あるニヒリストの思考

日々の思いを綴る

国の最高権力者の自我の欲望について(自我その233)

2019-10-20 18:54:14 | 思想
人間は、欲望の存在者である。しかし、欲望は、人間に生来備わっているものではない。人間が自我を持った時に、深層心理に生まれてくるのである。深層心理とは、人間の無意識の心の働きである。表層心理が、人間の意識しての心の働きである。さて、人間に生来備わっているものは、欲望では無く、欲求である。欲求には、生命欲、睡眠欲、食欲、性欲などがあり、動物共通のものである。しかし、人間は、自我を持つと同時に、それに欲望が加わる。しかも、それ以後、人間は、人間社会において、欲望主体に生きるのである。それ故に、人間の欲望は、自我の欲望なのである。さて、自我とは、人間の、構造体の中で、あるポジションを得て、その務めを果たすように生きている、自分のあり方である。構造体とは、人間の組織・集合体である。人間の最初の構造体は、家族であり、最初の自我は、息子もしくは娘である。さて、自我の欲望には、他者に認められたい、他者を支配したい、他者と理解し合いたい・愛し合いたい・協力し合いたいという三種類のものがある。自我の欲望は、深層心理によって生み出される。深層心理は自我を対他化することによって、他者に認められたいという欲望を生み出す。深層心理は他者を対自化することによって、他者を支配したいという欲望を生み出す。深層心理は自我を他者と共感化させることによって、他者と理解し合いたい・愛し合いたい・協力し合いたいという欲望を生み出す。さて、人間は、いつ、いかなる時でも、常に、ある構造体の中で、ある自我を持って暮らしている。人間が社会的な動物であるということは、人間は、いつ、いかなる時でも、常に、組織・集合体という構造体の中で、ポジションを得て、それを自我として、その務めを果たすように生きているという意味である。さて、構造体、自我にも、さまざまなものがあるが、具体例を挙げると、次のようになる。家族という構造体には父・母・息子・娘などの自我がある。学校という構造体には、校長・教諭・生徒などの自我があり、会社という構造体には、社長・課長・社員などの自我があり、店という構造体には、店長・店員・客などの自我があり、仲間という構造体には、友人という自我があり、カップルという構造体には、恋人という自我がある。政治的なものとしては、日本という構造体には、総理大臣・国会議員・官僚・国民(日本人という庶民)という自我があり、都道府県という構造体には、都知事・道知事・府知事・県知事、都会議員・道会議員・府会議員・県会議員、都民・道民・府民・県民という自我があり、市という構造体には、市長・市会議員・市民という自我があり、町という構造体には、町長・町会議員・町民という自我がある。さて、自我を動かすのは、深層心理である。深層心理が、自我を主体に、言語を使って、論理的に思考して、感情と行動の指令という自我の欲望を生み出し、その人を動かそうとするのである。深層心理は、快楽を得ることを目的にして、自我の欲望を生み出している。これが、フロイトの言う「快感原則」である。深層心理は、自我を主体にして、快楽を得るために、対他化・対自化・共感化の機能を使い、思考し、感情と行動の指令という自我の欲望を生み出すのである。さて、対他化を細説すると、次のようになる。対他化とは、他者から好評価・高評価を受けたいと思いつつ、自我に対する他者の思いを探ることである。認められたい、愛されたい、信頼されたいという思いで、自我に対する他者の思いを探ることである。自我が、他者から、評価されること、好かれること、愛されること、認められること、信頼されることのいずれかが得られれば、喜び・満足感が得られるのである。次に、対自化を細説すると、次のようになる。対自化とは、自我が他者を支配すること、他者のリーダーとなることである。つまり、対自化とは、自分の目標を達成するために、他者の狙いや目標や目的などの思いを探りながら、他者に接することである。簡潔に言えば、力を発揮したい、支配したいという思いで、他者に接することである。自我が、他者を支配すること、他者を思うように動かすこと、他者たちのリーダーとなることのいずれかがかなえられれば、喜び・満足感が得られるのである。わがままな行動とは、深層心理の他者を対自化することによって起こる行動である。次に、共感化を細説すると、次のようになる。共感化とは、他者と理解し合いたい、愛し合いたい、協力し合いたいと思いで、他者に接することである。つまり、自我の共感化とは、自分の存在を高め、自分の存在を確かなものにするために、他者と心を交流したり、愛し合ったりすることである。それがかなえられれば、喜び・満足感が得られるのである。また、敵や周囲の者と対峙するための「呉越同舟」(共通の敵がいたならば、仲が悪い者同士も仲良くすること)という現象も、共感化の機能である。さらに、深層心理は、自我が存続・発展するために、そして、構造体が存続・発展するために、自我の欲望を生み出す。それは、一つの自我が消滅すれば、新しい自我を獲得しなければならず、一つの構造体が消滅すれば、新しい構造体に所属しなければならないが、新しい自我の獲得にも新しい構造体の所属にも、何の保証も無く、不安だからである。自我あっての人間であり、自我なくして人間は存在できないのである。だから、人間にとって、構造体のために、自我が存在するのではない。自我のために、構造体が存在するのである。このように、深層心理は、構造体において、自我を主体にして、対自化・対他化・共感化のいずれかの機能を働かせて、思考し、感情と行動の指令という自我の欲望を生み出している。そして、自我が存続・発展するように、構造体が存続・発展するように、思考し、感情と行動の指令という自我の欲望を生み出し、自我を行動させようとするのである。このように、人間は、まず、自ら意識せずに、深層心理が、まず、思考し、感情と行動の指令という自我の欲望を、心の中に、生み出すのである。そして、次に、表層心理が、深層心理の結果を受けて、それを意識し、深層心理が生み出した感情の中で、深層心理が出した行動の指令を許諾するか拒否するかを思考するのである。表層心理が許諾すれば、人間は、深層心理が出した行動の指令のままに行動する。これが意志による行動となる。表層心理が拒否すれば、人間は、深層心理が出した行動の指令を意志で抑圧し、表層心理が、意識して、別の行動を思考することになる。表層心理の意識した思考が理性である。一般に、深層心理は、瞬間的に思考し、表層心理の思考は、長時間を要する。感情は、深層心理が生み出すから、瞬間的に湧き上がるのである。