おじさんの映画三昧

旧作を含めほぼ毎日映画を見ております。
それらの映画評(ほとんど感想文ですが)を掲載していきます。

紳士協定

2022-09-15 06:48:19 | 映画
「紳士協定」 1947年 アメリカ


監督 エリア・カザン
出演 グレゴリー・ペック ドロシー・マクガイア
   ジョン・ガーフィールド セレステ・ホルム
   アルバート・デッカー ジェーン・ワイアット
   アン・リヴェール ディーン・ストックウェル

ストーリー
妻に先立たれ、幼い息子トミーと老いた母との暮らしが続く人気ライターのフィリップ、通称フィルは、週刊スミスの編集長ミニフィの招きでカリフォルニアからニューヨークに移り、早速反ユダヤ主義の記事を依頼された。
この記事の発案者は、ミニフィの姪キャシーで、フィルは彼女に心を動かされる。
ともかく今回の仕事は厄介だった。
幼馴染みでユダヤ人のデヴィッドに相談しようかとさえ悩んだ末、フィルは自分自身でユダヤ人になり切ることにして、社の幹部との昼食会で、ユダヤ人だと名乗ったため、噂はあっと言う間に広まった。
真実を知っているのは、母、トミー、ミニフィ、キャシーだけだ。
フィルの秘書も実はユダヤ人だが、それが知れると雇ってもらえなかったとフィルに告白する。
フィルがユダヤ人と知ると、人々は急によそよそしくなる。
そんなおり、社の同僚のアンのパーティに出席し、フィルはキャシーに求婚する。
そしてキャシーはフィルを姉ジェーンに紹介するため、コネチカットの家を訪れたりしていると、デヴィッドが帰国。
彼をユダヤ人だからと罵ったり、フィル達のハネムーン先のホテルがユダヤ人を理由にキャンセルしたりと、現実にこの問題は大変根深かった。
このことがこじれ、フィルとキャシーの間にも溝ができた。
そしてようやくフィルの記事が発表された。
内容の素晴らしさが評価されると共に、実はユダヤ人でなかったとフィルに対する見方も変わる。
差別や偏見に目をそむけていたキャシーは、デヴィッドに悩みを打ち明け、彼の助言でフィルとやり直しを決意。
デヴィッドもコネチカットの山荘をかりて人生をやり直す決心をした。


寸評
キリスト教徒にとってユダヤ人はイエス・キリストを密告し処刑に至らしめたということで、ユダヤ人は迫害の歴史を背負うことになった。
僕はキリスト教徒ではないのでユダヤ人に対する憎しみはないし、宗教に対しておおらかな大抵の日本人は主教差別の意識はないのではないかと思う。
しかし、我が国においても潜在的な差別意識は残っているような気がする。
被差別部落の問題は改善されつつあるとは思うが、完全い払拭されたとは言い難いし、欧米人に比べるとアジア系人種に対する偏見も内在しているのではないかと感じる。
口には出さないが本人も気づかない中で心のうちに潜んでいる差別意識こそ根深いものだと思う。
「差別や偏見を目前にして沈黙するのは、それを助長することでしかない」とするのは、アメリカ社会におけるユダヤ人差別だけに言えることではない。
関わり合いを避けて不正に声を上げないことも又しかりである。

フィルはユダヤ人差別の記事を書くために、自らをユダヤ人と偽って取材を行うことを決意する。
秘書のエレインがユダヤ人であることで今の出版社を不採用となり、名前をアメリカ人風に変えて応募したら採用になったことを明かす。
フィルはリベラルを誇る雑誌社でも、採用に際してそのような差別が行われていたことに憤りを感じる。
人種による就職差別でそのことを非難すると、編集長は早速宗教を問わず求人することにする。
ところがエレインはユダヤ人女性が採用されると、自分達の立場が悪くなるとフィルに忠告する。
ユダヤ人であるエレインにすら、ユダヤ人は出来の悪い人間なのだとの思いがあるのだ。
出版社のみならず、当事者にもそのような偏見が生まれてしまっていることが、この問題の根深さを感じさせる。
僕はエレインのこの意識が一番印象に残った。

この映画はユダヤ人差別に対する反対運動を大々的に描いているわけではない。
むしろ暗黙の内に行われている差別と偏見を描いている。
エレインの言動に続き、リベラルな考えを持つキャシーまでがフィルに本当にユダヤ人なのかと聞くことで、偏見の根強さを思い知らされる。
フィルの母親が心臓病で医師に見てもらう際も、フィルがユダヤ人だと分かると冷淡な態度を取られる。
アパートの管理人もメールボックスの名前からユダヤ人と知り不快感を示す。
ホテルで予約を取ろうとしても体よく断られてしまう。
ある日、息子のトミーが友達から「汚いユダヤ人は仲間に入れない」と言われて泣いて帰ってくる。
キャシーは「大丈夫よ、あなたはユダヤ人ではないのだから」とトミーを慰めるが、フィルはそれが気に入らない。
それこそユダヤ人を差別する潜在的な意識なのだ。
キャシーはデヴィッドからテーマとなっていることを言われて行動を起こしハッピーエンドとなるのだが、僕にはどうもパンチ力に乏しい作品のように思えた。
フィルはユダヤ人でなかったことが分かり、記事も称賛されて人の目が一変するが、子供の世界ではそんな理解もされたとは思えず、仲間外れになったトミーはどうなったのか心配だ。 差別と偏見は根深い。

