街であれこれ用事をしながら、ふと、ふしぎな感覚におそわれました。
一瞬でしたが人生に納得した感じ、これまでにない多幸感が
意識に降りてきて、なんともいえない平安感に包まれました。
自力では辿りつけない体験の解釈が、自ずと起こった・・・
そんなふうにもいえる体験の、微かな余韻は今も続いています。
私は私・・・究極の自己受容とでも呼べる瞬間が、
知人が古い寺院で祈っているときに起こった話や、
遥か外地の高原の湖で、湖面に反射した光に貫かれる感覚とともに、
その瞬間すべてを了解した・・・そんな体験を本人から聞いたこともあります。
寺院や湖水の体験ように劇的ではないけれど、
日常のふとした拍子に起こった感覚、私の体験も、
それらに連なる自己受容の瞬間だったと感じています。
それはストレス曲線のどん底をさ迷い歩いた挙句、
もはやこれまでと我をを手放した途端、
ふしぎな体験として大きな自己受容が降りてくるようです。
大きな自己受容は、人生の時に適って、
それぞれの個性にいちばん相応しい形でやってくるものかもしれません。
(120-12)
一瞬でしたが人生に納得した感じ、これまでにない多幸感が
意識に降りてきて、なんともいえない平安感に包まれました。
自力では辿りつけない体験の解釈が、自ずと起こった・・・
そんなふうにもいえる体験の、微かな余韻は今も続いています。
私は私・・・究極の自己受容とでも呼べる瞬間が、
知人が古い寺院で祈っているときに起こった話や、
遥か外地の高原の湖で、湖面に反射した光に貫かれる感覚とともに、
その瞬間すべてを了解した・・・そんな体験を本人から聞いたこともあります。
寺院や湖水の体験ように劇的ではないけれど、
日常のふとした拍子に起こった感覚、私の体験も、
それらに連なる自己受容の瞬間だったと感じています。
それはストレス曲線のどん底をさ迷い歩いた挙句、
もはやこれまでと我をを手放した途端、
ふしぎな体験として大きな自己受容が降りてくるようです。
大きな自己受容は、人生の時に適って、
それぞれの個性にいちばん相応しい形でやってくるものかもしれません。
(120-12)