、70年代には若者の入村や出産が相次ぎ、幼稚園もつくった。村の人口は、最盛期で60人を超えた。

 しかし、その後は高齢化と村民の減少が進む。卵価の低迷などによる収入減が大きな理由だった。

 財政を安定させようと始めた太陽光発電が、窮状に拍車をかけた。2010年に導入したものの、固定価格買い取り制度が終わり、売電価格が大幅に下落したからだ。

 村の先行きが見通せなくなり、一部では「解散」もささやかれた。100周年を迎えた18年に8人いた村民のうち、70、80代の5人が昨年春、去っていった。

 村を運営する一般財団法人の理事長を務めていた寺島洋さん(81)も、その1人だ。村内で結婚し、約60年暮らした。愛着は強いが、村の立て直しを主導することに限界を感じた。

 自分が村から離れれば、少しでも経費が減らせる。「新たな人たちにバトンタッチする時期だと思い、決断しました」という。

再生のバトンを渡されたのは

 施設の老朽化は目立つ。村内にある、実篤の遺品を展示する美術館を訪れる人はまばらだ。従来のやり方では村の維持は難しい。

 村の再生を託されたのは「武者小路」だった。・・・

※武者小路実篤の孫にあたる武者小路知行さん。 知行さんは現在、調布市武者小路実篤記念館の理事長を務めている。

武者小路知行が理事長に就任しました. 令和4年5月27日. 埼玉県に対し、当法人を公益法人とするための公益認定の申請をしました。 (「新しき村」HPより)

・・・

大正年間、新しき村について、理想主義は夢想主義に終わる(山川均)、経済的には資本主義の圧迫を受けて失敗する(河上肇)と、酷評されていた。しかしながら、実篤が「自己を生かし、他人も生かす生活」の理想を貫いた新しき村は、現代の経済第一主義のなかでもなお生き続けているように思えます。

・・・

次の駅が八王子駅に向かう電車との乗換駅・「高麗川駅」。

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八高線(高崎~八王子)。その4。寄居駅~小川町駅。

2024-08-30 21:03:28 | ローカル鉄道の旅

「寄居駅」付近の今昔。

                                (現在)。「荒川」・景勝地「玉淀」。

                           (1880年代)。

寄居駅の南、「秩父往還」沿いに集落(寄居宿)。 

「荒川」を鉄橋で渡りますが、撮れませんでした。

3年前、「荒川」を遡上したときに「寄居駅」(秩父鉄道)で下車し、そこから荒川沿いを歩きました。その時の記録。

・・・

2021年4月24日(土)。晴れ。秩父鉄道・寄居駅南口から東武東上線・玉淀駅へ向かい、そこから「荒川」へ。

宮沢賢治歌碑。

        毛虫焼くまひるの火立つこれやこの秩父寄居のましろきそらに

        つくづくと『粋なもやうの博多帯』荒川ぎしの片岩のいろ

正喜橋」。

佐々紅華作曲の「寄居小唄」の歌曲碑。

寄居小唄    金子虹作詞 佐々紅華作曲

色はうす紅 玉淀さくら 霞む日ごとの 水かがみ
まわる日傘に ほろほろと さても愛しい 花が散る

よりい良いとこ 秩父の山が 雪のけはいの 品のよさ
娘まけるな 紅つけて シャンとすませよ ミスよりい

城は鉢形 御城下町に 昔 ならした 意地もある
思いきるまい 心なら せめて二度咲け 山つつじ

埼玉県立自然公園 玉淀」碑。

「玉淀」の名称は昭和6年4月29日に命名され、玉は埼玉の玉で美しいの意味であり、淀は水のよどんだところという意味があります。すなわち埼玉県にある美しい玉のような淀んだ地という意味で、昭和10年に県指定名勝として文化財指定を受けています。

      対岸は、「鉢形城」址。

「八高線」踏切。

「八高線・荒川橋梁」が左手奥に。

・・・さて、今回。

しばらく荒川の右岸沿い、「鉢形城」跡付近を通過し、南下します。

雨脚も強くなったり弱くなったりする中、

      丘陵地帯を進む。

「折原駅」。

駅舎はなく、簡易な待合室があるのみで、乗車駅証明書発行機が設置されている。入口付近に簡易Suica改札機がある。                         

      ・・・

森の中を進んでいきます。  

  

「竹沢駅」。撤去された線路。

※以前は相対式ホーム2面2線を有し、両ホームは跨線橋で連絡していたが、2016年10月15日に上下線ホームが片側一つになった。 

JR東日本によると、1日平均乗車人員は31人で、乗車人員を把握出来る埼玉県内の駅の中では最も少ない。これは、周辺住民の多くが東武東上線東武竹沢駅を利用していることが大きな要因となっている(東上線運行本数は八高線と比べて遥かに多く、現状では利便性に格段の開きがある。     

「小川町駅」に近づきます。  

「小川町駅」。

再び「東武東上線」との乗換駅になります。

秩父山系の山々は京都の東山や北山を思わせ、中央の槻川は加茂川、比叡山には都幾山が対比され、全国に「小京都」と云われるところは多いが、この町ほど町の輪郭や寺社から名所まで、よく似ている町はないと云われています。駅名は古くからの町名をとり、命名されたものと思われます。