深呼吸の必要

2022-09-14 07:37:02 | 映画
「深呼吸の必要」 2004年 日本


監督 篠原哲雄
出演 香里奈 谷原章介 成宮寛貴 金子さやか
   久遠さやか 長澤まさみ 大森南朋 北村三郎
   吉田妙子

ストーリー
2月。沖縄のとある離島。
本土とは比べものにならない陽射しが降り注ぐこの島に5人の男女がやってくる。
さとうきびを刈り取るアルバイト“きび刈り隊”に応募して来た都会暮らしの5人の若者・ひなみ(香里奈)、悠一(谷原章介)、加奈子(長澤まさみ)、大輔(成宮寛貴)、悦子(金子さやか)が降り立ったのだ。
5人を迎えるのは年老いた平良夫妻(北村三郎、吉田妙子)と“キビ刈り隊”の常連・田所豊(大森南朋)。
「言いたくない事は言わなくてもいい」。
これが、彼らが1ヶ月余り寝泊まりする平良家の唯ひとつのルール。
果たして、それぞれに“言いたくない事情”を抱えていた5人は、早速、田所の指導の下、広大な畑の約7万本のさとうきびを刈り始めるが、2月とは言え沖縄の厳しい陽差しの下での慣れない仕事は辛かった。
かつて平良家の隣に住んでいた美鈴(久遠さやか)と言う強力な助っ人の参加があったものの、先輩ヅラして偉そうに振る舞う田所への反駁もあり、一向に作業の能率は上がらない。
そんな中、大事件が起こった。
嵐の晩、港へ出掛けた田所が運転を誤って脚に大怪我を負ってしまったのだ。
離島ゆえに医者はいない。
とその時、実は医者であった悠一が執刀を決意した。
手術は成功した。
そして、このことで絆を深めた7人は力を合わせ、期日までに全てのさとうきびを刈るのであった。


寸評
僕のハネムーンは沖縄だったのだが、最後の日にタクシーで空港に向かっていたら、サトウキビ畑で老夫婦が刈り入れを行っていた。
親切なタクシー運転手は車を止めて、畑からサトウキビを一本もらってきてくれた。
短く切り分けてくれていて、その内の一本をかじるととてつもなく甘かったことを思い出す。
もう何十年も前の想い出であるが、この映画を見ていてその事を思い出した。
キビ刈り隊と称されるアルバイトの連中がオジイと共にサトウキビを刈り取っている姿が何度も描かれ、刈り取り作業の大変さが伝わってくる。
田所は挫折した連中がここに逃げ込んでくると言ってひんしゅくを買うが、各人にその傾向があり、それぞれの秘密とは何かに興味が向かうが、それらを積み残したまま映画は彼らの刈り入れ作業を描き続ける。
離島でのアルバイトなので当然彼らはオジイの家に泊まり込みである。
最初はぎこちない雰囲気が漂っているが、なかなか心を開かない加奈子の存在があるものの徐々に彼らは打ち解けていく。
僕は学生時代にかなり大きなケーキ屋さんでクリスマスケーキ作りのアルバイトをしたことがある。
普通のケーキ作りと並行してクリスマスケーキを準備していく。
直前は徹夜まがいの作業が続き、僕は正規従業員に交じって寮に泊りまり込みであった。
寮といっても作業場の2階が宿舎で、かなり広かったが雑魚寝状態であった。
映画で描かれたような雰囲気で寝起きしていたが、そこでの生活は実に楽しいものであった。

田所がリーダーとして指示しまくる態度に不満を持ちながら、秘密を抱えた彼らは島の生活に馴染んでいく。
田所が誘ってひなみ、悦子、悠一たちと一杯やるシーンは島の居酒屋の雰囲気が出ている。
悦子に田所は「どうして、そんなにえらそうなのか」と問われるが、店員が「田所さんはきび刈り隊の一番の古手だから」と言われ納得する。
しかし田所のようなリーダーがいないと、いくらアルバイトと言っても作業が進まない。
何人か集まるとリーダーは必要なのだ。
加奈子が心を閉ざしている理由は最後まで分からなかったので気になった。
ひなみは非正規社員である派遣として働いていて、今回は自ら派遣したと言っている彼女に何があったのか結局分からず仕舞いだが、深呼吸を持ち出す役割があったのだろう。
悦子は観光気分で、アルバイトの中には彼女のような人がいないとおかしいから、違和感のないキャラである。
サトウキビ畑の広さに圧倒されるが、徐々に借り入れた場所が拡がっていくことが嬉しくなってくる。
「フィールド・オブ・ドリームスだ」と言って、田所、悠一が大輔を誘って三人で刈り入れが済んだ場所でキャッチボールをするシーンに妙な感動があった。
サトウキビ畑と野球と言えば「フィールド・オブ・ドリームス」だからだが、過去の選手の復活と言う意味もあって、大輔に対する激励だったと思う。
刈り入れが済んで彼らは元の生活に戻っていくラストシーンは余韻を残した。
加奈子が言うように、起きて仕事して食べて寝れば、また朝がやってくるのだ。
人生はポジティブに生きなくてはならない。

シング・ストリート 未来へのうた

2022-09-13 07:02:46 | 映画
「シング・ストリート 未来へのうた」    2015年 アイルランド / イギリス / アメリカ 

                 
監督 ジョン・カーニー                 
出演 フェルディア・ウォルシュ=ピーロ ルーシー・ボーイントン
   マリア・ドイル・ケネディ エイダン・ギレン
   ジャック・レイナー ケリー・ソーントン
   ベン・キャロラン マーク・マッケンナ ドン・ウィチャリー

ストーリー
1985年、大不況にあえぐアイルランドの首都ダブリン。
父親の失業で優秀な私立学校から荒れた公立学校への転校を余儀なくされた14歳のコナー。
両親はケンカが絶えず、学校でもさっそくイジメの標的に。
そんな彼にとって、音楽オタクの兄ブレンダンの解説を聞きながら、隣国ロンドンのミュージックビデオ番組をテレビで見ている時だけが幸せだった。
すっかりデュラン・デュランの虜になってしまったコナー。
ある日、自称モデルの美女ラフィーナと出会い、その大人びた美しさに一目で心を打ちぬかれ、「僕のバンドのPVに出ない?」と口走ってしまう。
慌ててメンバーを集め、即席バンドを結成して音楽マニアの兄のアドバイスを受けながら猛練習を開始するコナーだった。
無謀にもロンドンの音楽シーンを驚愕させるプライベートビデオを製作すると決意するこなーだったが・・・。


