本日最後の参拝になるのが野里住吉神社。
JR塚本駅から500メートル離れた商店街の端の場所に鎮座する。
しかし車で行くと一方通行が多いし狭い道だし、
着くまで結構苦労した。
帰りも一方通行に阻まれ、
この道で良かったかな?と思うような道を走る羽目になったし。(^^;
所在地:大阪府大阪市西淀川区野里1丁目15-12
主祭神:底筒男命・中筒男命・表筒男命・神功皇后
社格:旧村社
創建:伝永徳2年(1382年)
【由緒】
足利義満の創建と伝えられる神社。
野里という町は明治末期の新淀川開削で旧中津川の右岸(現西淀川)に沿って開かれた昔からある村落。
同社には「一夜官女」という珍しい神事がある(府の無形文化財)ことで知られる。
野里の村は昔から風水害や疫病に相次いで見舞われていたことから、
村人は毎年旧暦1月20日に娘を神に捧げる神事を行うようになった。
それから7年目、村を通りかかった武士が退治に名乗り出て、
娘の身代わりに生け贄のふりをすることに。
翌朝、武士の姿はなかったが血の跡をたどっていくとそこには大きな狒狒(ひひ)が死んでいた、
という講談でよく語り継がれている「岩見重太郎の狒狒退治」が伝わる。
【鳥居】

この鳥居をくぐり境内に駐車させていただいた。
【神馬】

【境内社】

【境内】

こちらの神社も意外と広いです。
【拝殿】

旧村社とは思えないほど立派な拝殿です。
【本殿】

【狛犬】

【淀川戎神社】


摂社。
本殿の右裏手に鎮座。
【乙女塚】



その昔の野里には暴れ川の中津川が流れていて、
打ち続く風水害と厄病の流行に苦しんだそうで近隣からは「泣き村」と呼ばれていました。
古老たちは村を救わんとの願いから占いにより毎年定めの日に、
白矢の打ち込まれた家の娘を神に捧げることにしました。
人身御供の娘は深夜に唐櫃に入れられて神社境内に放置されました。
ちょうど7年目の儀式の準備をしていると一人の武士が訪れ、
村人たちの話しを聞き、「神は人を救うもので犠牲にするものではない」と、
自身が身代わりになり唐櫃に入ることになりました。
翌朝、村人たちが神社に確認に行くと唐櫃は壊れ辺り一面は血に染まり、
武士の姿は見当たりませんでした。
点々と続く血の跡をたどると隣村まで続き大きな狒々が絶命していたということです。
その後、この武士の正体は、大坂夏の陣で絶命した、
当時武者修行中であった岩見重太郎であると伝えられています。
人身御供の娘が運ばれた場所は社殿裏の龍の池だったそうです。
この池も長い年月の間に埋まってしまい形だけが残る状態となっていましたが、
その跡地に乙女塚が建てられ犠牲になった娘たちが祀られています。
古今東西、古来には人柱というものがあったが、
この乙女塚にもこのような悲しい出来事があったんですね。(涙)
【地蔵尊】

【事平社】


【相殿社】


【勝雄木稲荷神社】


【月頼大明神】


【地車】

夏祭りの時に地車が曳行され賑わうそうです。
御朱印を若い女性にお願いしたのですが、
先生が不在で明日でしたら大丈夫なんですが、と言われたので
今回はいただけませんでした。
さすがに連日御朱印の為に行けるほど近くはない。(^^;
JR塚本駅から500メートル離れた商店街の端の場所に鎮座する。
しかし車で行くと一方通行が多いし狭い道だし、
着くまで結構苦労した。
帰りも一方通行に阻まれ、
この道で良かったかな?と思うような道を走る羽目になったし。(^^;
所在地:大阪府大阪市西淀川区野里1丁目15-12
主祭神:底筒男命・中筒男命・表筒男命・神功皇后
社格:旧村社
創建:伝永徳2年(1382年)
【由緒】
足利義満の創建と伝えられる神社。
野里という町は明治末期の新淀川開削で旧中津川の右岸(現西淀川)に沿って開かれた昔からある村落。
同社には「一夜官女」という珍しい神事がある(府の無形文化財)ことで知られる。
野里の村は昔から風水害や疫病に相次いで見舞われていたことから、
村人は毎年旧暦1月20日に娘を神に捧げる神事を行うようになった。
それから7年目、村を通りかかった武士が退治に名乗り出て、
娘の身代わりに生け贄のふりをすることに。
翌朝、武士の姿はなかったが血の跡をたどっていくとそこには大きな狒狒(ひひ)が死んでいた、
という講談でよく語り継がれている「岩見重太郎の狒狒退治」が伝わる。
【鳥居】

この鳥居をくぐり境内に駐車させていただいた。
【神馬】

【境内社】

【境内】

こちらの神社も意外と広いです。
【拝殿】

旧村社とは思えないほど立派な拝殿です。
【本殿】

【狛犬】

【淀川戎神社】


摂社。
本殿の右裏手に鎮座。
【乙女塚】



その昔の野里には暴れ川の中津川が流れていて、
打ち続く風水害と厄病の流行に苦しんだそうで近隣からは「泣き村」と呼ばれていました。
古老たちは村を救わんとの願いから占いにより毎年定めの日に、
白矢の打ち込まれた家の娘を神に捧げることにしました。
人身御供の娘は深夜に唐櫃に入れられて神社境内に放置されました。
ちょうど7年目の儀式の準備をしていると一人の武士が訪れ、
村人たちの話しを聞き、「神は人を救うもので犠牲にするものではない」と、
自身が身代わりになり唐櫃に入ることになりました。
翌朝、村人たちが神社に確認に行くと唐櫃は壊れ辺り一面は血に染まり、
武士の姿は見当たりませんでした。
点々と続く血の跡をたどると隣村まで続き大きな狒々が絶命していたということです。
その後、この武士の正体は、大坂夏の陣で絶命した、
当時武者修行中であった岩見重太郎であると伝えられています。
人身御供の娘が運ばれた場所は社殿裏の龍の池だったそうです。
この池も長い年月の間に埋まってしまい形だけが残る状態となっていましたが、
その跡地に乙女塚が建てられ犠牲になった娘たちが祀られています。
古今東西、古来には人柱というものがあったが、
この乙女塚にもこのような悲しい出来事があったんですね。(涙)
【地蔵尊】

【事平社】


【相殿社】


【勝雄木稲荷神社】


【月頼大明神】


【地車】

夏祭りの時に地車が曳行され賑わうそうです。
御朱印を若い女性にお願いしたのですが、
先生が不在で明日でしたら大丈夫なんですが、と言われたので
今回はいただけませんでした。
さすがに連日御朱印の為に行けるほど近くはない。(^^;
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