(この項「」HPより) 

・・・ 

昭和30年2月11日、比企郡小川町、大河村、竹沢村、八和田村の1町3か村を合併し、昭和31年1月1日、寄居町大字西古里と鷹巣の各一部を編入して、現在の小川町が誕生しました。当町は、埼玉県の中央部よりやや西に位置し、面積は60.36平方キロメートルです。
周囲を緑豊かな外秩父の山々に囲まれ、市街地の中央に槻川が流れる小川町は、歴史を誇る小川和紙や小川絹をはじめ、建具、酒造などの伝統産業で古くから栄えた町です。また、歴史を秘めて佇む史跡や往時の面影を留める町並みなど、その風情から、いつしか「武蔵の小京都」と呼ばれるようになりました。

小川町和紙体験学習センター 

                  

この項、「」HPより) 

廃線跡。気動車の「気」。左手は、「県立小川高校」。

小川町の町並み。   

   山並みがしばらく続く。 

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八高線(高崎~八王子)。その3。児玉駅~寄居駅。

2024-08-28 18:30:09 | ローカル鉄道の旅

「児玉駅」。

               

埼玉県本庄市児玉町児玉にある駅。1931年昭和6年)7月1日鉄道省八高北線(現・八高線)児玉駅 - 倉賀野駅間開通時に終着駅として開設。児玉出身の、

盲目の国学者 塙保己一 

塙保己一は、江戸時代の中頃の延享3年(1746年)に武蔵国児玉郡保木野村(現在の本庄市児玉町保木野)に生まれました。
7歳の時に病気のために失明し、15歳になって江戸に出て当道座(盲人の組織)に入り、検校雨富須賀一に弟子入りしました。保己一は当道座での修業を積み苦労を重ねて立身し、晩年には当道座の最高位である総検校に昇進しました。
 保己一は国学者としても著名であり、「群書類従」や「続群書類従」の編さん、さらには和学講談所の設立及び運営、当道座の改革など多大な功績を残しています。中でも群書類従の編さんは41年を費やした大事業であり、正編666冊、続編1185冊は、現在、日本の文学・歴史等を研究する上で欠くことのできない重要な資料となっています。

保己一の生まれた保木野地区には生家(国指定史跡)と墓があり、アスピアこだま内には保己一の遺品や関係資料(埼玉県指定文化財)を展示する塙保己一記念館があります。(この項「本庄市」HPより)

群書類従』(ぐんしょるいじゅう)国学国史を主とする一大叢書

塙保己一が古書の散逸を危惧し、1779年安永8年)、菅原道真を祀る北野天満宮に刊行を誓った。江戸幕府や諸大名・寺社公家などの協力を得て、収集・編纂した。古代から江戸時代初期までに成った史書や文学作品、計1273種を収めている。寛政5年(1793年) - 文政2年(1819年)に木版で刊行された。歴史学国学国文学等の学術的な研究に多大な貢献をしている。

右手に奥武蔵の山々が見え始めます。

左手は田園地帯。

一転にわかにかき曇り、大粒の雨が降り始めました。

      

「用土駅」。

おしゃれな駅舎のようです。(「Wikipedia」より)

『新編武蔵風土記稿』の用土村の項に「村内に鎌倉古道あり、小前田村の方より入り、児玉郡八幡山町へ通ず」とある。

この付近の今昔。

                               (現在)「宿」という地名が残されている。

                               (1880年代)顕著な道が通る。旧道か?

左手から秩父鉄道が迫ってきます。

  

「寄居駅」に近づきます。

「東武東上線」ホームが左奥に。

「寄居駅」。

秩父鉄道の秩父本線(秩父線)、東武鉄道の東上本線東上線)、JR東日本の八高線の3路線の接続駅となっており、東上線に関しては当駅が終点となっている。

                    

駅名の由来秩父山麓の豊かな緑と荒川の名水で有名なこの地は、秩父地方の出入口として重要な位置を占め、この町を通過しなければ、峠よりほかに道はなし、といった立地条件を背景に多くの人が寄り集る場所と云われたことから、「寄居」という名前が生れ駅名にも命名されました。
戦国時代には特に重要な拠点として登場しています。(この項、「」HPより)

八高線・高崎行きの列車。

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八高線(高崎~八王子)。その2。倉賀野駅~児玉駅。

2024-08-27 20:04:53 | ローカル鉄道の旅

倉賀野駅を過ぎると、最初の踏切が「日光例幣使街道」、その次の跨線橋が「旧中山道」。

二つとも歩いて通過しましたが、どのあたりだったか、確認できず。

※「日光例幣使街道」と「中山道」。(「例幣使街道」を歩いたときの記録。)