寸評
大不況により父親が失業する。
生活が苦しくなり少年のコナーは公立の学校へ転向させられるが、その学校は荒れた学校だった。
そこは掃きだめのような場所で、コナーはイジメの標的になる。
一方家庭では両親が不和で離婚間近。
その様な背景で始まるストーリー自体はありがちなものだが、これが見事な青春映画に仕上がっている。
青春映画においては登場する若者たちがキラキラと輝いた躍動感を持っていることが必須の条件だ。
ユニークなバンドメンバー達が最初はぎこちないながら次第に上達していき、やがてオリジナリティーを獲得していく様子が瑞々しい。
「シング・ストリート」というコナーのバンドのオリジナル曲がドラマの内容とシンクロしてきて感動を呼ぶ。
音楽マニアの兄ブレンダンが音楽プロデューサーかと思わせるアドバイスを与えるのだが、コナーが兄を慕う兄弟仲の良さを見せられると、一人っ子の僕は二人を羨ましく思える。
ところが兄は兄なりに鬱積したものを持っていたということが分かり、仲の良い兄弟としてだけでない一面を描いている。
このことで、最後に兄のブレンダンがコナーの旅立ちを自分のように喜ぶ姿がより印象的なものとなった。

練習風景やビデオの撮影風景などは正に青春だ。
僕も仲間と16ミリでの映画を撮っていた時期があったが、まさにこのような雰囲気だった。
バンド活動と並行して描かれるのがコナーの初恋物語で、ラフィーナに対するコナーの初々しくて切ない思いが描かれる。
1歳年上という設定だが、それにしてはラフィーナは大人びている。
ロンドンでのモデルとしての成功を夢見ていて、車を乗り回す彼氏もいることでコナーの恋が切なくなってくる。
イジメっ子や強圧的な校長などの存在もありきたりだけれど押し付け感はない。
彼等の処理の仕方も心得たものであった。

青春映画はそれを感じさせるシーンも有していなければならない。
学校の講堂の様な場所でビデオ撮影を行っている時、会場に来ないラフィーナを思いながらコナーが歌うシーンでは、コナーの目の前に空想の世界が広がる。
感動的なシーンだった。
同じく海岸でのビデオ撮影時に、泳げないラフィーナが海に飛び込んでしまうシーンも鮮烈で、まさしく青春映画を感じさせた。
クライマックスの学校でのライブシーンが感動的なのは言うまでもない。

僕はアイルランドと言う国をよく知らないが、彼等の旅立ちは、コナーとラフィーナの成長を物語ると同時に、閉塞感に包まれた当時のアイルランドの人々の思いを代弁したものだったのだろう。
そこにあるのは海を50キロ隔てて存在している二つの国の国力差なのかもしれない。
本来音楽映画が好きな僕だが、この作品においても曲を聞いているだけでウットリ出来るものがあり、音楽映画としても及第点だった。

真空地帯

2022-09-12 07:12:55 | 映画
「真空地帯」 1952年 日本


監督 山本薩夫
出演 木村功 利根はる恵 神田隆 加藤嘉
   下元勉 西村晃 岡田英次 金子信雄

ストーリー
週番士官の金入れを盗んだというかどで、二年間服役していた木谷一等兵は、敗戦の前年の冬に大坂の原隊に帰っていた。
彼は入隊後二年目にすぐ入獄したのですでに四年兵だったが、中隊には同年兵は全くおらず、出むかえに来た立澤准尉も班長の吉田、大住軍曹も全く見覚えのない人々で、部隊の様子はすっかり変わっていた。
木谷が金入れをとったのは偶然であった。
しかし被害者の林中尉は当時反対派の中堀中尉と経理委員の地位を争って居り、木谷は中堀派と思いこまれた事から林中尉の策動によって事件は拡大され、木谷の愛人山海樓の娼妓花枝のもとから押収された木谷の手紙の一寸した事も反軍的なものとして、一方的に審理は進められたのだった。
兵隊達が唯一の楽しみにしている外出の日、外出の出来なかった木谷は班内でただ一人彼に好意をもっている曾田一等兵に軍隊のこうした出鱈目さを語るのだった。
地野上等兵の獣性、補充兵達の猥褻な自慰、安西初年兵のエゴイズムなど、事務室要員の曾田は激しいリンチや制裁がまかり通る軍隊のことを一般社会から隔絶された「真空地帯」だと表現していた。
或日、野戦行十五名を出せという命令が出た。
木谷が監獄帰りと聞こえよがしに云う上等兵達の言葉に木谷は猛然と踊りかかっていった。
木谷を監獄帰りにさせた真空地帯をぶちこわそうとする憎しみに燃えた鉄拳が彼等の頬に飛んだ。
それから木谷は最後の力をふりしぼって林中尉を探しまわった。
彼に不利な証言をした林中尉に野戦行きの前に会わねば死んでも死にきれなかった。
ついに二中隊の舎前で彼を発見し、必死の弁解に対し木谷の拳骨は頬にとんだ・・・。


寸評
「真空地帯」は戦争をテーマにした映画であるにかかわらず、戦争の場面は出てこない。
描かれているのは死にゆく者を描いて戦争の悲惨さを訴えるものではなく、兵士たちの日常生活の場としての兵営での出来事である。
戦場ではないが軍隊であるから、そこは徹底的な管理社会であり階級序列、年功序列の社会である。
古参兵による新兵への暴力は日常的に行われており、兵隊としての序列がそのまま人間の価値を決めている。
旧日本軍ではこれほど暴力が振るわれていたのかと思うほど、古参兵は新兵に制裁を加えている。
イジメとも言える制裁場面は何度も戦争映画の中で見た光景なのだが、それは必ずと言っていいぐらい陸軍で起きていて、僕は海軍で同様の暴力行為が行われるシーンを見た記憶がない。

反戦映画と言えるが、描かれているのは軍隊内部にある腐敗である。
林中尉と中堀中尉との将校同士の権力争いがあると思えば、軍隊の食料などを横流しして私利をむさぼる輩も横行している。
厳しい規律で管理されているはずだが、実情は兵営の隊長は名目上の存在で、実権は人事や予算の権限を持っている准尉が握っていたり、主人公の木谷一等兵は序列が下のほうなのに、兵営の中では大きな態度を示して上官に当たる者を滅多打ちしていて、規律などあったものではない。
散々反抗的な姿勢を見せて厄介者扱いされていた木谷一等兵は、脱走しそこなったにもかかわらず何も処罰されず死ぬことが約束されているような南方戦線へ送られていく。
そのような軍隊の不条理を描いているので、やはりこれは反戦映画と言えるのだろう。

