三日坊主日記

本を読んだり、映画を見たり、宗教を考えたり、死刑や厳罰化を危惧したり。

日清戦争 2

2010年07月22日 | 戦争
日清戦争後の三国干渉で、今は臥薪嘗胆だと軍備が拡張された。
藤村道生『日清戦争』によると、「三国干渉は日本人に、さらなる軍備増強の必要を痛感させた。それだけではない。この戦争の結果、東洋には日本に対抗しうる国はもはや存在しない、今後は西洋の列強に対抗しうる国家にならなくてはいけないという観念を強固に植えつけた」
だけども、清からの賠償金のほとんどは軍備拡張に使われ、増税、物価騰貴により国民にとっては負担増となった。

そのころの貧困層の生活について、紀田順一郎『東京の下層社会』から引用。
残飯を食べる人たちが多くいたので、残飯屋という職業が成り立った。
明治24、5年ごろは、「上等の残飯が120匁(約450g)一銭、焦げ飯が170匁(約637g)一銭、残菜が一人前一厘だった。当時の米価相場は120匁三銭であるから、そのざっと三分の一である。残飯屋は仕入価格の五割増しで売るのであるが、細民にとっては何が何でもこれを入手しなければ生きていけないので、飯どきになると残飯屋の前に群れをなし、荷車から降ろすのをも待ちきれず、先を争うようにして二銭、三銭と買い求めていく」
深海豊二『無産階級の生活百態』(大正八年刊)という本によると、残飯屋が生まれたのは日清戦争のころだという。
「当時は兵隊の気が荒立って居て、真面目に七分三分の麦飯を喰って居る者はなく、毎日酒浸しになって居たので、炊いた飯は悉く残飯を造るようなものであったそうだ。そしてその残飯が無銭であるから、丸儲けをしたと云うは、其当時からの残飯屋の話である」
軍隊からただで残飯を仕入れていたわけだが、昭和に入ると近衛歩兵一聯隊は一貫目23銭という高値で払い下げていた。
大不況下の昭和初期、四谷鮫ヶ橋小学校児童398人のうち残飯を主食にしている者が104人。
ところが、残飯を食べることができるだけでもまだましらしい。
「大正時代に大阪の私立小学校では、残飯さえも買えない家庭の子供が」いて、「学校給食導入の端緒となっている」という。
溥儀が満州国皇帝に即位した昭和9年は大凶作で、岩手県では昭和9年10月時点で欠食児童が2万4000人、日本にそれほど余力があったわけではない。

藤村道生『日清戦争』には、労働者の置かれた状況の悲惨さが数字をあげて説明されている。
愛知県の繊維工場は労働者の拘束時間が長く、織物工場で12時間から16時間、製糸工場で11時間から17時間、旧式の紡績工場で15時間から17時間である。
通勤は不可能なので寮に寄宿することになるが、寄宿費がかかるので、見習い工の場合は賃銀が無給のものがかなり多い。
これでは『あゝ野麦峠』のほうがましである。
名古屋市とその近郊では三工場がマッチを生産していたが、470人の労働者のうち、10歳未満が87人、男工の83.1%は15歳未満、女工の42.3%は13歳未満だった。
彼らの賃金は出来高払いで、一日1銭5厘から3銭、熟練してもせいぜい5銭。
ということは、東京の残飯屋一食分である。

「政府は低賃銀を維持するために低米価を必要とした」が、そのためには安価な外米を輸入しなければならず、「朝鮮の支配と占領は、外米の安定的な供給のためにも」不可欠だったと、藤村道生氏は言う。
つまり、何のために日清戦争をしたのかの答えがこれである。
朝鮮の独立を進め、近代化を助けるというのがタテマエだが、ホンネは朝鮮の植民地化を進めて勢力を拡大したいということである。

日本の圧勝だったためか、正義の戦争と領土拡大の欲望という矛盾を自覚しなかった。
佐谷眞木人『日清戦争』では次のように指摘する。
「日清戦争は巨大な祝祭だった。このときの異様な高揚感は、その後もたびたび日本社会を包みこみ、国家を狂気の戦争へと導いた。日本がのちに太平洋戦争にいたるまで戦争を繰り返したのは、一般大衆が日清戦争を熱烈に支持したことを、起爆力としている」
日本の権益獲得というホンネと、大東亜共栄圏、五族共栄というタテマエで侵略を続けたわけである。
「日露戦争までの日本は健全なナショナリズムをもっていたが、その後におかしくなった」という司馬史観によって「隠蔽あるいは抑圧され、私たちが忘却している重大な事実があるのではないか」と佐谷眞木人氏は言う。
石光真人『ある明治人の記録』は、「武士によるクーデターの形式をとった強引な明治維新は、いわば未熟児ともいうべき、ひ弱な新政体を生んだ」と厳しい見方をしているが、明治という時代は坂の上の雲だけを見ていたわけではないのである。
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