転妻よしこ の 道楽日記
舞台パフォーマンス全般をこよなく愛する道楽者の記録です。
ブログ開始時は「転妻」でしたが現在は広島に定住しています。
 



ここ二日ほど、主人が仕事で深夜帰宅だったので、
待っている間に、娘がつけていたテレビを横目で見ていたら、
日本テレビ開局55周年記念ドラマ「東京大空襲」というのがあった。

劫火に焼かれ、この世の地獄の中で多くの命が無惨に失われ、
残った者は生涯癒えることのない傷を負い、青春も人生も狂わせられた、
という意味では、空襲も原爆も全く同じだが、
原爆には公式な援護法が、不十分ながらも出来た。
人類初の核兵器による攻撃で被害にあったこと、
従来の爆撃にはない、放射能による長期の健康被害が甚大であったこと、
等々を重く見ての、国家的な救済措置だったのだと思う。

それに対し、放射能を伴わなかった空襲に関しては、
『戦争犠牲ないし戦争損害は国の存亡にかかわる非常事態のもとでは、
国民のひとしく受忍しなければならなかったところ(戦争受忍義務)」
(最高裁第2小法廷87年6月26日、名古屋空襲に関する判決文)
という解釈で、現在までのところ終わっている。
かつて日本が真珠湾や重慶でやった爆撃とて同様であり
ドレスデンでも米軍・英軍による絨毯爆撃があったのだから、
太平洋戦争時の空襲は、日本人だけが経験した悲劇ではない、
戦時下では誰しも、被害者であり同時に加害者でもある、
自分が被害者の側になったときは諦めるほかない、ということだろう。

そんな判決ひとつで到底納得できない、
という心理は個人として当然のものではあるが、
道徳や心情の問題以前に、補償する財源もなかったのだと思う。
現在公式的に認められている記録や統計が客観的に正しいとすると、
東京だけでも当時100回を超える爆撃を受けていることになるから、
その他の都市も含めての空襲被害者になんらかの補償を、
となると、際限が無く、国家の許容範囲を超えてしまう。
せめて、サンフランシスコ講話条約のときに、
アメリカに対して賠償請求権を行使しておけばよかったのに、
と思うが、そうできない、複雑な背景があったのだろうか?

私は小学生のとき広島に来てから、やたらと平和教育が多いのに驚き、
被爆体験記のみならず、残酷な原爆記録映画を幾度となく見せられ、
友達は上映中の体育館で吐いて倒れるし、
大人になるまで何度も原爆の悪夢をみるくらいトラウマになって、
なんでこんな目に遭わされるんだと学校に不信感さえ抱いたが、
やはり知らなくてはならないことだったかもしれないと昨夜は思った。

戦争は残酷だ・多数の命が犠牲になる、
という文言では表現しきれないものが、映像の肉迫にはあり、
たとえドラマであっても、あのような光景が再現されるのを見ると、
現在の、毎日が平穏に過ぎることを漠然とでも信頼できる生活が、
いかに得難いものであるかが改めてわかった。
そして政情不安の国々では、今この瞬間にも、規模の大小はあれ、
東京大空襲のような惨劇が繰り返されている、ということが、
これまで以上の重みを伴って感じられた。
申し訳ないが、私はまだ、こんな悠長なことを言っていられる、
平和ボケの日本人のひとりだということだ。

世界の情勢を考えれば、現在の私たちは、
紙一重の安定の中で暮らしているに過ぎない。
この先、またたやすく被害者にも加害者にもなり得ることを
知っていなくてはいけないと思った。

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