三日坊主日記

本を読んだり、映画を見たり、宗教を考えたり、死刑や厳罰化を危惧したり。

平川宗信『憲法と真宗』

2010年05月12日 | 仏教

平川宗信『憲法と真宗』という冊子をいただいた。
講師プロフィールに「真宗者として仏教に基づく刑法学の再構成を目指す」とある。
平川宗信氏が真宗者と名乗るのは、平川氏のおじいさんが西本願寺寺院の出身ということもあるが、和田稠先生の教えを受けたことが大きいそうだ。
平川宗信氏の話は、真宗の教えを生きようとする者が社会とどのように関わって生きていくか、そのことを教えてくれているように思う。
以下、長文無断引用。

「今の時代社会の中で真宗者としてどう生きていくのかというようなことについて話してくださる先生というのは、なかなか見つからないということがございました。
例えば、ある著名な先生の講演会に行きまして、後の質問の時間に、真宗者としてこの社会の中でどのように生きていったら良いのかと、色々な社会問題をどう考えたら良いんですかということを聞いたときに、それは自力だと言われたんですね」
「しかし、私は刑法を研究しているのでありまして、例えば、死刑というような社会問題について、これを廃しせよというのか、存置せよというのか、答えを迫られているわけです。そのときに、廃止すべきか存置すべきかというようなことを考えるのは自力だと言われてしまうと、考えようがないわけですね」
「真宗から離れて、そのことはこうだよということはできるわけでありますけれども、そうすると、真宗者としての自分と、刑法研究者としての自分が完全に分裂してしまうわけですね」
「そうなっていけば、結局、真宗とは違う流れに身を任せてしまうことになってしまって、真宗者としての自分というのはどこに行ってしまうのかということになるわけであります」
「真宗の信心というものは、いわゆる個の自覚、「自己とは何ぞや」という、そういう問題なのだと考えた場合には、社会問題は真宗の問題ではないということになっていくのかもしれません。しかし、私は、そういう社会の問題、政治の問題、あるいは憲法問題というようなものが、信心の問題にならないと考える方が不思議であります。私という一人の個人をとった場合でも、これは今の時代社会の中に生きているわけでありまして、自分というものを今の時代社会と切り離して考えることはできない。時代社会が、私自身に様々なかたちで働きかけている、影響を与えています。と同時に、私がどう働くかということが、時代社会に影響を及ぼしていくのでありまして、そういう時代社会から切り離された自己というものは、およそ考えられないわけであります。そういうところで、一体自分自身がどのように考え、どのように行動するのかということが、まさに自分の生き方の問題になるわけでありまして、それは、やはり、信心の問題である。自分が真宗に生きると言うのであれば、社会の中における自分の生き方は、やはり真宗者としての生き方になるはずであるし、それは真宗の教えから考えていかなければならないことなのだと、私は考えてきたわけです」
「往相回向とか、念仏の信の確立とかいうのは、それ自体が目的、ゴールであるのではなくて、それはむしろ出発点であるのではないか。念仏に生きる、本願に生きるという生活が始まる、そのスタートラインが往相回向であり、信の確立ということになるのではないかと思います」
「浄土の慈悲というのは一切衆生でありますから、世界中の人々、すべての生きとし生けるものに対する慈悲でなければならない。浄土の慈悲というのは、そういうものであると思います。
そうしますと、目を全世界に向けなければならない。そういうことになるわけで、世界全体に目を向けて、世界全体の人々、生きとし生けるものの苦を抜き楽を与える。それが真宗者の行動だ、ということになっていかざるを得ない」

まったくその通りだと思う。
どう生きるか、その方向を示すのが宗教である。
生きるということは社会の中で生活することであり、そこではさまざまな関わりが生じる。
その中で、どうしたらいいのか、どの道を選べばいいのか、宗教はその判断基準でもある。
宗教は単に心の安らぎということではないと思う。

追記
ゆうこさんのコメントをいただいて、ある神父さんのお話を思いだした。
この神父さんは、救世主としてのイエス・キリストよりも、自分がどのように生きるか、生き方のモデルとしてのイエスだと話された。
「神格化された救い主として拝む対象としてのイエス・キリストではなくて、一番中心になるのは実際に生きて、人々に語りかけた、そのイエスの教えと生き方、それがキリスト教の核になると思います。組織や教団ということではなくて、イエスという人がどんな教えを説かれたのか、どういう生き方をされたかということです。イエスは自分が語ったとおりに生きた人です。その結果が十字架での死と受けとめています。僕にとってはそこが中心かなと思うんです。
そこに焦点を絞って極端なことを言えば、キリスト教という組織とか宗教とかでなくても、イエスの教えに従い、自分の生き方のモデルとして生きようとする生き方もあるわけですよね。
救い主としてのイエスではなくて、イエスという人がどういう教えを説かれて、どんな生き方をしたのか、それを二千年後の私が受けいれて、その生き方を自分の生き方としてキリスト教徒として生きるということ。
組織とか宗教ということあとからついてくることであって、ナザレのイエスという一人の人間がこの地上にいて、その教えと生き方を自分の生き方と受けとめるということがまず第一です」

このお話は平川宗信氏の話されたことと通じると思う。
イエスのように自分も生きたいと願う、それがキリスト教徒だ、ということならば、仏教徒とは何かというと、釈尊のように生きたいと願う人のことだということになる。
そして、自分の一歩前を歩いている人としての親鸞を大切にすのが真宗門徒である。

コメント (18)
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