ところが「真空地帯」は単純な反戦映画ではない。
主人公の木谷一等兵も正義の代弁者的人物ではないのだ。
彼は林中尉の財布を盗んではいないが、拾った財布から金を盗んでいるのである。
制裁を受けている新兵をかばってやるようなこともしていない。
木谷一等兵が「人間の条件」の梶のような人物ではないのが、反戦映画としてよりも僕には人間ドラマとしての深みを感じさせた。
人間はいかに利己的な動物であるのかと見せつけられ、軍隊はそのような人間を生み出してしまう場所なのだと言っているように思えた。
暴力をふるっている古参兵も新兵の時には同じような目にあっていたのだろう。
その時には理不尽だと感じたはずだが、自分がその立場になると理不尽と言える行為を疑いもなくやっている。
権力や立場を得てうまい汁が吸えるとなればそれを利用する。
刑務所送りになる前の木谷一等兵だって、自分の立場を利用して娼妓の花枝に軍隊用の米を持ってこようとしていたのだ。
この映画の制作年度を考えると、戦争の記憶は人々の心に鮮明に残っていたはずで、軍隊経験者たちの記憶が蘇る物となっていただろう。
軍隊にあった醜悪な側面を容赦なく暴き立てている本作はきっと真実の軍隊の姿だったのだろう。
戦争を知らない僕は想像するしかない。

仁義なき戦い 完結篇

2022-09-11 06:52:46 | 映画
「仁義なき戦い 完結篇」 1974年 日本


監督 深作欣二
出演 菅原文太 伊吹吾郎 野口貴史 寺田誠 桜木健一
   松方弘樹 小林旭 北大路欣也 曽根晴美 宍戸錠
   山田吾一 八名信夫 山城新伍 田中邦衛 川谷拓三
   金子信雄 天津敏 内田朝雄 野川由美子 中原早苗

ストーリー
警察の“頂上作戦”で幹部連中が大量に検挙された後、大友組が勢力を回復、広島やくざ組織は、山守組、打本会、大友組の三巴の対立となっていた。
だが、彼らは警察の目を欺くために山守義雄(金子信雄)を会長に、傘下の武田組、江田組、早川組(元打本会)、大友組、呉の槙原組、さらに徳山、福山など近郊都市の組織までも大同団結させて、政治結社「天政会」を発足させた。
昭和41年春。天政会々長の二代目を継いだ武田明(小林旭)は、警察の取締りに対処し、会の再建強化を図るが、反主流派の大友(宍戸錠)、早川(織本順吉)らの反発にあう。
41年4月3日。天政会にすっかり抑えられていた呉の市岡組々長・市岡輝吉(松方弘樹)は、天政会の混乱に乗じ、天政会参与・杉田佐吉(鈴木康弘)を襲撃し射殺した。
この事件で県警は、天政会壊滅のため、武田以下首脳を順次検挙する方針を打ち立てた。
保釈の身であった武田は、再逮捕される前に腹心の若頭・松村保(北大路欣也)を三代目候補に推薦した。
しかし、この処遇を快く思わない大友、早川は激しく反発、松村殺害を企てるが未遂に終る。
その頃、網走刑務所に服役中の広能昌三(菅原文太)を訪ねた市岡は、大揺れの天政会の現状と、今こそ広能に広島をとるチャンスが到来したと告げた。
43年秋。市岡は、かねてより親しかった早川英男を介して、大友勝利と兄弟分の盃を交し、広島進出の足掛りを掴み、松村組の縄張り内に組員を送り込み挑発。
44年11月15日。遂に腹に据えかねた松村は、市岡を殺害、これを期して、政治結社としての天政会を解散させると同時に傘下各組をも解散、自分の直属にした。
45年6月、武田が出所し再び会長に復帰。
45年6月30日。呉市繁華街で広能組組員・清元(寺田誠)が槙原組々長(田中邦衛)を射殺。
45年9月18日。広能昌三が七年振りに出所した・・・。

寸評
年数が経つごとに輝きを増している「仁義なき戦い」であるが、本編はその最終章であり、時代的には第一作の頃から20数年を経ておりヤクザ世界の新旧交代劇が描かれている。
メインキャストだった菅原文太の広能昌三は服役中で最後の方にしか出てこない。
貫禄のある役者不足のためか、以前に登場したことのある松方弘樹や北大路欣也は別人を演じている。
第二作で登場した大友勝利が復活しているが、俳優は千葉真一から宍戸錠に代わっている。
宍戸錠も狂人的性格を持つ大友を見事に演じているが、凶暴さと狂人ぶりは千葉真一の方がハマっていた。

前作でも広能と武田の間で自分たちの時代は終わったという会話があったように思うが、今回はさらに若い者への代替わりが強く描かれ、それにまつわる権力闘争が実録風に手持ちカメラを多用して映し撮られている。
まず天政会が結成され、権力の座は金子信雄の山守から小林旭の武田に引き継がれる。
さらに武田の逮捕により、更に若い世代である北大路欣也の松村がのし上がってくるという図式である。
組織内の権力闘争の相手は単純な大友を担ぐ早川達であり、もともと敵対していた広能の弟分である松方弘樹の市岡がそれに割って入ることで物語は進行していく。
すっかりおなじみとなったテーマ曲とナレーションに乗って手際よく描かれていくのは相変わらずだ。

北大路欣也の松村が襲撃され瀕死の重傷を負うが一命をとりとめ、死の境目をさまよいながらも3代目襲名披露の場に出ていく。
「総長賭博」における名和宏の石戸と同じ状況である。
その姿を見て、小林旭の武田が「俺たちにはもうマネは出来ない」と広能につぶやく。
このシーンが今回の映画の総てだったように思う。
広能は獄中で手記を書いていて、その最後に「上に立つ者がバカだったから、下の者たちが割を食った」というようなことを書いている。
筆頭は金子信雄の山守だったのだろうが、大友や早川だって含まれるし、田中邦衛の愼原のように優柔不断でどっちつかずの男も例外ではない。
権力闘争が起きるかどうかは別にして、世代交代はどの世界にもあることで自然現象のようなものである。
そしてリーダーの優劣によって組織が大きく変わることも歴史が証明している。
狭い世界では家督相続や経営者の継承、大きな世界では国家を背負う首相や大統領の交代劇においては、上手く世代交代が起きてほしいし、若い世代が育っていてほしいものである。
能力のないものがリーダーになることほど、下の者にとって不幸はないのである。
その時の下の者が国民であってはならない。

