Dr.Horiiのひとりごと

徒然なるままにクルマや日々の出来事を書きとめた雑記帳です。
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クルマ屋への道 その2

2005-11-24 21:50:22 | クルマ屋への道


ガビ~ン!!
なんと小学生時代のDrです(^^;
店で初めて買った新車でトヨタの何とか言う1tトラックです。
乗用車でなくても満悦でした。
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環境の良かった太秦から隣があの遊郭で有名な五番町夕霧楼という場所に引っ越したDrはなかなか環境に馴染めずに苦労しました(泣)。

太秦時代の学友は貿易商の息子や繊維商社の跡取りに役者の息子と結構私よりハイソ(死語か?)な学友が多かったのですがこちらはテキ屋の子供とかどちらかいうとガラの悪い地域でした。

Drの住居は商売の店(工場)で使用人が数人にて活気こそありましたが悪い情報も多々入り割とそれまで純情であったDrはだんだん汚染されていきました。

一番顕著であったのが学校の成績が著しく下落したことで太秦時代はオール4~5という通知簿がオール3(4は少し)くらいになったことでした(悲)。

勉強はこんな具合でしたがことクルマに関しては店の使用人Mが結構マニアであってCG誌の創刊一号(1962年)を買って見せてくれたりDrは元々異常にクルマに関心があるだけに退屈しませんでした。

Drの店はクルマとは全く無関係の主に醤油を中心とした業務用調味料の製造販売業でした。

オヤジは全くクルマには無関心で私の情報源は主に前述のM氏と雑誌でしたが向かいの銃砲店には地方からリッチそうな客がよく来店して普通ではちょっと見れないポルシェやアルファや今の国産絶番スポーツなんかが来て私を虜にしたものです。

使用人Mは主に店での運転手でしたがDrはホンマに毎日のように配達があるとひっつき虫になりそれこそどこへでも助手席に乗りました。

このMの運転がちょっと言えないほどの辣腕ドライバーでその速いこと!

なんせこちらはトラックであるものの先ず負けません???

とりあえずトラックは旧式なコラムシフトながら各ギアは目一杯引っ張ります!

信号グランプリは絶対負けない!

名神高速もぶっちぎり! (アクセルはベタ踏み)

ちなみに車間距離は限りなくゼロです(苦笑)。

しかしMさんの運転は基本的にスムーズで決して荒くありません。

昔はこんなドライバーも結構居たのものでした。

道路も今より断然空いてたのでその気になれば速く走れたのですね。

このM氏は少なくともDrのクルマ趣味成長期?に多大な影響を及ぼしたのは否めません。

ちなみにM氏の自家用車はブルーバード(ファリーナデザイン410)のSSSでSUツインにポルシェシンクロが売りの当時のスポーツセダンでした。

よく言えば気分はコルチナロータスでしょうか?

トラックであれだけ速いのですからSSSに乗せれば鬼に金棒ですね。

M氏の話はまだ続きます。

後になり我が商売も斜陽化と親兄弟の不仲からショボくなり社員もリストラ傾向になりました。

このM氏はどこか強い☆を持ってるのでしょう??!!

某江戸時代から続く老舗料理屋の娘さんと結婚され今はそこの社長さんとなられました。

何度もTV出演されていて何でも自家用車はベンツのSにハーレーにハワイに別荘まであるそうです。←ウラヤマシィ~

本当にウチの店を辞めてよかったですね。(複雑)

今はDrからは恐れ多い存在ですが当時は本当に家族の一員みたいに気安く付き合ってくれDrのワガママもいっぱい聞いて貰いました。

本当に有り難う! Mさん。

Mさんのこと一生忘れませんよ!(涙)

