三日坊主日記

本を読んだり、映画を見たり、宗教を考えたり、死刑や厳罰化を危惧したり。

「死刑囚表現展」のアンケートと平野啓一郎『死刑について』(12)

2024年03月27日 | 死刑
⑭ 死刑は誰のためにあるのか
「死刑囚表現展」のアンートに「死刑は誰のためにあるのか」と問題提起するものがありました。
被害者や遺族のためというより、復讐が善だと考える第三者のためにあるように思います。

宮下洋一さんの死刑についての考えが『死刑のある国で生きる』に書かれています。
欧米人が死刑を廃止できたのは、人権という理想が、「赦し」という宗教的価値観に支えられているからではないのか。日本人の大半は、凶悪殺人犯を「赦す」ための信仰心は、備えていないように思える。
加害者をゆるすキリスト教文化圏の欧米とは日本は文化が違うということでしょうか。

バド・ウェルチさんとジョニー・カーターさんが加害者をゆるし、死刑に反対するのはキリスト教の影響が大きいと思います。
だからといって、恨みや憎しみを忘れずに敵討ちをすることが日本の文化ではありません。
菊池寛『恩讐の彼方に』に感動するわけですから。

イスラム教国の多くは死刑制度があります。
しかし、マレーシア(イスラム教が64%、キリスト教が9%)では2018年以来、死刑を執行されていません。
しかも2023年には、マレーシアの下院は殺人やテロを含む11の犯罪に必ず死刑を適用してきた強制死刑制度を撤廃する法案を可決しました。
死刑の存廃は文化、宗教で決まるわけではありません。

また、加害者に怒りや憎しみを持つことと、死刑を望まないことは矛盾しません。
平野啓一郎『死刑について』にこうあります。
もし僕の家族が犯罪によって殺されるようなことがあったら、僕は犯人を一生ゆるさないかもしれない。でも、僕は死刑を求めません。これらは両立可能なのです。

犯罪被害者が死刑を求めないからといって、犯人をゆるしたと考えるのは短絡的。
逆に、犯人をゆるせないなら、死刑を求めて当然だと考えるのも同じ。
どちらも被害者に勝手な思い込みを押し付けている。
怒りや恨みという感情と、死刑制度の是非は分けて考えるべきだと思います。

ところが、被害者が怒り、恨み、憎しみを持つのは当然だと考える人がいます。
平野啓一郎さんもこう語っています。
私たちは、被害者の感情を、ただ犯人への憎しみという一点だけに単純化して、憎しみを通じてだけ、被害者と連帯しようとしているのではないでしょうか?。

社会は、被害者は加害者を憎んで当然であり、憎まなければならないと思い込んでいる。
だから、被害者遺族が死刑を望んでいないと話すと、「身内が殺されたのに相手が憎くないのか」「愛する人が殺されたのに、死刑を望まないなんておかしい」「あなたは亡くなった人に対する思いが薄いんじゃないか」などと非難する人がいる。
そのため、ゆるすという形で苦しみを終わらせたいと思っている人が、苦しみを終わらせることができなくなってしまう。

犯人をゆるすなんて信じられないという人は、憎しみは理解できるから共感するが、ゆるしはわからないと突き放すのか。
偽善であり、本心じゃないはずだと批判するのか。

死刑に反対する被害者遺族の原田正治さんは非難されたことがあるそうです。
「良い被害者」と「悪い被害者」とがあるんです。仏壇に手を合わせ、冥福を祈り、黙って悲しみに耐えていく犯罪被害者が「良い被害者」なんです。「悪い被害者」というのは、表に出て、声を出し、国に文句を言い、自分の主張していく人です。さしずめ僕なんか悪い被害者なんでしょうね。僕みたいに声を出す被害者は異常なんです。直接面と向かって言われたこともありました。

平野啓一郎さんはこう問います。
もし、皆さんが殺されて、あの世から残された家族を見守っているとします。その時、家族の周りにただ、犯人への憎しみにだけ共感する人たちが集まり寄っている様が見えたとして、それは本当に喜ばしいことでしょうか?

「被害者の気持ちを考えたことがあるのか」と言う人は、「憎しみ」の部分にしか興味がなく、それ以外の部分で被害者の悲しみをどう癒やすかにはコミットしようとしない。

社会が被害者の抱えている憎しみ以外の複雑で繊細な思いを無視して被害者とかかわろうとするのなら、被害者と社会との接点は憎しみの一点だけになってしまう。
被害者は憎しみだけに拘束されるとしたら、それはあまりに残酷なことではないか。
手助けをしてくれる人たちが気づかってくれるなら、それは憎しみの連帯よりも望ましい。
コメント
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