シリーズの中心人物だった広能が、顔も思い浮かばない桜木健一演じる若い組員の佐伯明夫が殺されたことで引退を決意するとしてこのシリーズは終わりを迎えるが、抗争はまだまだ続く事を暗示している。
暴力団の抗争はなくなったわけではなく、経済ヤクザなどとして社会の中に溶け込んでいって分かりにくくなっていることが恐ろしい。
「仁義なき戦い」は日本版ノワールとしての金字塔である。


仁義なき戦い 頂上作戦

2022-09-10 09:11:59 | 映画
「仁義なき戦い 頂上作戦」 1974年 日本


監督 深作欣二
出演 菅原文太 梅宮辰夫 黒沢年男 田中邦衛 堀越光恵
   木村俊恵 中原早苗 渚まゆみ 金子信雄 小池朝雄
   山城新伍 加藤武 夏八木勲 内田朝雄 長谷川明男
   八名信夫 汐路章 室田日出男 鈴木瑞穂 小林稔侍
   曽根晴美 志賀勝 松方弘樹 小林旭

ストーリー
昭和38年春、西日本広域暴力団明石組とライバル神和会との代理戦争とも言うべき明石組系の打本組(広島)と広能組(呉)、神和会系の山守組(広島)の広島抗争は激化する一方だった。
同年5月相次ぐ暴力事件への市民の批判と相まって、警察は暴力団撲滅運動に乗り出し“頂上作戦”を敷いた。
その頃、呉市では広能組が、山守組傘下の槙原組と対立していた。
広能と打本は、広島の義西会・岡島友次に応援を依頼し、中立を守る岡島を明石組の岩井も説得する。
やがて、広能組の若衆河西が、槙原組の的場に射殺されたことから、広能と山守の対立は一触即発となった。
一方、広島では、打本組々員三上が、誤って打本の堅気の客を殺害したことから、一般市民、マスコミの反撥が燃えあがり、警察も暴力取締り強化に本腰を入れはじめた。
その頃、山守組系の早川組若衆仲本が女をめぐって打本組の福田を襲撃して惨殺し、山守組傘下の江田組々員が打本組の若衆に凄絶なリンチを加えて一人を死に至らしめたが、打本は弱腰から報復に出なかった。
広能は、岩井の発案で、殺された組員河西の葬式を行なうという名目で、全国各地から応援千六百人を集め、一気に山守組に攻め込もうとした。
しかし打本が山守系の武田組に位致され、山守に脅迫されたために広能の計画を吐いてしまい、山守は早速、警察に密告したため、広能は別件容疑で逮捕され、明石組とその応援組員は呉から退去させられる。
ここに形勢は逆転し山守、福原が呉を支配するようになった。
以後も、広熊組と槙原組との間に、血の応酬が相次いだ。
暴力団追放の世論が沸騰し、警察と検察当局は幹部組長一斉検挙に踏み切り、やがて山守は逮捕された。
一方、岩井は、広島に乗り込んで義西会を中心に陣営の再建に着手し始めるが、武田は暴力団を糾合して岩井の挑戦を真っ向から受けて立った。
武田組と岩井組の間で、激烈な銃撃戦の火ブタが切って落された。

寸評
人気に乗じて第5作「完結編」が高田宏治の脚本で撮られたが、本作はこれが最後と思っていた笠原和夫による最後の脚本で撮られているのだが、これが最後と意気込んでいる割にはパワーが落ちている。
第一はこのシリーズの主人公である菅原文太の広能が途中でフェードアウトしてしまっていることだ。
実録路線ということで事実はそうであったのかもしれないが、映画として見れば途中で主人公が消えてしまったような感じで拍子抜けする。
シリーズを重ねてきたために出演者がいなくなってしまったためか、第一作で強烈な印象を残していた坂井の松方弘樹が義西会の藤田として登場しているなど、従来の登場人物の継承が薄れていることも興味を削いでいて、そのことは梅宮辰夫にも言えることだ。
凄みをきかせて存在感があった松永の成田三樹夫が出ていないのもファンとしては淋しいものがある。
スケジュールの都合で、異色のキャラクターだった千葉真一の大友勝利が登場しない事になったのは残念至極で、彼が登場していればまた違った雰囲気になっていただろう。

市民社会とマスコミの暴力団に対する非難の目とそれに呼応した警察による暴力団壊滅作戦が一つの軸となっているが、映画の中身は終始暴力団員が中心となっている。
タイトルの副題が頂上作戦となっているように最後には組長たちが逮捕されていくが、むしろ組長の押さえもきかない若者たちの暴走がメインのような内容である。
打本会の打本(加藤武)や川田組の川田(三上真一郎)などの組長が優柔不断で頼りない中で、配下の子分たちは血気にはやり敵対陣営に戦いを挑み死んでいく。
一般市民に犠牲者が出たことで、社会もマスコミも暴力団追放の動きを見せ、そのことで警察、検察も壊滅作戦を行うことになる。
マスコミに煽られた国民の声に政策変更をする政府を見ているようで情けないものを感じる。
逮捕された広能と武田が粉雪の吹き込む裁判所の廊下で震えながら、もはや自分たちの時代でないことを語るシーンはなかなかいい。
広能や武田達の刑期に比べれば、打本や山守の刑期は短いもので、広能は「間尺に合わん仕事をしたのう」と自嘲気味に語る。
震える素足の足元を映して彼らの終焉を描く名場面となっている。
シーン的にいいのは義西会会長の岡島(小池朝雄)が山守組の吉井(志賀勝)によって射殺される場面で、定番となった斜めに構えたカメラと、庭の花や小枝越しに志賀勝をとらえるショットが秀逸だ。
岡島は同窓会に出席していたのだが、射殺現場を見て呆然とする恩師や同窓生たちに吉井の志賀勝が「皆さんが見ての通りです」と言って去っていく描き方もクールでしびれる演出だ。

