あるお寺の寺報に中島隆信『お寺の経済学』が紹介されていて、なるほど、おもしろい。
コンビニは全国に4万軒、お寺の数は7万5千。
坊さんは約30万人、全従業者の200分の1なんだそうだ。
200人に1人が坊さんとなると、坊さんは珍しい職業ではない。
日蓮がなぜ攻撃的だったのか、説明がおもしろい。
宗教という市場において、一般庶民はすでに浄土宗と禅宗に奪われていた。
後発の参入者は既存業者から顧客を奪い取らなければならない。
しかし、信仰は商品のように簡単には取り替えられない。
したがって、信仰という市場の場合、新規参入者が顧客拡大を図るためには他宗に対して批判的にならざるをえない。
説得力があります。
中島隆信は、経済学と仏教は車の両輪だと言う。
五木寛之が、経済はアクセル、政治はハンドル、宗教はブレーキだ、と言っているが、自転車のたとえのほうがいいように思う。
寺は公益法人だが、寺にはどういう公益性があるのだろうか。
『お寺の経済学』の説明です。
商店で品物を買えば、店員が「ありがとうございました」と言う。
お金を受け取る側がお礼を言うのが普通である。
ところが、世の中には客のほうから「ありがとうございました」と言ってお金を支払う取引がある。
その相手は医師、教師、そして僧侶など。
どうしてなのか。
本来、僧侶の仕事とはそういうものだ。対価を要求しない。誰でも困っている人がいたら救いの手を差し伸べる。そしてお礼は後から受け取る。その金額はいくらでも構わない。
私たちが心から「ありがとうございました」といって僧侶に布施をできるかどうか、これがお寺の提供しているサービスの公益性をチェックする大きなポイントなのだ。
神社の賽銭―結果(ご利益)を期待しての前払い
寺院の布施―仏の慈悲、救いへの感謝
なるほど、病気が治れば、お金では表わすことのできない感謝の気持ちを医者に持つ。
我々は教師や医者から教育や治療を与えられるという期待を持っている。
そして、成績が下がったり、病気が治らないなど、結果が思うようにいかなかった場合、感謝はしない。
では坊さんはどうか。
おそらく、人は死者の救いを坊さんに期待していると思う。
しかし、死者が救われたかどうかはわからない。
だから、寺がつぶれずにやっていけるということです。
ところが、少子高齢化や核家族化といった世の中の変化は、お寺と檀家との安定した関係を崩しつつあり、今のままではじり貧である。
地域密着型寺院の場合は今まで通りの形で存続していくだろうが、檀家制度が崩れていくと予想されるお寺にとって、今後とも生き残っていくためには基本的に三つの道があると、中島隆信は言う。
1,葬祭全般のサービス業としての道―葬式仏教の完全なビジネス化
2,現世利益サービス提供の道
3,布教活動への道
実際、葬式のビジネス化にからんでいる寺はあるし、多くの宗派はすでに現世利益のサービスを提供している。
心から「ありがとうございました」と布施をいただくような布教活動への道は困難である。
中島隆信はさらにこう言う。
まずは信者に選択の自由を与えるべきである。そして本当にお寺に来たいと思う信者だけを改めて集めなおせばよい。そのとき、住職の真価が問われることになる。宗派の教えをわかりやすく説き、信者の心を引き付けることのできる僧侶が支持されるだろう。
これは厳しい。
もしも墓というつながりがなくなれば、寺と檀家との縁は簡単に切れてしまう。
そうなった時に、凡人住職が「信者の心を引き付ける」ことができるとは思えない。
どうしたらいいのか。