そして、表層心理が、深層心理の行動の指令を抑圧するのは、たいていの場合、他者から侮辱などの行為で悪評価・低評価を受け、深層心理が、傷心・怒りなどの感情を生み出し、相手を殴れなどの過激な行動を指令した時である。表層心理は、後で、他者から批判され、自分が不利になることを考慮し、行動の指令を抑圧するのである。これが、フロイトの言う「現実原則」である。しかし、その後、表層心理で、傷心・怒りの感情の中で、傷心・怒りの感情から解放されるための方法を考えなければならないから、苦悩の中での長時間の思考になることが多い。これが高じて、鬱病などの精神疾患に陥ることがある。しかし、表層心理が、深層心理の行動の指令を抑圧しようとしても、深層心理が生み出した感情が強ければ、人間は、深層心理の行動の指令のままに行動することになる。この場合、傷心・怒りなどの感情が強いからであり、傷害事件などの犯罪に繋がることが多い。これが、所謂、感情的な行動である。また、人間は、深層心理が出した行動の指令のままに、表層心理で意識せずに、行動することがある。一般に、無意識の行動と言い、習慣的な行動が多い。それは、表層心理が意識・意志の下で思考するまでもない、当然の行動だからである。このように、人間は、深層心理の思考から始まるのである。表層心理(理性)の思考は、深層心理の思考の結果を受けてのものなのである。このように、人間は、深層心理が、「快感原則」に則り、自我を主体にして、快楽を得るために、対他化・対自化・共感化の機能を使い、思考し、感情と行動の指令という自我の欲望を生み出している。もしも、他者からの批判が無ければ、人間は、表層心理が、深層心理が生み出した行動の指令のままに行動することになる。戦前、日本という構造体の中で、軍部が自我の欲望のままに行動し、日本を太平洋戦争に導いたのは、他者である天皇・国会議員・マスコミ・国民(日本人という庶民)からの強い批判が無かったからである。戦後、せっかく、日本に民主主義がもたらされたのに、それを、否定し、戦前の上意下達の国家主義、全体主義国家に戻そうと考えている政党が権力を握り、首相に立ち続けている。言うまでもなく、その政党とは自民党である。現在、安倍晋三総理大臣が、あからさまな国家主義、全体主義の道をひたすら突き進んでいるのは、マスコミ・日本人という庶民からの強い批判が無いからである。野党が弱いことが原因だと言う人が多いが、実は、民主党政権を瓦解したのは、産経新聞・読売新聞・週刊新潮・週刊文春・週刊ポスト・週刊現代などのマスコミや東京地検特捜部・官僚などの国家公務員が、国民(日本人という庶民)を籠絡し、民主党政権が国民(日本人という庶民)の支持を失ったからである。だから、民主党で無くても、自民党以外の政党が政権を握ると、必ずや、その政権を倒すために、産経新聞・読売新聞・週刊新潮・週刊文春・週刊ポスト・週刊現代などのマスコミや東京地検特捜部・官僚などの国家公務員が、国民(日本人という庶民)を籠絡しようとして、手練手管を使い、暗躍するだろう。残念ながら、現在、この勢力に抵抗できるだけの能力と覚悟を持った野党の政党も、野党の国会議員も存在しない。だから、国民(日本人という庶民)自身が、この勢力に抵抗できるだけの能力と覚悟を持たなければいけない。そして、それは、不可欠なことなのである。なぜならば、日本という構造体は、国民(日本人という庶民)という自我を持った人のために存在するからである。しかし、戦後の自民党の国家主義、全体主義政策を、一貫して、国民(日本人という庶民)が支持してきたのである。そして、安倍晋三政権になって、自民党の国家主義、全体主義の野望がむき出しになったのである。その際立ったものが、秘密保護法案、安保法案、憲法改正案、原発再稼働である。自民党の憲法改正案において、戦前の大日本帝国憲法において、天皇主権、国民を臣民として規定したのと同様に、天皇を元首としてあがめ、国民の権利を国家権力の下位に規定している。異なっているのは、大日本帝国憲法においては、軍隊は天皇の指揮下にあったが、自民党の憲法改正案においては、自衛隊を国防軍とし、政権の指揮下に置いていることである。その自民党や安倍政権の考えを熱狂的に支持している国民(日本人という庶民)も少なからず存在する。右翼的な思想の持ち主たちである。しかし、この右翼的な思想の持ち主たちは、自民党の憲法改正案が成立したならば、徴兵制が導入され、日本が容易に戦争に加わり、戦争になれば、自分たちのほとんどが生き残れないことに気づいていない。自民党とそれを支える官僚たちと同じ考えをしている者しか生き残れないことに気づいていない。突撃隊は、ナチスの防衛組織であり、隊員は武器を持ち、ナチスの集会を防衛し、他派の集会への襲撃などを行って、ナチスの権力掌握に大いに献身したが、ヒトラーは国防軍との関係を重視し、1934年、レームら幹部を粛清し、消滅させた。どれだけナチスに貢献したとしても、役に立たなくなれば、消滅させられるのである。北一輝、西田税ともに、国家主義者・全体主義者であったが、皇道派の青年将校に思想的影響を与えたとされ、実際には、2・26事件に直接的に関与していなかったが、事件の首謀者とみなされ、1937年、軍法会議で死刑の判決を受け、銃殺された。当時の日本は、完全な国家主義・全体主義の国であったが、北一輝や西田税は、その時の政権の考えと合わなかったので、冤罪によって処刑されたのである。右翼的な考えの集団であっても、右翼的な考えの個人であっても、その時の政権の国家主義者・全体主義者と意見が一致しなければ、弾圧を受けるのである。ましてや、自由主義者、共産主義者は言うまでもない。ナチスも戦前の日本も、警察や憲兵を使って、自由主義者や共産主義者を逮捕し、拷問し、殺した。日本においては、現在確認されているだけでも、拷問によって殺された人は、80人以上いると言われる。逮捕された女性の中には、拷問されたあげく、レイプされたり、子供を生めない体にさせられたりした者がいる。戦後、せっかく、民主国家になったのに、国民(日本人という庶民)は、どうして、戦前の国家主義・全体主義の国に戻そうとするのだろうか。どうして、国民(日本人という庶民)は、秘密保護法、安保法、憲法改正、原発再稼働を許したのだろうか。どうして、国民(日本人という庶民)は、安倍自民党政権を許しているのだろうか。さて、人間は、欲望の存在者である。深層心理は、「快感原則」に則り、自我を対他化して、他者に認められたいという欲望を生み出し、他者を対自化して、他者を支配したいという欲望を生み出し、自我を他者と共感化させて、他者と理解し合いたい・愛し合いたい・協力し合いたいという欲望を生み出す。他者の批判が無い限り、人間は、深層心理が生み出した自我の欲望を満たすために行動しようとする。総理大臣は、日本という構造体の最高権力者である。それ故に、国民(日本人という庶民)の批判が無い限り、常に、国民(日本人という庶民)を思い通りに動かしたいという自我の欲望を持っているのである。日本という構造体の最高権力者である総理大臣が、国家主義者・全体主義者である場合、国民(日本人という庶民)を対自化して、戦争で、国民(日本人という庶民)を指揮したいという自我の欲望を持つのは当然のことである。