映画は基本的に娯楽なので、登場人物に感情移入させるためにヤクザを魅力的な存在であるかのように描きながらも、一時的にはヒーロー的に扱われるキャラクターも最後には無残に殺される場面が多いのもこのシリーズの特徴でもあったのだが、本作においては一体誰が英雄的キャラクターとなっているのか分からない。
広能と武田のやり取りに象徴されるように、ヤクザ社会においても世代交代はやってくるものだと言う事がテーマとなっていたのかもしれない。

仁義なき戦い 広島死闘篇

2022-09-09 07:37:49 | 映画
「仁義なき戦い」は2019-08-15、「仁義なき戦い 代理戦争」は2021-04-06に紹介しています。

「仁義なき戦い 広島死闘篇」 1973年 日本


監督 深作欣二
出演 菅原文太 千葉真一 梶芽衣子 山城新伍 名和宏
   成田三樹夫 前田吟 木村俊恵 加藤嘉 汐路章
   室田日出男 八名信夫 小松方正 志賀勝 川谷拓三
   金子信雄 遠藤辰雄 小池朝雄 北大路欣也

ストーリー
1950年(昭和25年)、広島市。帰国直後に傷害事件で服役し出所した復員兵の山中正治(北大路欣也)は、村岡組組長・村岡常夫(名和宏)の姪で未亡人である上原靖子(梶芽衣子)が働く食堂で無銭飲食を働き、大友連合会会長の大友長次(加藤嘉)の息子で愚連隊を率いる大友勝利(千葉真一)のリンチを受ける。
勝利の狙いは村岡のショバ荒らしだったこともあり、長次が山中に詫び、その紹介で山中は村岡組組員となる。
靖子と男女の関係となった山中は村岡の逆鱗に触れ、若頭・松永(成田三樹夫)の指示で九州へ逃れる。
そこで山中は滞在先の組の対立者だった和田組組長(鈴木康弘)を射殺したことから、裏社会で大きく名が轟くこととなり、山中は広島への帰参を許され、靖子との交際も村岡の認める所となった。
一方、好関係にあった村岡組と大友組であったが日に日に資金力・組織力の差が広がりつつあった。
そして父と完全に袂を分かった勝利は、村岡の兄弟分の時森勘市(遠藤辰雄)を抱き込んで彼の跡目を受けるという形で博徒大友組を結成すると、自ら村岡組に乗り込んで村岡の命を狙ったが失敗する。
村岡組に命を狙われることとなった時森は呉の山守(金子信雄)を頼り、これを利用して広島に顔を立てたい山守は今は無関係の広能(菅原文太)に時森の身柄を預けた。
しばらくすると時森の命を狙う山中が広能の元を訪れる。
山中は刑務所時代に広能に目をかけられた恩義があるため強引には動かず、広能も広島の争いに呉や自分が巻き込まれることに嫌気がさし、時森を広島で引き渡すことで穏便に片付けようとする。
ところが時森がこの動きを事前に察知して広能と距離を置き、また大友にも知られてしまったため、広能は配下の島田(前田吟)に時森を殺させることで広島の抗争が呉に飛び火するのを未然に防ぐ。
時森の死により、後ろ盾を失くした勝利は広島から追放されることとなったが、寺田啓一(志賀勝)ら3人を密かに留め置き、村岡組襲撃の計画を立てていた。


寸評
「仁義なき戦い」は細かなことは描かずカメラが動き回るのが特徴的なシリーズであった。
登場人物が多いのも特徴だったが、しかしこの「仁義なき戦い 広島死闘篇」は北大路欣也の山中に焦点を絞っていて、シリーズの中では特異な存在となっている。
山中は九州で和田を射殺するが、それは山中にとって初めての殺人で、殺害後に震えながら口笛を吹く。
それが勝利の舎弟三人を殺害するときには堂々たるヒットマンとなっている。
予科練の歌である「若鷲の歌」の口笛が上手く使われて、山中のヤクザとしての成長を的確に示している。
山中は村岡の姪である靖子と愛し合うようになるが、他のシリーズ作品と違って二人の関係を丁寧に描いている。村岡が靖子を元の婚家に戻し、死んだ亭主の弟と再婚させようとしていることを刑務所で叔父貴にあたる高梨国松(小池朝雄)から聞いた山中は脱獄する。
山中を簡単に人を信じてしまう単純な男とし、若者の持つ単純さと純粋さが山中を破滅に向かわせる悲劇性を描きながら抗争をテンポよく描いていくので時間を忘れさせる。
村岡が山中と靖子の仲を知っていながら、靖子を婚家が望む死んだ亭主の弟との再婚を進めたのは靖子の幸せを願ってのことだと思われる。
靖子の再婚は村岡にとって政略的なものもなく、村岡に何ら利益になるものではないと推測される。
村岡はいい組長ではないが、姪の幸せは親代わりとして真面目に考えていたのだろう。
山中の脱走で疑わしい行動をとるが、広能が言うような理由を村岡も考えたのではないか。
本来なら悪役として描かれるはずの村岡が、それほど悪として描かれていないのは靖子への対応によっている。

シリーズの主演である菅原文太に北大路欣也を絡ませてストーリーが進んでいくが、強烈な印象を残すのが大友勝利を演じた千葉真一である。
大友勝利は超過激派の粗暴で下品な狂犬のような男なのだが、暴力性を体いっぱいに表現して迫力いっぱいの言葉を吐き続ける千葉真一の演技は一皮むけたものがある。
サングラスを常時掛けて眼を隠し、唇を裏返しにして糊付けした扮装は正にヤクザであり、愚連隊のリーダーとしての存在感が画面いっぱいに広がっている。
彼の演じた大友勝利のキャラクターはシリーズ中でも1、2を争うものだったと思うが、シリーズ中に千葉真一の再演はならず、「仁義なき戦い 完結編」では宍戸錠に代わっている。
山中は刑務所で靖子の事を話してくれた高梨を村岡のそそのかしによって射殺したが、松永より高梨の話が事実であったことを聞かされる。
松永は村岡組の若頭なのに、なぜ山中に事実を語ったのか疑問が残るところだが、ヤクザ世界の男たちには通じ合うものがあるのかもしれない。
山岡が警察の包囲網に追い詰められていってからの描写は見せるものがある。
特にラストに於ける北大路欣也の表情は彼の演技歴の中でも上位にランクされるものだと思う。
求められてのものかもしれないが大層な演技が多い北大路欣也にしては迫真の演技だった。
後日、山中の葬儀が村岡組長によって大々的に営まれる。
弔問に訪れた広能が山中を「任侠の鑑」と褒め称えて高笑いする山守たちを醜く感じ、彼が見せる悲しく死んでいった山中を偲ぶ表情も捨てがたい。