倉賀野宿・「中山道」との分岐点。

    右が「中山道」、左が「日光例幣使街道」。


「常夜灯」。正面「日光道」右側面「中山道」左側面「常夜燈」。

「道標」。正面「従是 右 江戸道 左 日光道」。

JR線を越えます。

※「中山道」歩きのときの記録。


「←倉賀野宿1.3㎞、→新町宿3.9㎞」。

  
         「高崎線」の上下線を跨線橋で越えて行きます。

・・・

さて、列車は、「烏(からす)川」を越えます。

ザ・ガーデンゴルフクラブ」。

烏川の河川敷にある。

    「烏川」。

烏川は、その源を群馬、長野の県境にそびえる鼻曲山(1654m)に発し、榛名山の西と碓氷丘陵の東の斜面境を東南方向に流れ、平野部に入ってから碓氷川、鏑川、神流川の西毛の三大河川を合わせて利根川に合流しています。流域面積は470km2、流路延長は61.8kmです。

(「国土交通省」HPより)

※烏川の名の由来水源の地形が唐臼(中国の臼)に似ており「カラウス川」と呼ばれたとの説、また傷ついた日本武尊を烏が現在の烏川水源に導いて救ったから・・・など、烏川の名の由来には諸説がある。

「北藤岡駅」先で、高崎線と離れていきます。

「高崎線」。

     田園地帯をゆく。

「上越・北陸新幹線」。

「群馬藤岡駅」。

             

「神流(かんな)川」。

神流川は、三国山の西側より多野山地へ曲がりくねりながら流れ、下久保ダムを通り、群馬県と埼玉県の県境を流れ、新町地先で烏川に注いでいます。流域面積は407km2、流路延長は87.4kmです。(「同」HPより)

 「丹荘(たんしょう)駅」。

丹荘駅の住所は埼玉県児玉郡神川町植竹。では、「丹荘」という駅名はどこからきているかというと、武蔵七党の一つ丹党の荘園があった地域に由来する。丹党は古代豪族多治比氏の末裔で、天慶年間(938〜947)に丹治武信が武蔵国に流されたのが祖という。武信はのちに許されて帰京したが、孫の峯時が秩父郡石田牧の別当となって土着、以後武蔵国西部から群馬県にかけて広がった。八高線でも丹荘駅の次は群馬県の群馬藤岡駅である。

丹党は児玉党ともに武蔵七党の中では大きな勢力を持ち、一族はこの付近の地名を名字として名乗った。江戸時代の摂津麻田藩主青木家が丹党の子孫を称しているなど、丹党の末裔という武家は多い。

(この項、「」HPより)

※1947年(昭和22年)から約40年間、後に上武鉄道となる日本ニッケル鉄道(日丹線)の起点駅で、1941年9月に日本ニッケル工業(現・朝日工業)~丹荘駅間6.1kmを結ぶ路線として開業。廃線跡は、「健康緑道」という遊歩道になっている。

     (「Wikipedia」より)

       「児玉駅」。  

実りの秋、間近。

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八高線(高崎~八王子)。その1。高崎駅~倉賀野駅。

2024-08-26 19:03:56 | ローカル鉄道の旅

久々に列車の旅。去年の夏は、関東エリアの地方鉄道に乗りましたが、まだ残っていた「八高線」にチャレンジ。

高崎線で高崎まで。そこから「八高線」に乗って八王子まで。そこから中央線で戻ってきました。

八高線(はちこうせん)

東京都多摩地域南西部の八王子市から北上し、埼玉県の西部および北西部を経由して群馬県南部の高崎市を結ぶ路線。

八王子駅から群馬県高崎市倉賀野駅でを結ぶ鉄道路線地方交通線)。実際の運行は倉賀野駅を始発・終着とする列車はなく、同駅を経由する全列車が高崎線に乗り入れて高崎駅を起終点としている。

関東山地東麓を経由して全長92.0kmを結ぶ(倉賀野~高麗川 58.9K+高麗川~八王子 33.1K)。

全線単線であり、沿線には昭島市福生市飯能市寄居町藤岡市といった都市が存在する。開業時は1か所だけトンネルがあったが、現在は全線に渡ってトンネルは一切なく、これは地下トンネルや海底トンネルを含むトンネルが1つもないJRの在来線では路線単位で最長である

1996年(平成8年)に埼玉県日高市高麗川駅より南側が電化された。その際に運転系統は高麗川駅を境にして南北で完全に分断され、高麗川駅以南の列車は川越線との直通運転を行うようになった。高麗川駅以北の区間は埼玉県内では唯一、かつ群馬県内ではわたらせ渓谷鉄道線とともに数少ない非電化区間となっている。

「高崎駅」で八高線のホームへ。2番線と4番線の先にホームがあります。

「中山道」歩きや去年のローカル鉄道の旅などで、高崎駅は何度か利用しましたが、幹線駅らしい雰囲気のある駅です。

※高崎駅は古くから交通の要衝として栄え、9路線が乗り入れる県内最大かつ北関東有数のターミナル駅として機能している。新幹線開業前は東京方面から上越線方面と信越本線方面との分岐点として機能していた。長距離輸送の役目を新幹線に譲ったが上越新幹線北陸新幹線の分岐点となっているほか、在来線においても群馬県内各地へ向かう各路線のターミナル駅としての役割を担っている。

八高線・気動車(ディーゼル車)「高麗川」行きが到着。

車内のようす。

        横一列のロングシートと2人+1人掛けのクロスシートを合わせた仕様。

              

部活帰りの高校生や地元の方、観光客は?

