百島 メルヘンと禅 百会倶楽部 百々物語

100% pure モノクロの故郷に、百彩の花が咲いて、朝に夕に、日に月に、涼やかな雨風が吹いて、彩り豊かな光景が甦る。

吉野山奥千本まで。

2019年04月12日 | 百伝。

古来より日本一の桜の名所として知られてきた奈良県吉野山まで参拝いたしました。。

一目千本・・・古来桜が多く、ソメイヨシノの原木である白山桜(シロヤマザクラ)と呼ばれる山桜を中心に約200種3万本の桜が密集しているとのこと。

吉野山の山下の北から山上の南へと順に上がり、下千本、中千本、上千本、そして、奥千本と呼ばれています。

上千本の展望台から、中千本、下千本を眺めた風景です。

因みに、上千本は、歌舞伎「義経千本桜」の舞台となった場所です、

昨日の時点で、下千本では、桜が散り始めていました。

中千本、上千本は、満開の状態でした。

この上千本から、さらに登って行くと、吉野山の最深部となる「奥千本」です。

かつて、古来日本では、花見の宴と言えば、梅の花でした。

(新しい元号となる「令和」の引用も梅の花の宴からです。)

それを、800年ほど昔、日本、日本人の代表の花となる美意識を「桜の花」に変えたのが、月と桜の花をこよなく愛した漂白の歌人 西行です。

「願わくば 花の下にて 春死なん そのきさらぎの もち月の頃」

「何となく 春になりぬと 聞く日より 心にかかる み吉野の山」

その西行・・・奥千本に、三年間も幽居したと伝わっています。

小雨降る冷たい中、長くつを用意して、参拝。

この界隈(奥千本)は、残念乍ら、桜は蕾状態で、まだ咲いていません。

でも、素晴らしい、ちょっとしたハイキングでした。

そして、到着。

ここが、奥千本の名の由来となる場所にある「西行庵」です。

若い頃から、興味のあった場所です。

 

でも、西行が、三年間、この地で隠遁したとも思えませんが、何度も足繁く吉野山の参拝していたのも事実です。

西行が生きた時代から、約500年後、あの芭蕉が、奥の細道へ行く前に、二度、ここを訪ねているのが何とも不思議です。

帰り道、振り返れば、西行庵が小さく見えました。

白山桜が満開となると、ここは素晴らしい風景になるのは、想像がつきました。

ただ、豪雨災害なのかな?・・・山肌半分が禿山のような状態でした。

現在、この奥千本は、「奥吉野シロヤマザクラ再生プロジェクト」として、杉の木を伐採し、桜の木を植える作業が続けられているとのこと。

10年後の桜満開を想像じながら、再び来れたらいいなぁと思いながら、あとにしました。

しかし、ここ奥千本に来るのは、体力が必要です。

足腰が丈夫な時でないとね!

以上。

当日は、生憎の冷たいの中の写真撮影、メモの出来も今一つでした。

寒さに震えながらの散策でした。

以下、桜散る下千本、賑わう中千本、写真撮影愛好家の多かった上千本、簡単な報告とさせていただきます。

日本三大桜名所でもある青森県の弘前城公園の桜、長野県の高遠城址の桜も大変素晴らしいけど、吉野山の一目千本桜は、別格でした。

吉野山全体の規模も大きく、日本古来の白山桜に酔い知れました。

そして、西行が、異常なほどに「吉野山の桜の花」に憧れ、恋していたのがよく分かりました。

カール・ブッセの「山の彼方」という有名な詩があります。

  山のあなたの空遠く、幸い住むと人の言う。

  ああ、我ひとと尋め行きて、涙さしぐみ帰り来ぬ。

  山のあなたになお遠く、幸い住むと人の言う。

百島の愛宕山の頂上からも、かつては、色鮮やかだった桃の花が見える風景を想像しました。


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