新・動く標的

2022-09-08 07:11:15 | 映画
「新・動く標的」 1975年 アメリカ


監督 スチュアート・ローゼンバーグ
出演 ポール・ニューマン ジョアン・ウッドワード
   アンソニー・フランシオサ マーレイ・ハミルトン
   メラニー・グリフィス コーラル・ブラウン

ストーリー
クールな頭脳と行動力で鳴らした一匹狼の私立探偵ルー・ハーパーのもとに、莫大な報酬で仕事をもってきた女は、驚いたことに数年前に1週間ばかり情事を楽しんだ相手でアイリス・デベローという石油王の跡継だった。
彼にその仕事を引き受けさせたのは、むしろアイリスの娘スカイラーの存在だった。
まだ16歳だというのに性的な退廃を感じさせる娘だった。
ハーパーはモーテルで彼女に誘惑され、その現場を刑事部長ブラウサードに見られて逮捕されたとき、彼は改めて無軌道な娘をもった母親の苦悩を思いアイリスの力になってやろうと決心した。
アイリスの身辺は複雑で、夫のジェームスは挫折した劇作家で、生活能力がまったくない男だった。
その彼の母親オリビア・デベローが大変な男まさりで、小さいときから息子を溺愛し、莫大な石油の権利も自分で握っていた。
その老婆が、ある日死体となって邸に近い入江に浮いているのを発見された。
事件の捜査を開始したハーパーの前に数人の容疑者が浮かんだ。
デベロー家の石油を以前から狙っていた石油屋のJ・J・キルバーン、その妻で男狂いのメービス、昔デベロー家の運転手をしていて今は油田で働いているパット・リービス、その恋人の娼婦グレッチェン、サディスティックな警部フランク……。
人々がまず疑ったのはキルバーンで、彼がリービスを使って老婆を襲わせたというのだが・・・。


寸評
「動く標的」の2作目だが、ルー・ハーパーという役名をなぜか覚えていた。
僕は1作目の「動く標的」をリアルタイムで見ているのだが、保存しているパンフレットの日付を見ると1966年7月22日とあるので、高校2年だった夏に見たことになる。
僕が見たポール・ニューマン主演の最初の映画で、この時のポール・ニューマンの仕草がつまらない動作なのにとてもカッコよくてたちまちファンになってしまったのだ。
おそらく、その事があってルー・ハーパーという役名が脳裏に刻まれたのだろう。
ハード・ボイルド映画として当時の僕はこの映画を存分に楽しめたと言う記憶はないが、ポール・ニューマンは洋画を見始めるきっかけを作ってくれた俳優の一人になったことだけは確かだ。

「新・動く標的」を見たのは公開から随分経ってからで、「動く標的」公開からはさらに時間が経っている。
したがって1作目の印象はおぼろげなものとなっていたが、シリーズ物の2作目の宿命なのか1作目ほどの発見は見いだせない平凡な出来栄えだ。
脚本がトレイシー・キーナン・ウィン、ロレンツォ・センプル・Jr、ウォルター・ヒルの3人となっていて、それぞれがどこを担当したのか、あるいは3人で練り上げたものなのかは知らないが、カモフラージュの大げさな事件が展開されながら、最後はプライベートなことで決着すると言うストーリー構成が面白みを欠いてしまっている。

石油利権が絡んでいるので、社会性が潜んでいるかと思えばそうでもない。
依頼者の女性が、その昔ルー・ハーパーといい関係だったようだが、6年ぶりの再会で再びロマンスが芽生えると言う展開もない。
女性の家庭の人間関係は複雑なものが存在しているが、その様子はほとんど描かれていなくて、依頼者のアイリスと夫との冷めきった関係、アイリスの義母オリビアへの感情、娘スカイラーの放蕩などは見ていて伝わってこないので、事件の背景がぼやけたものとなってしまっている。
ルー・ハーパーはアイリスに離婚すればと言うと、アイリスは「何のために?」と問い返す。
アイリスは義母に対しても「殺してやる」的な言葉をつぶやいているから、アイリスも財産に執着している女だと思われるが、なんだかヒロインのような描かれ方でギャップを感じる。
夫のジェームスの存在はほとんど無視されている。
やはり、脚本に甘さがある気がしてならない。
そしてこの手の話の常道として、怪しい奴は犯人ではないと言うことがあるので、脅迫文の差出人やオリビア殺害の犯人と思われる人物が早々に示されるが、多分それは真犯人ではないだろうと推測できてしまう。
それなら最後にアッと言わせる劇的展開が欲しいところだが、まったくもってあっけない。
そのようにストーリー的には面白みの少ない作品だが、撮影のゴードン・ウィリスだけは頑張っていて、ハード・ボイルド・サスペンスとしての画調は雰囲気を生み出している。
その雰囲気が最後まで見続けさせた要因だったような気がする。
弾が2発しか残っていない拳銃で脅かして口を割らせるシーンとか、閉じ込められた部屋から洪水のような水に乗って脱出するシーンなどの見せ場があるものの、結局、僕にとっては「動く標的」のポール・ニューマンが再びルー・ハーパーをやってスクリーンに再登場したと言うだけの作品になってしまった。

白いドレスの女

2022-09-07 06:33:41 | 映画
「白いドレスの女」 1981年 アメリカ


監督 ローレンス・カスダン
出演 ウィリアム・ハート キャスリーン・ターナー
   ミッキー・ローク リチャード・クレンナ
   テッド・ダンソン J・A・プレストン