向かいのホームに「上信電鉄」(高崎~下仁田)の電車。去年の夏に乗りました。

12:56発 高麗川行きの出発。左が「上越・北陸新幹線」。

                 

倉賀野までは高崎線と並走。

                       

この先で高崎線と分かれて進みます(烏川を越えた後で再び並走します)。ここからが「八高線」。

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関東ローカル鉄(鐵)道線総集編。その3。⑨上信電鉄上信線。⑩JR久留里線。⑪わたらせ渓谷鉄道。⑫富士山麓電気鉄道。付①江ノ電 ②銚子電鉄 ③流山電鉄。

2023-11-02 21:32:32 | ローカル鉄道の旅

⑨「上信電鉄上信線」編。高崎駅~下仁田駅。8月25日(金)。

現存する日本の私鉄路線のなかでは、南海電気鉄道阪堺鉄道)・伊予鉄道西武鉄道(川越鉄道)についで4番目に開業しており、法人として存続する東日本最古の私鉄でもある。

                                 (「」より)

          

                      世界遺産・「富岡製糸場」の下車駅。

繭から生糸を取る(繰糸)が行われた場所です。操業に当たりフランス式繰糸器300釜が設置され、その当時、世界最大規模の製糸工場でした。小屋組には「トラス構造」という従来の日本に亡かった建築工法が用いられました。そのため、建物内部は中央に柱のない広い空間保たれています。さらに、採光のための多くのガラス窓や、屋根の上に蒸気抜きの越屋根が取り付けられました。現在は、昭和41年以降に設置された自動繰糸機が保存されています。

           

 広く天井が高い建物とたくさん並ぶ繰糸機に圧倒されます。   

寄宿舎。             

・・・      

「下仁田」。

                      12時少し前に到着。

⑩JR久留里線。8月10日(木)

(「ジョルダン」より)

《往路》・木更津 11:11→久留里 11:55 

    ・久留里 13:53→上総亀山 14:11(木更津から13:01発の列車)

《復路》・上総亀山 14:27→木更津 15:36  

「木更津」~「上総亀山」。

「久留里」駅構内。               

「古代からの贈り物『生きた水・久留里』」。 

「生きた水 久留里酒ミュージアム」。

       

館内。

     ずらりと各酒蔵のお酒が並び、けっこうお客さんも入っています。                      

⑪わたらせ渓谷鐵道―「桐生」~「間藤(まとう)」9月19日(火)。

わたらせ渓谷線は、足尾銅山から産出される鉱石輸送のために私鉄の足尾鉄道が敷設し、のちに国有化された足尾線が由来である。桐生駅から大間々駅までは市街地を走り、大間々駅から北の区間では、路線名の通り渡良瀬川上流の渓谷に沿って沢や支川を渡りながら谷筋を遡る。特に初夏の新緑と秋の紅葉の風景が美しく、臨時運行されるトロッコ列車では、風に当たりながら渓谷美を堪能できる。足尾地区では、本路線の建設目的であった足尾銅山の跡地や関連施設が沿線に残っており、一部が観光・見学施設として開放されている一方、廃止された旧足尾本山駅付近では、過去の歴史的な公害である足尾鉱毒事件の影響によりいまだにはげ山が連なり、異観を呈している。

渓谷が続きます。              

「渡良瀬橋」。

終着駅の「間藤(まとう)駅」。

         振り返る。

この後、改めて足尾銅山跡を訪問、さらに、足尾銅山鉱毒被害のため全村廃村になった谷中村(遊水池)を訪れました。

          「足尾製錬所」跡全景。中央が旧足尾線・ターミナル駅舎跡。

      

谷中村役場跡(休憩所)。

延命院共同墓地

⑫富士山麓電気鉄道(大月~河口湖)10月13日(金)

地元の人に交じって、大きなザックを背負った外国人がたくさん乗り込んできます。

     日本語よりも英語、中国、他の外国語と様々な会話が飛び交う。

富士急行線 (「ジョルダン」より)

山梨県大月市大月駅から富士吉田市富士山駅を経て南都留郡富士河口湖町河口湖駅までを結ぶ、富士山麓電気鉄道が運営する鉄道路線の総称である。駅ナンバリングを構成する路線記号はFJ。大月駅から富士山駅までの大月線(おおつきせん)と、富士山駅から河口湖駅までの河口湖線(かわぐちこせん)の2路線で構成されている。両線で一体的に運行されている。

  (この項、「Wikipedia」より)

大月駅から富士山に近づくように進み、標高差は約500mあります。

※ 往路は普通電車、復路はで(+400円)。

「富士山駅」から。

  

                                             

付①江ノ電

4両編成ですが、江の島駅付近からけっこう混んできます。

路面電車風に走るところも。

車窓からの湘南の海。

付②銚子電鉄

本銚子駅・駅舎内。

  (「もとちょうしえき」)