恋愛は深層心理であり、自らの意志には関係しない。(自我その232)

2019-10-19 18:20:02 | 思想
人間は、考える動物である。しかし、初めから、自ら意識して考えるのではない。無意識のうちに、思考することから始まるのである。つまり、深層心理の思考から始まるのである。そして、その思考の結果を受けて、意識しての思考が行われるのである。意識しての思考とは、表層心理の思考である。しかし、多くの人は、自らの思考は、表層心理の思考で終始すると誤解している。さて、人間は、他者に面した時、他者に対して、深層心理が、無意識のうちに、自我を対自化、対他化、共感化のいずれかをして、思考し、感情と行動の指令を生み出し、自我を動かそうとする。表層心理は、深層心理の思考の結果を受けて、深層心理が生み出した感情の中で、深層心理が出した行動の指令の採否を、意識して思考し、採用の結論を出せば、行動の指令のままに行動し、不採用の結論を出せば、行動の指令を抑圧し、行動しないようにするのである。また、自我とは、構造体におけるポジションを、自分だとして、行動するあり方である。構造体とは、人間の組織・集合体である。例えば、日本という構造体には、日本人などという自我があり、家族という構造体には、父・母・息子・娘などの自我があり、学校には、校長・教諭・生徒などの自我があり、会社には、社長・課長・社員などの自我があり、仲間には、友人という自我があり、カップルには、恋人いう自我があるのである。さて、深層心理による対自化とは、他者に面した時、他者の心の中を探ったり、動物の行動の目的を探ったり、物の利用価値を考えたり、事の意味を考えたりするあり方である。つまり、自我が中心になって、積極的に関わっていくあり方なのであり、自我を他者の上位に置いているのである。深層心理による対他化とは、他者に面した時、自我が他者からどのように見られているかを意識するあり方である。つまり、自我を受け身の立場にして、評価を確認する行為なのである。この時、自我を他者の下位に置いている。深層心理による共感化とは、他者を、自我と愛し合う存在として、友情を交わし合う存在として、協力し合う存在としてみることである。呉越同舟(仲の悪い同士でも、共通の敵に対する時には、協力し合うこと。)も、共感化である。カップル、仲間という構造体も、共感化によって成立する。この時、自我は、他者と、対等の地位である。さて、恋愛感情を持つのも、深層心理の働きである。いつの間にか、ある人を好きになっていたのである。人を好きになることは、自我が他者を評価したのであるから、深層心理による対自化の働きであるが、それと同時に、相手にも自我を好きになってもらいたい気持ちが起こるのである。それは、深層心理による対他化の動きである。つまり、恋愛感情とは、深層心理が起こし、対自化の働きと対他化の働きの両化によって、形成されるのである。そして、その後、相思相愛の関係になれば、カップルという共感化の構造体ができるのである。さて、恋愛感情だけでなく、深層心理による対自化と対他化は、車の両輪のように、人間の心理と行動の全てを動かしている。もちろん、相思相愛が成立し、カップルという共感化の構造体が創造されたならば、男女二人とも、深層心理の対自化、対他化ともに、満足している状態にあるということを意味している。しかし、どのような恋愛も、互いの心に、深層心理による共感化が成立するまでには、深層心理による対自化の働き(相手への愛情)だけでは成立せず、深層心理による対他化の働き(相手からの愛情)が満足されることが加わって、初めて、可能になるのである。それ故に、恋愛は、深層心理による対他化の働き(相手からの愛情)が満足されるか否かによって、喜びと哀しみが生じるのである。さて、日常生活においては、深層心理による、対自化と対他化が交互に訪れ、両化が同時に満足された時、深層心理による共感化が訪れる。たとえば、男性が、女性と昼食を共にしている時、「何を食べたいのかなぁ。」と考えている時に、深層心理が女性を対自化している。女性の笑顔を見て、「この人は、私を信頼している。」と思った時、深層心理による対他化が満足されたのでいる。しかし、人間は、動物や物や事柄に対しては、深層心理は、対自化のあり方しかしない。なぜならば、それらには心が無いので、それらが自分をどのように見ているかを考える必要が無いからである。だから、虎に対しては、危険だから近付かないようにしよう、掃除機に対しては、それを使って掃除しよう、太平洋戦争に対して、日本にどのような損害をもたらしたのか考えるなど、自我がそれらに対して、一方的に思いを馳せるのである。しかし、動物でも、ペットは異なる。人間は、ペットを人間のように扱い、自我を信頼していると思ったり、愛情を持っていると思ったりなど、深層心理は、対他化のあり方で接している。人間のように、可愛く感じているのである。そのために、家族と同等にペットに執着し、ペット依存症になる人間まで存在するのである。また、ある人がセーターを買おうとし、寒さをしのぐにはどのセーターが良いかと考えている時、対自化してセーターを見ている。そして、そのセーターが自分に似合うかどうか、つまり、他者から自我がどのように思われるかを想像している時、深層心理は、対他化のあり方をしている。また、野球の試合中、ピッチャーが、バッター投げる時、深層心理は、対自化のあり方をしている。バッターに打たれないように、バッターだけを見ているのである。そして、敵チームを押さえた後、観客の声援に応え、ヒーローの気持ちを味わっている時、深層心理は、対他化のあり方をしている。また、入学試験や入社試験で、必死に問題を解いている時、人間の深層心理は、対自化のあり方をしている。ふと、「この試験に受かったら、両親が褒めてくれるだろう。」と思った時、対他化のあり方をしている。また、ゲームをしていて、無我夢中でゲームに打ち込んでいる時、深層心理は、対自化のあり方をしている。そして、突然、誰かに声をかけられ、自我がどのように見られているか考える時、深層心理は、対他化のあり方になる。つまり、深層心理の対他化には、他者の立場に立ち、自らを対象化して見ることでもあるのである。また、女性が化粧をしている時、男性が髭剃りをしている時、男女とも、道具を使って、自らの顔に働きかけている間は、深層心理は、対自存在のあり方をしている。