南隆寺の御住職に教えていただいた聖徳院に歩いて向かう。
聖徳院はこの看板のすぐそばにありますが、
ここを右折すれば郷照寺もスムーズに行けたんですよね。
ナビはここじゃなく一つ先で右折を指示していたので、
それを信じて行ったら南隆寺に行っちゃったんですよね。
郷照寺に行く人はナビを無視して、ここを右折しましょう。(^^;
所在地:香川県綾歌郡宇多津町1423−1
宗派:真言宗御室派
御本尊:聖徳太子
創建:不明
開山:空讃上人
札所:讃岐三十三観音霊場
【縁起】
聖徳太子は生前、親交のあった曽我氏の領地讃岐の国をしばしば訪れていたと伝えられます。
当時から港のあった鵜足津の地を派遣者や官人の休憩場所として利用していたそうです。
太子の没後、太子信仰が全国的に広まると、
多くの足跡を残した讃岐の国鵜足津の地にその徳を偲び、
法隆寺の僧行信により、天平8年(736)四国の太子信仰の道場として
建立されたのが聖徳院の前身とされています。
太子像が造立されたのは、保元3年(1156)から承元4年(1210)といわれています。
その時造られた七体のうちの一体が後白河院殿作として祀られ、
七堂伽藍を有する聖徳院として建立されました。
天承年中(1264年頃)鎌倉時代、執権北条長時の代、僧空讃上人により
真言宗に改宗「神・儒・佛」の精神道場として再興されました。
以後、度々戦火や火災があり、大正8年には大火災に遭い、院のほとんどを焼失しましたが、
幸いにも聖徳太子二歳立像と鎌倉・南北朝時代の仏像五体は無事残されています。
【山門】
【七福神】
【太師堂】
手前に仁王像。
聖徳太子二歳立像、十六歳孝養像、政治を司った時の摂政像と、
聖徳太子像が三体祀られているそうです。
【鵜足ノ松天満宮】
【鵜足ノ松跡】
仁和年中(885-888)には菅原道真公が讃岐の国司として立ち寄り、
記念に松をお手植えになり地名をとって「鵜足ノ松」と名づけらました。
千有余年の風雪に耐え、明治25年には国の天然記念物に指定。
しかし火災で焼失してしまったそうで、
今の松はその後に植えられた松です。
【観音堂】
【一畑薬師堂】
この辺りは京都の雰囲気を少しだけ感じました。
【水子五重塔】
【御朱印】
聖徳院はこの看板のすぐそばにありますが、
ここを右折すれば郷照寺もスムーズに行けたんですよね。
ナビはここじゃなく一つ先で右折を指示していたので、
それを信じて行ったら南隆寺に行っちゃったんですよね。
郷照寺に行く人はナビを無視して、ここを右折しましょう。(^^;
所在地:香川県綾歌郡宇多津町1423−1
宗派:真言宗御室派
御本尊:聖徳太子
創建:不明
開山:空讃上人
札所:讃岐三十三観音霊場
【縁起】
聖徳太子は生前、親交のあった曽我氏の領地讃岐の国をしばしば訪れていたと伝えられます。
当時から港のあった鵜足津の地を派遣者や官人の休憩場所として利用していたそうです。
太子の没後、太子信仰が全国的に広まると、
多くの足跡を残した讃岐の国鵜足津の地にその徳を偲び、
法隆寺の僧行信により、天平8年(736)四国の太子信仰の道場として
建立されたのが聖徳院の前身とされています。
太子像が造立されたのは、保元3年(1156)から承元4年(1210)といわれています。
その時造られた七体のうちの一体が後白河院殿作として祀られ、
七堂伽藍を有する聖徳院として建立されました。
天承年中(1264年頃)鎌倉時代、執権北条長時の代、僧空讃上人により
真言宗に改宗「神・儒・佛」の精神道場として再興されました。
以後、度々戦火や火災があり、大正8年には大火災に遭い、院のほとんどを焼失しましたが、
幸いにも聖徳太子二歳立像と鎌倉・南北朝時代の仏像五体は無事残されています。
【山門】
【七福神】
【太師堂】
手前に仁王像。
聖徳太子二歳立像、十六歳孝養像、政治を司った時の摂政像と、
聖徳太子像が三体祀られているそうです。
【鵜足ノ松天満宮】
【鵜足ノ松跡】
仁和年中(885-888)には菅原道真公が讃岐の国司として立ち寄り、
記念に松をお手植えになり地名をとって「鵜足ノ松」と名づけらました。
千有余年の風雪に耐え、明治25年には国の天然記念物に指定。
しかし火災で焼失してしまったそうで、
今の松はその後に植えられた松です。
【観音堂】
【一畑薬師堂】
この辺りは京都の雰囲気を少しだけ感じました。
【水子五重塔】
【御朱印】
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