「上り調子・本調子」。

跨線橋から。

付③流山鉄道

路線図。

・「平和台」は開業時「赤城」。大昔の大洪水で群馬県赤城山の崩れた土砂が流れ着いて出来たものといわれている。また、流山の地名はこれに由来するともいわれている。

・「鰭ヶ崎(ひれがさき)」というめずらしい地名は、弘法大師が、突然、現れた竜の捧げた木で薬師如来を刻んだとき、竜の鰭の先が、すこし残ったのに由来するといわれている。

使用車両

「流星」 「流馬」 「銀河」 「若葉」 「なの花」
西武鉄道で使用されていた車両で昭和53年より順次購入しました。
この形式より編成毎に車体色を変え、お客様に投票をいただき愛称をつけました。
「なの花」が2両編成で他は3両編成でした。

「あかぎ」
西武鉄道で使用されていた車両で昭和62年に購入しました。
赤色にZ形の白帯が特徴で、ツリカケ電車としては最後まで活躍した編成です。
1200形とは床下機器に違いがあるため別形式としました。2両編成でした。

「流星」 「若葉」
西武鉄道で使用されていた車両で平成11年に購入しました。
編成毎に車体色が異なり側面のNラインが特徴です。
3両編成で初の発電ブレーキ付でした。

「流馬」「流星」「あかぎ」「若葉」「なの花」
西武鉄道で使用されていた車両で平成22年より順次購入しました。
編成毎に車体色が異なり側面のNラインとブラックフェイスが特徴です。全編成2両編成です。

「青空」 「明星」 「なの花」 「流馬」
西武鉄道で使用されていた車両で平成6年より順次購入しました。
編成毎に車体色が異なり側面のNラインが特徴です。この形式より冷房装置が搭載されました。
「青空」「なの花」が2両編成、「明星」「流馬」が3両編成でした。

流山南高校家庭科部装飾電車。      

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関東ローカル鉄(鐵)道線総集編。その2。⑤ひたちなか海浜鉄道。⑥関東鉄道常総線。⑦真岡鉄道。⑧上毛電鉄。

2023-11-01 20:57:19 | ローカル鉄道の旅

⑤ひたちなか海浜鉄道。8月2日(水)。

勝田~阿字ヶ浦。14.3㌔、乗車時間約28分。

ユニークな駅名標示。

現代アートプロジェクトの「みなとメディアミュージアム」(以下、MMM)で、制作されたアート作品です。
MMMを運営しているみなとメディアミュージアム実行委員会は、 「産(那珂湊地区商店街、ひたちなか海浜鉄道湊線)+学(主に大学教員、 大学院生、大学生)+芸(アーティスト)」からなる研究活動グループです。

芸術と地域の恊働でまちの地域活性化を図る活動として、ひたちなか海浜鉄道沿線を中心にアート展示を期間限定で開催しています。

「工機前」

もともとは日立工機(当時)の専用駅でした。きな工場や陸上自衛隊勝田駐屯地が続く。

          「金上(かねあげ)駅」ホーム。

『金上(金運を上げる)』という名前の通り、縁起の良い名前の駅として知られています。勝田からこの駅までの切符が"縁起のいい切符"として人気があります。

那珂湊「おさかな市場」。  

    

魚などの種類も多く、安くて量も多い。屋台では焼き蛤や牡蠣なども販売。

⑥関東鉄道常総線。取手~下館

 

              

 

「守屋駅」。駅前広場。            

つくばエクスプレスとの乗換駅。けっこう大きな駅になってます。乗降客も多い。

筑波山を右手に見ながら。

                   

⑦真岡鉄道。下館~茂木。途中15駅、所要時間1時間13分。11:10発、12:23到着。

田園風景が広がる。

 「真岡駅」。

「益子(ましこ)」。

現在、窯元は約250、陶器店は50。若手からベテランまでここに窯を構える陶芸家も多く、その作風は多種多様です。春と秋には陶器市が開かれます。

1924年、濱田庄司がこの地に移住し、「用の美」に着目した柳宗悦らと共に 民芸運動を推めるかたわら、地元の工人たちに大きな影響を与え、益子焼は 「芸術品」としての側面も、もつようになります。
 
※1「用の美」=飾らない美しさと、道具としての機能性を併せ持つ美しさ。 道具 は使われてこそ美しい という考え方。柳宗悦(やなぎ むねよし)による。民藝運動の創始者である柳宗悦は、生活道具として使われていた民藝品に新たな価値を見出し、“用の美”と称えた。
※2「民芸」=「民衆的工芸」の略語。        

「七井」。

「茂木」。

                     転車台。SLのための施設。

⑧上毛電鉄 中央前橋~西桐生 8月18日(金)

上毛電鉄「中央前橋駅」。

(「上毛電鉄」HPより)    

「富士山下」。

駅名の由来となった富士山(ふじやま)は、いわゆる富士信仰による各地の「富士山」のひとつで山頂には浅間神社もあるが、標高は160メートル、駅からの高さは約40メートルの小さな山であり、静岡・山梨県境の富士山(ふじさん)からは直線距離でも約130キロメートル離れている。しかし、その字面から外国人観光客が「ふじさん」の最寄駅と勘違いする事もあり、2013年(平成25年)に「ふじさん」が世界遺産に登録されると当駅の存在も合わせて注目されるようになった