しかし、化粧や髭剃りが終わった時から、男女とも他の人に目を意識するから、その時点から、深層心理は、対他存在のあり方をする。しかし、人間は、自らの意志で、つまり、表層心理で、対自存在、対他存在の両方のあり方のどちらかを選択しているのではない。深層心理が、必要に応じて、この二つのあり方のどちらかを選択して、思考しているのである。そうして、深層心理は、ある感情と行動の指令を生み出し、それを意識に上らせる。それを受けて、表層心理は、深層心理が生み出した感情の中で、深層心理が行動の指令の通りに行動するかしないかを思考するのである。表層心理は、深層心理の出した行動の指令のままに行動するとのような状態に陥るかを予想して、自らの行動を決めるのである。しかし、表層心理で、行動の指令を抑圧しようとしても、深層心理が生み出した感情が強すぎると、表層心理は抵抗できず、深層心理の思うままに行動することになってしまうのである。大抵の犯罪は、深層心理が生み出した感情が強いので、表層心理の抑圧が功を奏さず、深層心理が出した行動の指令のままに行動したことによって起こるのである。そうして、行動した後、深層心理が弱まると、後悔するのである。このように、常に、人間の思考は、無意識の心の働きである、深層心理から始まる。深層心理が、感情とそれに伴う行動の指令を考え出すのである。そのすぐ後で、表層心理が、深層心理の思考の結果を受けて、意識して、深層心理が生み出した感情の中で、深層心理が出した行動の指令の採否を考え、その結果、人間は、行動するのである。しかし、動物には、深層心理と表層心理の区別が存在しない。だから、動物は、迷うこともなく、将来のことを考えることもない。さらに、動物には、対他存在のあり方は存在しない。だから、彼らは、常に裸であり、他の動物がいる前で、小動物を襲って食べ、排泄し、交尾できるのである。しかし、動物の雄は、雌を争うことがあっても、殺し合うことはない。対他存在のあり方が無いからである。雄は、雌をめぐって戦うことはあっても、勝った雄は負けた雄を決して殺さない。また、負けた雄も、決して、ストーカーにならない。動物には、カップルという共感化の構造体が存在しないからである。さて、人間の中には、人を好きになっても、「私は片思いで良い。」と言う人がいる。しかし、それは、決して、本心ではない。好きな人ができて、相手の気持ちが自分に向かわなくても良いと思う人はいない。確かに、相手に告白しないで、ただ黙って遠くから見ているだけの人が、男女とも、数多く存在するのは事実である。しかし、それは、自分の気持ちを告白して、交際を申し込んでも、相手から断られる可能性が高く、恥をかきたくない(心が傷付きたくない)から、黙っているのである。深層心理の対他化(相手から好かれたいという思い)によって、自我が傷付くのを恐れているのである。それが、意志という表層心理の抑圧の行動である。しかし、そのような人も、恋愛感情が高まると、思い切って、告白してしまう。黙っていることに、我慢できなくなったのである。恋愛感情という深層心理の高まりを、告白した後のことを想定して、傷つくことを回避する表層心理が押さえることができなかったのである。つまり、自分は相手に恋愛感情を持っているのに、相手がそれに気付かず、自分に愛情を注いでくれないことに対して、堪えられなくなったのである。言うまでも無く、人を好きになるという現象は、表層心理の意志の作用ではなく、深層心理の作用である。だから、誰しも、いつの間にか、そうなってしまったのである。だから、好きになることを、「恋に落ちる」や「恋に陥る」などと表現するのである。さて、恋愛の動機になる、外見と中身についてであるが、人は、よく、「人間は中身が大切だ。外見ではない。」と言う。しかし、中身は、外から見えない。外見から、中身を判断するしかないのである。だから、外見つまり外面性(顔・しぐさ・態度・ステータス(社会的な位置・地位・身分))と、中身つまり内面性(思いやり・性格・気質)は、相反するものではなく、むしろ、深い繋がりがある。一般に、男性は、可愛い人、美しい人、色っぽい人、スタイルの良い人を好きになる傾向がある。つまり、外面的に魅力のある人である。そこに、優しく、柔らかなしぐさが加わる。一般に、女性は、社会的に力のある人や有名な人(若手政治家、医師、弁護士、スポーツ選手、俳優、芸能人)とイケメン(爽やかな人)を好む傾向がある。つまり、男女とも、外面性に引かれるが、女性は、それ以外に、社会的にステータス(地位、身分)に秀でた人にも好意を寄せるのである。それも、外面である。つまり、外面によって、内面を想定するのである。ちなみに、女性が、イケメンと声高に言うようになったのは、最近のことである。女性は、普遍的に、有名人や実力者を好む傾向がある。だから、古代ローマの将軍のアントニウスにクレオパトラが近づき、唐の玄宗皇帝が楊貴妃を侍らせ、フランス皇帝のナポレオンに美女のジョセフィーヌが嫁いだのである。平安時代の女性にとっての憧れの男性である「よき人」は、身分が高く、教養(和歌、笛、漢詩などの才能)のある人だった。江戸時代の女性にとっての憧れのイケメンは、歌舞伎役者だった。現代では、プロ野球選手と美人女子アナウンサーがよく結婚する。それは、有名人や実力者に美女だけが近づいていくという意味ではなく、有名人や実力者に多くの女性が近づき、彼らは、その中から、美女を選んで、結婚するという意味なのである。さて、このように、男女は問わず、大抵の人は、外見やステータスから人を好きになるのだが、外見やステータスの基準が時代ごとに変遷している。しかし、同時代の人々は、他者への同一化という深層心理によって、同じタイプの人を好きになる傾向があるう。他者への同一化とは、簡単に言えば、人のまねをする傾向である。わかりやすい現象は、流行を追う傾向である。具体的に例を挙げれば、次のようなことである。弟が持っている玩具を兄もほしくなってしまう。兄弟喧嘩になり、弟が泣かされるので、甘い親は、同じ玩具を二つ買う羽目になる。女子高校生は、他の生徒がルーズソックスをはいているのを見て、自分もはきたくなるのである。ブランド品を買いあさる女性たちは、他の女性がブランド品を身に着けているので、自分もほしくなったのである。現代の男性の多くが胸の大きな女性を好むのは、周囲の男性やマスコミが大きな胸の女性をちやほやするからである。だから、若い女性の多く胸を大きくするように努力し、豊胸手術をする人までいるのである。しかし、四、五十年前は、胸の大きな女性よりも胸の小さな女性の方が評価が高かったのである。男性から、胸の大きな女性は頭が悪いと思われていたからである。だから、胸の大きな女性は、むしろ、さらしなどでそれを隠そうとしていた。