おじさんの映画三昧

旧作を含めほぼ毎日映画を見ております。
それらの映画評(ほとんど感想文ですが)を掲載していきます。

眞実一路

2022-09-16 07:50:45 | 映画
「眞実一路」 1954年 日本


監督 川島雄三
出演 山村聡 淡島千景 桂木洋子 須賀不二夫 佐田啓二
   水村国臣 毛利菊枝 多々良純 市川小太夫 三島耕 水木涼子

ストーリー
守川義平(山村聡)の十八になる娘しず子(桂木洋子)は大越護(三島耕)との見合いの報告に弟の義夫(水村国臣)を連れて伯父河村弥八(市川小太夫)を訪れたが、そこで家出した母のむつ子(淡島千景)に会った。
何の事情も知らない義夫はけげんな眼で彼女を見るのだった。
むつ子は以前の愛人との間に出来たしず子を腹に抱えて、義平の許に嫁いで来たのであるが、世間体を飾るだけのこの結婚は義平にとってもむつ子にとっても不幸であった。
間もなくむつ子は家出し、現在は浅草でカフェーを経営しながら、今の愛人隅田恭輔(須賀不二男)の螢光燈の研究を助けていた。
この様な理由で大越家から破談されたしず子は傷心の身をむつ子の弟の絵描きの叔父河村素香(多々良純)に訴えた。
「姉さんも気の毒な人だよ。みんなが言うようにふしだらな女じゃない、自分の本当の生き方をしたいともがいていたんだ」素香はそう言って「真実一路の旅なれど」と言う白秋の詩を呟いた。
義平の死で葬式に訪れたむつ子は、続いて起った義夫の盲腸の看護に当り、そのまま守川家に居ついた。
母親の居ない寂しさを味わっていた義夫はよく懐いた。
しかしむつ子は矢張り隅田を思い切れず、その事からしず子と折合ず家出した。
隅田が生活苦と失敗から自殺すれば、むつ子も後を追うより仕方なかった。
子供を産めても母親になれない女--これが彼女の真実一路の人生だった。
母を失くして再び寂しい義夫は運動会の選手に選ばれた。
懸命に力走する義夫の耳に、死んだむつ子の声が聞えて来た。
亡き母の声援に義夫はテープ目指してまっしぐらに走った。


寸評
僕の偏見かもしれないが川島雄三監督作品にしては、大人と子供の世界をそれぞれきっちり描いているすごく真っ当な映画のように思う。
山本有三の原作のテーマでもあるのだろうが、自分の正直な気持ちを貫き通し生きていけば、回りの人たちに悲しみを与えていかに辛く苦しいことか、また一方でよかれと思って嘘をつき通す人生もまた辛くて悲しい事なのだと映画は訴える。
テーマや物語は重いものだが、川島監督らしくスマートにテンポよく描いていくので重苦しくは感じないし、見ていて分かりやすい。
僕の母は離婚して実家である叔父夫婦の住む家に戻っていた。
幼い僕は叔父を父親と思い長い間「おとうちゃん」と呼んでいたのだが、小学校の中ごろになると自然と自分の父親ではないと感じてきて「おとうちゃん」と呼ぶのをやめるようになった。
小学校6年の終わりの頃に、叔父の家から出て転居したので、それ以降は「おっちゃん」と呼ぶようになっていた。
実の父親でないと分かっても僕は悲しくなかったし、後年に実の父親と出会うことがあった時も特別な感情は沸かなかった。
僕が真っ当な人間なら義夫に同化できて、この映画にまた違った印象を持ったかもしれないなと思う。

むつ子は以前の愛人との間に出来た子をお腹に抱えて義平の許に嫁いで来たのだが、生まれた子供を義平は大事に育てる。
責め立ててくれた方が気が楽なむつ子は義平のその優しさに耐えられず、更に義平との間に出来た子供も置いて家を出ている。
義平の優しさは彼の気真面目過ぎる性格から来ているもので、むつ子はある意味で欺瞞を感じていたと思われるのだが、義平の山村聡には彼のキャラクターからむつ子が感じるいやらしさを感じ取れない。
むつ子が自分の気持ちに正直に生きたというより、彼女の単なる我儘と思えてしまう。
むつ子の淡島千景はいい女過ぎて、真実一路で生きていると言う風には見えなかったなあ。
印象に残る斬新なシーンもある。
むつ子が隅田にすがって玄関を飛び出して追うシーンで、カメラは躍動し画面は斜めに切り取られる。
激しく言いあう場面でも真正面に構えていたカメラは、このシーンだけは激しく動く。
激しく動くカメラは、むつ子の激しく動く気持でもある。
自殺した隅田の後を追う淡島千景の超アップもなかなか良かった。
最後に多々良純と桂木洋子が遺骨を抱いて並木道を歩いてくるシーンは、キャロル・リードの名作「第三の男」を髣髴させた。

人は色んなしがらみを抱えているから、自分の正直な気持ちで生きていくことはなかなか難しい。
家族も家庭も社会的な地位も名誉も捨てる気にならないと貫けないものだと思う。
むつ子にも、しず子にも、多々良純のような人がいてよかったと思う。
叔父が生きていればそのような存在になってくれただろうか。
自分の娘と同じように扱ってくれた叔父は早逝してしまって、再び甘えることは出来なかった。