渡良瀬川。

「はしる水族館」。

終点の「西桐生」駅に着きます。     

舎外観。      

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関東ローカル鉄(鐵)道線総集編。その1。①小湊鐡道。②いすみ鉄道。③鹿島臨海鉄道大洗鹿島線。④JR「鹿島線」

2023-10-31 21:04:19 | ローカル鉄道の旅

①小湊鐡道(五井~上総中野)《7月22日(土)》

「海士有木(あまありき)駅」。

海士(あま)と有木(ありき)が一つになって、この地名がつきました。海士は、その昔漁夫(海人)の集落、有木のほうは附近に有木城(蟻木城とも書く。現在の泰安寺)があったため、その名がついたと云われております。(「小湊鉄道」HPより)

駅名で読み方が難しいものが出てきます。「飯給」=いたぶ、「馬立」=うまたて。

単線。けっこう横にも縦にも揺れるので、座席を立って撮影するもの大変。

ここは、早場米の産地らしく、すでに稲が黄色くなりつつあります。現在は、すっかり刈り取られた田んぼになっている。

                       

素朴な駅舎。

          車掌さんがホームで切符の回収。

②いすみ鉄道(上総中野~大原)

遠ざかる「大多喜城」(中央奥)。

「国吉駅」に着くと、駅弁などを売るおやじさんたちが入ってきます。

「国吉駅」で発売されている駅弁は「いすみのたこめし」。

古くから蛸つぼ漁が行われてきたこの辺りでは「たこめし」が漁師のまかない飯だったそう。コリコリ食感のたこの身がたっぷり。たこの味もご飯にしっかり染み込んでいます。

「たこめし」や「ポップコーン」を販売、けっこう乗客も購入しています。当方もポップコーンを孫へのお土産に購入しました。

※その後台風13号に伴う大雨被害により「いすみ鉄道」は、9月8日から列車運行を見合わせていましたが、一部の区間で復旧工事が終了し、列車運行を再開することとなった。なお、被害の大きい区間では引き続き列車運行を見合わせている。

・・・

お客様にはご不便をおかけいたしますが、ご理解くださるようお願いいたします。

運行を再開する区間 大原~大多喜間

9月13日の始発列車から通常どおりの運行を予定しています。

運行見合わせを継続する区間 大多喜~上総中野間

復旧に時間を要するため、当分の間、列車の運行を見合わせします。

(この項、「いすみ鉄道」HPより)

③「鹿島臨海鉄道大洗鹿島線」

※北千住から水戸・大洗を通って、佐原・成田、京成とぐるっと回ってくる。

         一両編成の気動車でワンマンカー。単線。※通常は、二両編成のようです。

沿線案内図。

   (「」HPより) 水戸~鹿島神宮

水戸の近郊エリアとして通勤・通学や、水族館(アクアワールド・大洗)や大洗マリンタワー大洗サンビーチ大洗シーサイドステーションといったマリンレジャースポットが多数点在する大洗へのアクセスに利用される。

この区間の運転本数は1時間に2 - 3本ほどあり、第三セクターの地方鉄道線としては比較的列車密度が高い。水戸 - 大洗間の区間列車が約半数を占めており、旅客輸送において大洗駅は重要な拠点駅となっている。地元密着型の路線という雰囲気。

しばらくは高架線が続く。水戸駅方向を振り返る。

しばらくすると、田園風景が広がってきます。

鹿島神宮駅から「JR鹿島線」へ乗り継ぐ。

④JR「鹿島線」鹿島神宮~佐原 

発車すると、まもなく長い橋を渡ります。

北浦橋梁。

この橋は全長1236mで、日本の鉄道橋としても有数の長さを誇ります。水上に橋脚が並び、単線の橋桁が真っすぐ伸びる光景は壮観。

「利根川」を渡ります。

           

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富士山麓電気鉄道。その7。桂川。山梨県立リニア見学センター。「田野倉」。岩殿山。「富士山七変化」。(関東ローカル私鉄の旅。その8。)

2023-10-30 18:32:15 | ローカル鉄道の旅

運転席から。

     中央道(大月~河口湖~山中湖)。

桂川。

相模川(さがみがわ)の上流・山梨県内の呼称。富士山の伏流水を水源とする忍野八海山中湖に源を発する。由来については、かつて都留市東桂から富士吉田市明見、鐘山へと続く流域にの大木が茂っていたことに因む説都留郡のつるが蔓葛(つる)と転記され、蔓葛(かづら)の読みから桂へ転記されたとする説[石割山の石割神社の桂の神木に因む説などがあり、定かではない。

リニア実験線。

                 右手後方に「山梨県立リニア見学センター」があります。

           

・・・

 JR東海が強引に進める東京・品川―愛知・名古屋間を走らせるリニア中央新幹線。総事業費約7兆円のうち3兆円は政府の財政投融資が活用された。2017年から3年間貸し付けられたこの財投は前年の16年、当時の安倍晋三首相が盟友の葛西敬之JR東海代表取締役名誉会長(22年5月に死去)を支援するために実現させた。担保なし、30年間での元本返済、平均0・86%の低金利という厚遇した案件だ。国策民営事業に転じたリニア新幹線が目指す27年開業は、「困難」と丹羽俊介社長は明言。工事の遅れが理由だが、では開業はいつごろになるのか。また45年に大阪までの延伸は可能なのか。