現在、小顔が好まれ、流行して、若い女性を中心に化粧などによって小顔に見せようと努力している。これは、これまでの日本の歴史に存在しなかったことである。四、五十年前の女優は、現代から見ても、美人だと言えると思うが、その顔は、現代から見ると、大きい部類に属する人が多かったと思う。小顔の女優は、現代でも、活躍している。吉永小百合がその一人である。彼女は、小顔だからこそ、現代でも人気があるのだろう。平安時代は、顔がふっくらした女性、江戸時代は、浮世絵を見てもわかるように、顔が目立つ人が好まれた。だから、平安時代や江戸時代の男性の多くは、顔の大きさには、全くこだわらなかったと思われる。また、現代の女性は、二重瞼を美の条件にしているが、平安時代の女性は、一重瞼の切れ長の目が推奨された。そして、現代において、若い女性の多くは、肌をできるだけ白く見せようとし、男性もそれを好む傾向がある。顔の白さだけは、どんな時代にも通用する、所謂美人の条件のように思われ、「色の白いは七難隠す」と言われてきた。しかし、これも、四、五十年前には、夏目雅子という女優が、テレビのコマーシャルで、水着を付けて、小麦色の肌をアピールすると、若い女性はわざわざ肌を焼くようにし、男性たちは、白い肌の女性よりも小麦色の肌の女性を好んだ。このように、美の基準は、時代の変遷とともに、変化しているのである。そして、男性も女性も、無意識のうちに、時代の美の基準に自らを順応させて、外面を修整したり、人を好きになったりしているのである。これが、他者への同一化の意味である。もちろん、人を好きになるということは、深層心理のなすことだから、自分自身はそれに気づいていないのである。

深層心理がもたらす苦悩について(自我その231)

2019-10-18 17:33:55 | 思想
石川啄木の短歌に、「不来方(こずかた)の お城の草に 寝転びて 空に吸はれし 十五の心」というものがある。テレビの青春ドラマでも、苦悩している、主人公の高校生が、砂浜に仰向けになって寝ころび、大きく体を広げ、青青を広がった、高い空を見上げる場面を見たことがある。人間は、一生、何かに悩むものだが、青春期は、特に傷付きやすく、友人、恋愛、家族、進路などについて悩むのである。確かに、芝生や砂浜に寝転び、高い空を眺めていると、悩んでいる自分の存在がちっぽけなものに思え、悩みもどこかへ吹き飛んでいくような気持ちになる。それで悩みが解消すれば、それで良いだろう。それについては、ウィトゲンシュタインの次の言葉が至言である。「大抵の場合、問題が解決したから、悩みが解消したのではない。その問題がどうでもよくなったから、悩みが自然に消えていったのである。」からである。それは、それまで、自分は、悩みに圧倒されていたのに、悩みに向かっていこうという気持ちになることはできたからである。あるテレビ番組で、「自分探しをするために旅に出る若者」を主題として取り上げていた。その時、コメンテーターの一人が、「旅に出ても自分が見つかるわけはない。現実の自分をしっかり見つめることが大切なのです。」と発言した。しかし、旅に出た若者は、自分が活躍できる場所を探すために、旅に出たわけではない。数日すれば、必ず、現在の場所、現在の生活に戻る。それでは、なぜ、旅に出たのか。それは、現在の自分を見つめ直すためである。それは、芝生や砂浜に寝転び、高い空を眺めることと同じである。さて、人間は、いついかなる時でも、常に、ある構造体に所属し、ある自我を持って行動している。構造体とは、家族、学校、クラス、クラブ、会社、店、仲間、カップルなどの人間の組織・集合体である。自我とは、構造体における、自分のポジションを自分として認めて行動するあり方である。構造体と自我の関係については、次のようになる。家族という構造体では、父・母・息子・娘などの自我があり、学校という構造体では、校長・教頭・教諭・生徒などの自我があり、クラスという構造体では、担任・クラスメートという自我があり、クラブという構造体では、顧問・部員などの自我があり、会社という構造体では、社長・会長・部長・課長・社員などの自我があり、店という構造体では、店長・店員・客などの自我があり、仲間という構造体では、友人という自我があり、カップルという構造体では、恋人という自我があるのである。さて、言うまでも無く、人間は、思考の結果、動く動物である。しかし、最初の思考は、無意識という深層心理が行うのである。深層心理が、人間の無意識のうちに、思考し、感情と行動の指令を生み出すのである。その後、表層心理が、深層心理が生み出した感情の中で、深層心理が出した行動の指令の採否を、意識的に、思考するのである。深層心理が、自我を生かすために、自我を対他化・対自化・共感化して、思考して、感情と行動の指令を生み出すのである。深層心理が、無意識的に、対他化・対自化・共感化のいずれかの機能を働かせて考えて、感情と行動の指令を生み出すのである。表層心理が、深層心理の思考の結果を受けて、深層心理が生み出した感情の中で、深層心理が出した行動の指令の採否を、意識的に、思考し、採用すれば、そのまま行動し、不採用ならば、行動の指令を抑圧するのである。さて、対他化とは、深層心理が、自我が他者から好評価・高評価を受けたいと思いつつ、自我に対する他者の思いを探ることである。対自化とは、深層心理が、自我の目標を達成するために、他者の狙いや目標や目的などの思いを探りながら、他者をリードすることである。共感化とは、深層心理が、自我の力を高め、自我の存在を確かなものにするために、他者と愛し合い、敵や周囲の者と対峙するために、他者と協力し合うことである。さらに、深層心理は、自我を構造体の存続・発展のために尽力させるが、それは、構造体が消滅すれば、自我も消滅するからである。だから、人間にとって、構造体のために、自我が存在するのではない。自我のために、構造体が存在するのである。さて、人間は、一生、何かに悩むものであるが、それは、共通して、自我が他者から悪評価・低評価を受けた時に起こる。例えば、友人から、「おまえは馬鹿だ。」と言われた時などに起きる。人間は、構造体の中で、深層心理が、常に、自我を対他化して、自我が他者から好評価・高評価を受けたいと思いつつ、自我に対する他者の思いを探っている。仲間という構造体の中でも、深層心理は、常に、自我を対他化して、自我が友人から好評価・高評価を受けたいと思いつつ、自我に対する友人の思いを探っている。その時、友人から、「おまえは馬鹿だ。」と言われた。深層心理は、思考して、自我が友人から悪評価・低評価を受けていることに気付き、傷心・怒りの感情とともに、侮辱した友人を殴れという行動の指令を出す。殴ることによって、侮辱した友人を下位に落とし、下位に置かれた自分の地位を取り戻し、プライドを取り戻すのである。