まがりなりに何とかショップを経営してきたのも何割かはMさんのおかげ(影響)だと思っています。

五木ひろしでも東京ぼん太でもありません。
大変お世話になり弟のように可愛がってくれたMさんです。
今はTV出演するほどの有名人です。

Drはこの地に中学三年生まで住みました。

以後今のショップの近くの伏見区に引っ越しをして高校生活を迎え待望のオートバイの免許を取得出来る歳になります。

ちなみに当時は16歳で原付と自動二輪を取得出来ましたので何でも乗れちゃうことになります。

クルマが本命でも乗り物は全て興味の対象ですから自転車やバイクにもそれなりに懲りました。

クルマの運転は小学生よりレッスン?が始まり公道こそ走りませんでしたがガレージなんかではちょっと動かしたりしておりました。

この辺りから自動車生活は充実してきたのですが勉強はそっちのけですから親との確執がひどくなりDrの人生は歪んだものになり後に大変苦労を強いられるようになってきたのです(泣)。  

                            続く



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クルマ屋への道 その1

2005-10-27 19:51:04 | クルマ屋への道
クルマ好きなら誰しも一度くらいクルマ屋になりたいと思うでしょう。
何たって色々なクルマを見て触れて乗れるんですから!

私自身も夢はCGの編集部員かクルマ屋が理想だなんて嘯いていた口ですね(^^;。

クルマ屋になりたいからと言って誰しもなりません?!
どちらかいうとクルマ屋ってヤクザな商売ですね(苦笑)。

私自身も決して漠然とクルマ屋に対する憧れはあったもののあえて計画性が
あった訳でもなく、ましては脱サラで一旗揚げようと言う気もさらさらありませんでした。

どちらかいうとヒョンなことからクルマ屋になってしまったという極めて
不純な?動機かもしれません。

Drの生い立ちを少し書きます。

昭和○X年京都の右京区太秦で生まれました。
太秦と言えばあの映画村が有名です。

当時、クルマは全く一般家庭には普及してなく医者かタクシーか商用車くらい
しか走ってない時代でした。

医者が往診に自家用車で我が家に来ると「乗せて~」とダダを捏ねて一周乗せて
貰いました(笑)。

小さいながら商売をしていたので店で中古のトラックを買いました。
たとえ中古トラックと言えどもクルマには違いありませんから私(幼少)にと
ってはそれでも嬉しくて仕方ありません。
朝の6時頃から起き出しトラックの運転席に座りやれワイパー動かしたりミッション、クラッチ等のお勉強をしこたまやったものでした(苦笑)。

又、店の運転手が配達に行くときは必ず同行?します。
出入りの運送屋のトラックでも平気で乗り込みました(^^;。
たまに高級乗用車が来ると目の色が変わります(苦笑)。
運送屋のオヤジが黒セドリックに乗って来たときは急に運送屋の子になります(笑)

当時まだ名神高速道路は未開通の時代でした。
日本のモーターリゼーションは全く遠い頃でそれからずいぶんしてからマイカー
ブームなるものが始まりました。

今から思えば当時クルマを所有出来た人はとても幸せだと思います。
道路は未整備ながらガラガラですしある意味で本当に移動手段としてのクルマの
価値が発揮出来たと思います。

輸入車なんか本当に鎖国の時代で高い関税をかけられ一部のハイヤーくらいで
まずお目にかかれませんでした。

思い起こせば当時はクルマならなんでもよかったのです?!
トラックでもオート三輪でも・・・
そんな時代だったのですね!

当時の私は自動車大好き少年で雑誌の付録の「自動車手帳」なるものと毎日睨めっこですから国産車ならボディやインパネの一部を見ただけで「これはクラウン!」
とか当てられるまでにオタクでした(苦笑)。

この太秦時代はクルマ以外の学校の成績なども比較的優秀で末は博士か大臣かとまでは言われませんでしたが(笑)、夢は科学技術者でした。

しかし家庭の事情で転校を余儀なくされ比較的環境の良かった太秦から柄の悪い?
某地区(近所には五番町夕霧廊があります)に引っ越してからDrの苦難は始まるのでした・・                         

                                続く

上の画像は若いときののDr
下の画像は創設時のH.T.C

右の6畳一間のスズキハウスが事務所で社員はDr一人でありました(^^;

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