 「今の状況から推察すると品川―名古屋間の開業は早くても12年後の2035年ですね」というのは「〝悪夢の超特急〟リニア中央新幹線」(旬報社、2015年度JCJ賞受賞)の著者でジャーナリストの樫田秀樹氏だ。

約30カ所で遅れ

「私はJR東海などの公開資料を基づき各工区がどのくらい予定より工事が遅れているかを調べました。表にリストアップしたのは遅れ年数のベスト7で、トップは8年遅れの神奈川のリニア神奈川駅非開削工区。7年遅れの2位は神奈川と岐阜の2区、6年遅れの3位は岐阜と長野の工区が並び、5年遅れの4位はリニア山梨県駅、3年9カ月以上の5位は愛知名城非常口、3年半以上の6位は長野坂島工区、3年5カ月の7位が長野釜沢非常口です。3年、2年、1年の遅れを含めると合計30近くにもなります」
その主な原因は①用地取得ができていない、②停車駅がなかなか決まらなかった、③入札までの作業がスムーズに運ばず工事が未契約、④住民による反対運動、⑤JR東日本との話し合いが長引いている。

交渉行き詰る静岡

  リニア新幹線と言えば、JR東海と静岡県の川勝平太知事との〝ケンカ〟が有名だ。同県の工事の遅れは3年になる。川勝知事が難題をJR東海に押し付け強硬に工事を阻んでいるのでリニア新幹線は進まないと〝川勝バッシング〟はネットなどで今でも激しい。
樫田氏は「決してリニアに反対派ではない川勝知事は、リニアを進めるにあたり47項目からなる質問書をJR東海に提出している。これには南アルプスのトンネル掘削工事などで水脈が断ち切られ大井川流量が毎秒最大2㌧減り7市2町が影響を受けるので解決策として水の戻し策要請も含まれている。JR東海の回答をのむことができれば知事は工事を認可します」という。しかし静岡はJR東海から回答をもらっていない。両者の交渉は完全に行き詰っている。このままでは工事は遅れる一方だ。
リニア裁判では国の工事認可取り消しを沿線住民から提起された東京地裁の市原義孝裁判長らは昨年9月に山梨リニア実験場周辺に暮らす原告を含む住民に騒音の状況や日陰・水枯れの有無な、農業への影響などを聞き取り調査した。18日の東京地裁の判決は国の認可取り消しを認めず、住民側の請求を棄却した。
裁判を傍聴してきた樫田氏は「山梨リニア実験線の沿線住民から聞き取り調査までした裁判官への原告の期待は高かった。2月結審から判決まで5カ月間もあったので、意味のある判決が下されると原告弁護団も考えていた。ところが判決文は、国やJR東海の主張をコピペした内容で、現地調査も触れていなかった」と悔しがる。
「不当判決」と訴える原告らは控訴する。
南アルプス市民からJR東海の工事差し止めを求められた甲府地裁の新田和憲裁判長らも9月に同じく山梨リニア実験場の周辺住民に聞き取り調査を2日間行う。判決は来年。

延伸アセス見送る

昨年4月山梨リニア実験場で試乗した岸田文雄首相は名古屋―大阪間の環境影響評価(アセスメント)作成の前倒しを表明したが、JR東海は「今年度は、アセスは見送る」と今年4月に拒否した。品川―名古屋間の工事が大幅に遅れているので、予定通りの延伸は絶望的になったからだ。
  工事の遅れによる経費の増大、人件費・建築資材の高騰などで事業費は膨れ上がる一方。本当にリニア新幹線はできるのか。
「品川―名古屋間の総事業費は7兆円を超えるのは間違いありません。9兆円に迫る可能性もある。となるとリニアがJR東海の経営の足を引っ張ることになる。再び財投がつぎ込まれるかもしれない。名古屋から大阪までの延伸は中止もあり得ます」(樫田氏)
 金食い虫でトラブル多発のリニアにJR東海は振り回され右往左往している。

JCJ月刊機関紙「ジャーナリスト」2023年7月25日号 より

・・・

「田野倉」。
 
        あとわずかで終点「大月」駅。
 
 
「岩殿山」が見えてきます。
 
一斉に下車した後の車内。
 
JR大月駅ホームからの岩殿山。
 
                         ※標高は、634mで、「東京スカイツリー」と同じ。
 
お土産の「富士山七変化」
 
これで、ひと夏かけて行った関東ローカル各線の旅は終了です。
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富士山麓電気鉄道。その6。運転席からの眺め。「都留文科大学前」。カーブが続く。警笛。(関東ローカル私鉄の旅。その8。)