しかし、そのすぐ後、表層心理が、深層心理の思考の結果を受けて、深層心理が生み出した傷心・怒りの感情の中で、深層心理が出した友人を殴れという行動の指令の採否を、意識的に、思考するのである。表層心理は、思考の結果、深層心理が出した友人を殴れという行動の指令の不採用にし、その行動の指令を抑圧する。なぜならば、友人を殴れば、仲間という構造体から追い出され、周囲の顰蹙を買い、殴られた友人が復讐する可能性が高いからである。しかし、表層心理は、深層心理が出した友人を殴れという行動の指令を抑圧し、その行動を取らないならば、別の行動を考えなければならなくなる。そうでなければ、悪評価・低評価を受けたということから来る、傷心・怒りの感情も消えず、下位に置かれた自我の地位を取り戻すこともプライドを取り戻すこともできないからである。しかし、なかなか、別の方策が思い浮かばない。たとえ、思い浮かんでも、その方策に自信が持てない。そこで、更に、別の方策を考えようとする。そうして、傷心・怒りの感情の状態が続く。このような状態、つまり、傷心・怒りの感情の状態のまま、下位に置かれた自我の地位を取り戻すこと、プライドを取り戻す方策を考え続けている状態が、悩むということなのである。つまり、悩むとは、自我の修復の方策が見つからないので、苦痛の状態が継続している状態を指すのである。それでは、苦痛の原因は、何か。言うまでも無く、それは、友人からの「おまえは馬鹿だ。」という言葉である。それでは、苦痛をもたらしたのは、何か。深層心理の対他化である。深層心理が、友人からの「おまえは馬鹿だ。」という言葉を聞き、自我が下位に置かれ、プライド失ったと認識し、傷心・怒りの感情という苦痛を呼び起こしたのである。換言すれば、表層心理が、深層心理がもたらした課題を考えているのである。しかし、この課題とは、重要なものではない。生きるか死ぬかというような問題ではないからである。プライドを取り戻すことが、課題だからである。だから、この場合、友人に、「なぜ、このようなことを言うのか。」と尋ねれば、良いのである。そうすれば、友人は、その理由を話す。そして、それに対して、自分も話す。そうして、理解を深めていけば、自分一人で思い悩むことでは無かったことがわかるのである。誰しも、後で、その時のことを振り返って、「どうして、あんなことで悩んでいたんだろう。」と疑問に思うことがしばしばあるのである。先に述べた、哲学者のウィトゲンシュタインの「大抵の場合、問題が解決したから、悩みが解消したのではない。その問題がどうでもよくなったから、悩みが自然に消えていったのである。」という言葉は、悩みの内実を解き明かしている。人間とは、深層心理の対他化中心の動物である。プライドに囚われた動物である。人間は、プライドが傷つけられた時、心に動揺をきたし、それを回復するために、深層心理が、その人間に、近視眼的な行動を取らそうとするのである。それ故に、表層心理が、冷静に対処する必要があるのである。


構造体の中で役を演じ、成りきることが自我である。(自我その230)

2019-10-17 17:46:06 | 思想
私たちは、毎日、朝目覚めた瞬間から、眠りに落ちる瞬間まで、ある構造体の中で、あるポジションを得て、その役を演じて暮らしている。構造体とは、人間の組織・集合体である。たいていの人は、目覚めた時と眠りに落ちる時の構造体とポジションは同じである。つまり、家族という構造体の中で、父・母・息子・娘というポジションで起き、それらしく振る舞い、そして、それらしく振る舞いながら、父・母・息子・娘というポジションで眠るのである。たとえ、独居老人や独身者やホームレス生活者であろうと、一人生活者という構造体の中で、起き、それらしく振る舞い、そして、それらしく振る舞いながら眠るのである。私たちは、朝起き、準備し、家やアパートやマンションなどを出発すると、会社などという構造体に行き、部長・課長・社員などというポジションを得て、それらしく振る舞い、店などという構造体に行き、店長・店員などというポジションを得て、それらしく振る舞い、中学校などという構造体へ行き、一年生・二年生・三年生などというポジションを得て、それらしく振る舞い、高校などという構造体へ行き、一年生・二年生・三年生などというポジションを得て、それらしく振る舞って、終業時間になると、別の構造体に向かうか家族という構造体のある家やアパートやマンションに向かうのである。このように、私たちは、いついかなる時でも、何らかの構造体に所属して、何らかのポジションを得て、それらしく演じながら、暮らしているのである。役を演じることが、私たちの暮らし方なのである。私たちに与えられたポジションが、役を演じさせるのである。私たちは、その役に成りきって、つまり、そのポジションに浸りきって暮らしている。そのポジションに浸りきって、その役に成りきって演じているあり方を、自我と言う。言い換えれば、自我とは、ある構造体の中で、あるポジションを自己として活動するあり方である。さて、ドラマや映画にも、必ず、俳優が登場し、その役になりきって、演技する。私たちも、いついかなる時でも、何らかの構造体に所属して、何らかのポジションを得て、その役を演じながら、暮らしている。しかし、俳優と私たちには、明確な違いがある。俳優は意識して、つまり、表層心理で、その役を演じている。しかし、私たちは、深層心理で、役を演じている。つまり、そのポジションの人間に成りきっているのである。だから、演じているのに気付いていない。意識して演じているのではなく、それになりきって演じているからである。つまり、そのポジションそのものなのである。俳優には、名優と大根役者がいる。名優とは、その役柄にはまり、演じているように感じられない人のことを言う。大根役者とは、その役柄に成りきれず、わざとらしく演じているように感じられる人を言う。しかし、私たちには、名優も大根役者もいない。演技そのものが自己表現だからである。それが、すなわち、自我である。しかし、若い女性が、同じようなしぐさをしても、「かわいい」と言われる人と、「ぶりっこ」と言われる人がいる。「かわいい」と言われる人は、そのしぐさが演じているように見えない人であり、「ぶりっこ」と言われる人は、そのしぐさがいかにも演じているように見える人である。だから、「かわいい」と言われる人は名優であり、「ぶりっこ」と言われる人は大根役者である。しかし、どちらもかわいらしさを演じていることは同じである。しかし、「かわいい」と言われる人は、無意識的に、かわいらしさを演じているように見え、つまり、かわいい女性に成りきっているから、そのように言われ、「ぶりっこ」と言われる人は、意識的に、かわいらしさを演じているように見えるから、そのように言われるのである。