2023-10-29 20:18:50 | ローカル鉄道の旅

「都留文科大学前」駅に近づいてきます。

               大学キャンパスは右手奥に広がります。

1953年(昭和28年)に山梨県立臨時教員養成所として発足し、1955年(昭和30年)に都留市立都留短期大学、さらに1960年(昭和35年)に4年制の都留市立都留文科大学となった。東日本エリアの公立大学で唯一の教員養成系大学であり、卒業生の多くが教職に就いている。とりわけ創設以来、小学校教員養成に力を注いできた。人口約3万人の地方小都市である都留市が大学運営を行っている市立大学である。2009年(平成21年)に公立大学法人へ移行し、2013年(平成25年)に創立60周年を迎えた。

都留市の中心部である谷村は、江戸時代に興譲館という郷学が設立されるなど、教育・文化を重視する風土があり、県立臨時教員養成所の誘致や短期大学への移行は市民の力が大きく働いた。市民のボトムアップによって設立された大学という点では日本では希有な存在である。現在、都留市は「教育首都」を標榜し、大学を政策の大きな柱の一つとして位置づけている

学訓 菁莪育才(「せいがいくさい」

初代学長諸橋轍次が学訓として選んだ言葉で、出典は『詩経』である。「社会有為の人材を育成することを楽しむ」という意。)

現在は5学科、大学院5専攻、約3000人の学生を擁するまでになった。またそれらの学科増設に対応するためにも新講義棟(現2号館)、3号館、新附属図書館の建設など、設備面も逐次拡充を行ってきた。さらに、創立60周年事業の一環として国際交流会館を音楽研究棟横に建設したほか、隣接する南都留合同庁舎の敷地へのキャンパス拡大も計画されている

その一方で国際化への対応から、学外交流への道も開拓され、1995年(平成7年)に中華人民共和国・湖南師範大学交換留学協定を締結し、1998年(平成10年)アメリカ合衆国・カリフォルニア大学と学術交流協定を締結し、どちらも交換留学することができる。さらに協定校留学として2007年度(平成19年度)よりアメリカ合衆国・セント・ノーバート大学英語版での語学研修プログラムを開始した。そのほかにも海外語学研修があり、学外交流は増えつつある。

学部生の出身地は地元都留市が約1%程度、山梨県に広げても約10%であり、残りの約90%近くは他の都道府県から学生が集まる全国区大学である。また大学には寮がないため、学生の9割近くが都留市内の大学周辺に下宿(ワンルームマンションを含む)をしている。この全国区型の傾向は都留短期大学時代から既に見られた。それは1950年代後半に全国の国立大学が2年制の教員養成課程を廃し、4年制に一本化しはじめたことによるもので、2年で教員資格が取れる都留短期大学は地元山梨県はもとより北海道から沖縄県まで全国から学生が集まった。

さらに全国区型の特徴の要因となっているのは、4年制移行直後の1961年(昭和36年)3月の入学試験から全国の大学に先駆けて、全国各都市に試験会場を設ける地方試験の導入である。これは当時の国公立大学はもちろんのこと、私立大学を含めても類を見ないものであった。以前から公立大学は国立大学と別日程であったこともあり、この地方試験によって教員志望者が「地元の国立大学の次に志望する大学」という地位を築いていった。・・・(この項、「Wikipedia」より)

※知人の娘さんがこの大学に進学し、卒業後、中学校の先生となっています。略称:つるぶん。

         街並み。

運転室越しに前方を眺めるのも、なかなか趣があります。

    

カーブが続く。

              警笛もなかなか魅力的。

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富士山麓電気鉄道。その5。遠ざかる富士山。「月光寺(げっこうじ)」。「下吉田」。新倉山浅間公園・五重塔・外国人に大人気。「中央自動車道」。(関東ローカル私鉄の旅。その8。)

2023-10-28 20:02:31 | ローカル鉄道の旅

木造の格子仕立て。

遠ざかる富士山。

木に隠された!  

「道志」方向。

「月光寺(げっこうじ)」。

         

「下吉田」。

ブルートレインなど客車や貨車が陳列。

開業当時は貨物の取扱を行っていた駅でした。
駅前にはロータリーもあり、駅舎は建築当時、東洋一の建造物と言われていた名古屋駅を模して建てられました。
周辺にはアヤメの群生地で有名な新倉山もあります。また平成21年7月18日(土)に、工業デザイナーの水戸岡鋭治氏デザインによる駅舎に生まれ変わりました。
今回のリニューアルでは、下吉田駅が開業した当時の新しさと驚きを再び感じ取れるよう、レトロな味わいを生かしつつ、21世紀モダンの駅に生まれ変わることをコンセプトに、天井画を大胆に配置した吹き抜け、富士の稜線をイメージしたベンチ、センターテーブルが配されたコンコース等、今までの駅には見受けられなかったゆとりある雰囲気を演出し、駅にいながら富士山や桜並木などの風景を楽しめる空間を作っています。

新倉山浅間公園に建つ忠霊塔五重塔と富士山の風景が外国人の間で人気となり、その最寄り駅として外国人の利用が増えています。

           

                                    (「富士の国やまなし」HPより)

    

           

「中央自動車道」。

大月JC~河口湖~山中湖。

けっこう曲がりくねった下り。

              

隣の外国人も下吉田駅で下車。

            

               

             

「都留文科大学前」方向。

       里山風景。

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