しかし、どちらもかわいい女性に成ろうとしているのである。しかし、そばの人間は、そのしぐさが演じているように見えない人を「かわいい」と言い、そのしぐさが演じているように見える人を「ぶりっこ」と言うのである。ドラマや映画でも、女優が、かわいい女性を演ずることがある。観客から、「かわいい」と思われる人は名優であり、「ぶりっこ」と思われる人は大根役者である。もちろん、ドラマや映画は現実生活とは異なるから、女優は、意識的に、意志で、かわいい女性を演ずることになる。しかし、名優は、その世界に浸りきり、無意識的に、かわいい女性を演じることになる。つまり、かわいい女性になる。それは、言い換えれば、かわいい女性がその女優に憑依したのである。さて、かわいいとはどういう意味であろうか。辞書では、「小さくて美しい」と記されている。明確では無いのである。また、かわいいは、美しい、きれいだという言葉との意味の違いはどこにあるのだろうか。ある辞書には、かわいいは「小さくて美しい」、美しいは「整っていて、賞美すべきだ」、きれいだは「上品で美しい」と出ているが、これも、明確では無いのである。しかし、かわいい女性、美しい女性、きれいな女性の違いは、言葉にはできないが、たいていの人は理解している。それは、深層心理で理解しているからである。ウィトゲンシュタインが言うように、「言葉の意味を言えなくても、正しい使い方をしていれば、言葉の意味を知っていることを意味する。」ということなのである。それは、サッカーや野球を説明できなくても、観戦できたり、試合できたりすれば、サッカーや野球を知っているという意味と同じである。深層心理でサッカーや野球を知っているから、言葉では説明できないのである。深層心理とは、人間の無意識的な心の働きであり、瞬間的に思考する機能である。深層心理とは、何かに反応して、思考し、判断を下す。だから、深層心理は、「かわいい(女性)」と「ぶりっこ」を明確に説明できないが、実際に、若い女性のしぐさを見て、それに反応し、思考し、「かわいい(女性)」もしくは「ぶりっこ」と判断を下すのである。それは、構造体や(ポジションとしての)自我についても言えることである。機能すれば、正しい構造体であり、正しい自我のあり方をしているということなのである。さて、人間の最初の、そして、最も基本的な構造体が、家族である。家族という構造体の中で、それぞれが、父・母・息子・娘・祖父・祖母などの自我を持って、深層心理が、(無意識的に)、その役を演じている。もちろん、我が家族以外に、他の家族という構造体が存在する。そこで、私たちは、他の家族という構造体、他の家族という構造体の自我から、家族という構造体、家族という構造体の自我のあり方を学ぶのである。また、テレビ番組のホームドラマは、家族という構造体を模したものである。実際の家族を模して、ホームドラマが作られ、そして、ホームドラマが実際の家族の在り方に影響を与えている。ホームドラマは、家族の中に起こる問題を、いろいろな自我にさまざまな影響を与え、いろいろな自我がさまざまに関わり、それが、家族全体にどのように影響を与え、どのように変化し、どのように解決していったかを描いたドラマだからである。私たちは、ホームドラマからも、家族という構造体、家族という構造体の自我のあり方を学ぶのである。そして、家族という構造体は、血縁関係を基にした構造体である。だから、血縁関係の無い者が家族に加わると、拒否反応を示す自我が存在するのは当然のことである。子供を持つ女性が、よく、再婚したり、内縁関係になったりした男性を家族という構造体に入れるが、そこに悲劇が生ずるのは当然のことである。子供にとって、母の愛する人と言えども、血縁関係の無い、他人の大人の男性にしか過ぎないからである。他人の大人の男性が、自分に命令すると、子供は素直に従えないのである。子供は、息子や娘という自画を演ずる気にならないのである。そこで、プライドを傷付けられた大人の男性は、子供に暴力を振るったり、子供を殺したりするのである。しかも、女性は、母という自我を演じず、妻や恋人と愛人という自我を演じるから、子供は救われないのである。


悪なる心について(自我その229)

2019-10-16 17:31:11 | 思想
テレビ画面で、よく、警察に逮捕され、パトカーに乗せられる犯罪者、パトカーに乗せられた犯罪者が映し出される。ある者はフードをかぶり、ある者は顔をうつむけ、悄然として、そして、茫然として、マスコミのカメラの前にいる。確かに、罪を犯した者は、償わなければならない。しかし、罪という言葉には、自分の行動は全て自分の意志から発し、人間は意識的に行動しているという意味が含まれている。しかし、それは誤解である。なぜならば、まず、人間の心の中に生まれて来る感情、そして、その感情に伴った行動は、自分の意志ではないからである。言わば、自分の意志と関わりなく、無意識の中で、生まれて来るのである。例えば、男性によくあることだが、ある人の言動に対して心が傷付き、怒りを覚え、殴ってやりたいという思いが湧いてくる。しかし、その傷心・怒りの感情も殴ってやりたいという思いも、自分の意志ではない。自分の心の中で生まれたものであるが、自分の意志によって生み出したものではない。深層心理が、人間の無意識の中で、心が傷付き、その傷付いた心を復興させるために怒りの感情とともに殴れという行動の指令を生み出したのである。しかし、大抵の人は、殴った後のことを考えて、自分の意志で、殴れという行動の指令を抑圧し、殴ることをやめる。それが、表層心理の働きである。しかし、深層心理が生み出した怒りの感情が強ければ、表層心理による意志の抑圧が功を奏さず、深層心理が出した殴れという行動の指令を抑圧できないのである。そして、殴ってしまうのである。殴ってしまえば、罪に問われなくても、相手から復讐され、周囲から顰蹙を買い、不利な状況に追い込まれる。殴った男性の表層心理は、殴った後の状況が予測できないわけではない。だから、深層心理が出した殴れという行動の指令を抑圧しようとするのだが、深層心理が生み出した怒りの感情が強いので、抑圧しきれないのである。もちろん、たとえ、深層心理が出した指令であろうとも、殴ったのは事実だから、その責めを負うのは当然のことである。しかし、犯罪を含めて、人間の行動は、自らの意志によって生み出されるのではなく、意志とは関わりの無いところで、行動の指令が出されているのである。だから、根っからの悪人は存在せず、確信犯は存在しないのである。つまり、人間の心の中には、無意識という、自分の意志や意識の入り込めない深層心理と自分の意志や意識の入り込める表層心理があり、常に、深層心理が、先に、思考して、感情とそれに伴った行動の指令という自我の欲望を生み出し、表層心理が、それを受けて、意識して思考し、深層心理が生み出した感情の中で、深層心理が出した行動の指令の採否を思考するのである。表層心理が、深層心理が無意識の中で、生み出した感情の中で、意識して思考して、深層心理が、無意識の中で、出した行動の指令の採用を決断すれば、そのまま実行し、それが意志による行動となる。表層心理が、深層心理が生み出した感情の中で、意識して思考して、深層心理が出した行動の指令の不採用と決断すれば、意志によって、行動の指令を抑圧しようとする。しかし、深層心理が生み出した感情が強ければ、表層心理の意志による抑圧は功を奏さず、深層心理が出した行動の指令のままに行動してしまうのである。それが悪行の場合、犯罪者になるのである。もちろん、悪行を犯す人は、自分が今行おうとしている行為が悪行だとわかっている。つまり、表層心理では、わかっている。しかし、深層心理が生み出した感情が強いので、表層心理の意志による抑圧が効かないのである。なぜならば、深層心理が、まず、無意識の中で、フロイトの言う「快感原則」で思考し、感情と行動の指令を生み出し、表層心理が、それを受けて、フロイトの言う「現実原則」で、深層心理が生み出した感情の中で、深層心理が出した行動の指令について意識して思考するのだが、表層心理の結果に関わらず、深層心理が生み出した感情が強ければ、深層心理が出した行動の指令の通りに行動してしまうのである。「快感原則」とは、喜びや楽しさを得ることを求めて思考することである。「現実原則」とは、自分に利益をもたらすことを求めて思考することである。つまり、深層心理には、道徳観や現世利益観は存在しないのである。表層心理は、孤立しないように道徳を遵守し、利害得失を重視して、思考するのである。深層心理と表層心理の思考の方向性が異なっている上に、深層心理が感情を生み出しているところに、人間の悲喜劇、可能性が生じているのである。もちろん、犯罪は、犯罪者の責任であるが、その悪行は、表層心理の意志によるものではなく、深層心理が生み出したものであり、深層心理が生み出した強い感情に引きずられて行ったものなのである。人間には、自分の意志でできることとできないことがあるのである。人間には、責められるべきことと責められるべきではないことがあるのである。それは、「行為を責めて、人間を責めるな。」ということである。もちろん、悪行を責めることは、結果的には、悪行を犯した人を責めることになる。それで良いのである。悪行を犯したのはその人だからである。しかし、悪行を犯した人を責めることから始めると、その人は悪人だから悪行を犯したという結論になるのである。そこには、人間の心理構造の洞察が行われていないのである。だから、いたずらに、他者を責めたり、自分自身を責めたりするべきではないのである。なぜならば、いたずらに、他者を責めたり自分自身を責めたりする人は、人間は自分の感情も行動もコントロールできる動物だと誤解しているからである。人間は、自分ではコントロールできない、深層心理という、無意識の心の思考から始まるのである。深層心理は、「快感原則」の下で、自我を対他化、自我を対自化、自我を共感化して、思考するのである。自我とは、ある構造体の中で、あるポジションを自分として、行動するあり方である。構造体とは、人間の組織・集合体である。だから、日本という構造体には、日本人という自我があり、家族という構造体には、父・母・息子・娘などの自我があり、学校という構造体には、校長・教諭・生徒などの自我があり、会社という構造体には、社長・部長・課長・社員などの自我があり、仲間という構造体には、友人という自我があり、カップルという構造体には、恋人という自我があるのである。深層心理が、自我を対他化するとは、人間は、常に、他者から、自我がどのように評価されているか気にしているあり方をしていることを意味している。深層心理が、自我を対自化するとは、人間は、他者を、自我の欲望に沿って、どのように扱い、どのように支配するかを考えることを意味している。「わがまま」とは、対自化の現れである。深層心理が、自我を共感化するとは、人間は、他者を、愛し合い、協力し合い、友情を深めようとすることである。カップルという構造体、仲間という構造体は、共感化の現れである。対他化、対自化、共感化の中で、深層心理が最も強く機能するのは、対他化である。深層心理は、多くの場合、自我を対他化することによって、感情と行動の指令という自我の欲望を生み出すのである。だから、人間は、常に、自我が他者からどのように評価されているか気にしてしながら生きているのである。正確に言えば、人間は、人の目を気にするのではなく、人の目が気になるのである。それほど、深層心理の対他化が、人間を牛耳っているのである。人間には、怒り、悲しみ、苦悩などの自分の心のバランスを崩す感情が生まれてくるが、これらは、深層心理が、自我を対他化することから生まれてくるのである。、他者から、叱り、批判、侮辱、無視、陰口、暴力などの悪評価・低評価を受けたからである。それは、言い換えれば、人間は、常に、自我が、他者から、人並みに、もしくは、人並み以上に見られたいという思いがあることが示している。この、自我が、他者からどのように見られているか、意識している姿が、人間の常のありようである。自我の他者の評価のありようが、自分のプライドの動向に影響する。怒り、悲しみ、苦悩ともに、自我が傷つけられ、プライドを失ったことから、自我を修復するための感情である。怒りは、ある構造体で、自我の能力を低く評価され、自我が傷つけられた時、自我を傷付けた者に対して復讐することによって、自我を復興させようとするのである。自我を下位に落とした他者を、復讐によって、より下位に落とすことによって、自我を上位にするのである。哀しみは、ある構造体で、自我の能力を低く評価され、自我が傷つけられた時、涙を流すことなどによって、傷付いた自我を癒やそうとするのである。まさしく、涙によって心の傷を洗うのである。苦悩は、ある構造体で、自我の能力を低く評価され、自我が傷つけられた時、それを修復するのに良い方法が思いつかず、絶望に陥った時である。苦悩は、誰にでも、訪れる感情である。中には、絶えることなく訪れ、それが高じて、うつ病になり、挙句の果てに、自殺する人まで存在する。人間の苦悩の原因は、大体において、精神的なものである。肉体的なものは、苦悩ではなく、苦痛である。苦悩が、人間を精神的にどん底に突き落とすのである。うつ病になったり、自殺したりする人は、肉体的な苦痛よりも、精神的な苦悩が原因であることが多いのである。確かに、人間世界には、悪なる行為は存在する。しかし、人間の精神には、悪なる心は存在しない。それは、怒り、哀しみ、苦悩と同じように、精神現象の一つにしか過ぎない。、