ストーリー
フロリダに事務所を構える弁護士ネッド・ラシーンは、親友で地元の検事であるピーターと刑事オスカーと共に行きつけのコーヒー・ショップに入りびたり、暑さを嘆いていた。
その晩、涼しさを求めて海岸沿いの野外ステージをぶらついていたネッドの前を、白いドレスを着た1人の女が通り過ぎて、ネッドは思わずその女に目を奪われた。
立ち止まりタバコを吸うその女に彼は声をかけるが、彼女は、自分には夫がいるといってつき離し、パインウッドに家があるとだけ言い残して立ち去った。
幾晩かパインウッドをドライブして、やっと彼女を見つけたネッドは、彼女の名がマティ・ウォーカーといい、夫が20歳も年上であることを知る。
2階のベランダに沢山の風鈴をもつ彼女の豪邸を訪れた彼は、そこで無理やり彼女を抱いた。
外出が多く、しかも中年じみた夫エドムンドにうんざりしていたという彼女は、ネッドに激しく燃えた。
数度の激しい逢いびきの後、当然のように2人の間に殺意がめばえた。
早速エドムンド殺害の準備を開始するネッドは爆弾のプロ、テディから特殊爆弾を入手し計画を実行。
マティは未亡人になり、しばらく2人は会わないで過ごした。
そんなある日、ネッドはマティの弁護士から呼び出され、遺言状が変更されていることを聞く。
当初、遺産の半分は姪のヘザーにいくことなっていたが、それに疑問点が生じた。
フロリダ州の法律では疑問点がある場合は遺言状が無効になり全部がマティのものになるという。
その遺言状にはネッドとマティの親友メリー・アンのサインがあったため、エドムンドの死とネッドとはもはや無関係でなくなってしまったのだ・・・。


寸評
フロリダの暑さが伝わってくる出だしで、ネッドが弁護士であること、裁判所では争うことになる検事のピ-ターとは親しい間柄であること、また刑事のオスカーとも友人関係であるらしいことが要領よく描かれる。
涼しさを求めて開かれている野外ステージを立ち去る白いドレスの女に視線送るネッド。
さあ始まるぞという展開でスムーズな入りだ。
前半はネッドとマティの官能的なシーンが繰り広げられる。
マティは謎めいた人妻だが、夫に満足していないことが徐々に分かってくる。
夫は仕事に没頭していて週末しか帰ってこず、マティは性的にも夫に満足していない。
マティは拒絶しながらも思わせぶりな態度でネッドを誘惑し、当初からマティに魅かれていたネッドはマティと関係を持つようになり、肉体的に溺れていく二人を追い続ける前半部分である。
それは、まるで女の不倫物語を官能的に描くきわもの映画のような雰囲気である。

映画の転機となるのは登場しなかった夫が現れた時だ。
レストランでマティ夫婦とネッドが出会い、ネッドはマティの夫であるエドムンドから侮辱された気分を味わう。
エドムンドが直接ネッドに侮辱する言葉を浴びせて険悪ムードになるというのではなく、ネッドが侮辱を受けたような気持ちになり、無意識のうちにエドムンドへの殺意が生まれたような気がしたシーンであった。
ついにネッドはエドムンドの殺害を決意しマティに打ち明けるのだが、ここからサスペンス性が一気に噴き出す。
ネッドは特殊爆弾によってエドムンドを殺害しようとするのだが、ここで登場するテディとネッドの関係が希薄なのは気になった。
どうやら弁護士のネッドはテディを助けたことがあり、テディはその恩義からネッドに協力するのだが、テディのネッドに対する忠誠心がなぜあれほど強いのか不思議に思えた。
またピーターによればエドムンドは殺されて当然の男だったようなのだが、殺されて当然の行為とは何であったのか分からないことが殺人のインパクトを弱めていたと思う。
よく分からないのがネッドが過去にかかわった事件の影響である。
後半でマティにネッドを紹介した弁護士が出てくるが、その彼にネッドが「あの事件のことをしゃべったのか」と詰問するシーンがあるのだが、それを話されるとまずいこととは何だったのかも分かっていない。
サスペンスとして、観客が色々と推理する描き方は出来たような気がする。

最初は遊びのつもりだったのに、やがて本気でお互いが愛し合うようになり、邪魔になってきた女の夫を殺すという筋立ては驚くような筋立てではない。
この作品もそのようなものかと思われた所で、夫の遺産を巡る話が出てきて一気に趣が変わる。
マティが俄然悪女として浮かび上がってくることで、僕はやっと身を乗り出すことができた。
ただマティがテディを訪ねる展開は少々短絡的過ぎて興味を削いだ。
キャスリーン・ターナーが体を武器に目的を達する悪女を見事に演じている。
逆に検事でネッドを追及する側であるピーターのキャラクターが中途半端に感じた。
おかしな動きをする変な検事なのだが、そのヘンテコぶりが生かされていなかったように思う。
悪女サスペンスとしてよくできていると思うが、もう少し脚本を練っていれば大傑作になったかもしれない。

白い恐怖

2022-09-06 07:15:49 | 映画
「白い恐怖」 1945年 アメリカ


監督 アルフレッド・ヒッチコック
出演 イングリッド・バーグマン グレゴリー・ペック
   レオ・G・キャロル ジョン・エメリー
   ウォーレス・フォード ロンダ・フレミング

ストーリー
舞台はアメリカのバーモント州にある精神病院。
所長のマーチソンが辞め、新しくエドワーズ博士という人物が後任で来ることになった。
恋愛に興味がないと評判の女医コンスタンスは、歓迎会でエドワーズ博士を見た瞬間恋に落ちてしまう。
しかしコンスタンスが病院内に作るプールの説明を始めたところ、白地のテーブルクロスに書かれた線を見たエドワーズは不機嫌になってしまう。
翌日、父親を殺したと思い込んでいる患者ガームズを診療した後、コンスタンスはエドワーズに散歩に誘われ、
その日の夜、エドワーズが書いたサイン入りの本を読んだコンスタンスは所長室を訪ねた。
互いに惹かれていることが分かり抱き合う二人だったが、コンスタンスのガウンにあった縞模様を見たエドワーズに発作が起きてしまう。
その直後、ガームズが自殺未遂を起こしたという知らせが届いた。
手術室でエドワーズが錯乱状態になってしまいコンスタンスは介抱するが、彼が彼女に渡したサインとエドワーズが書いた本に記された著者のサインが違うことに気がつく。
正体を疑ったコンスタンスはエドワーズを詰問したところ、「自分がエドワーズを殺した」との一点張りで、彼は記憶喪失に陥っていた。
ただ彼の煙草入れにはJ.B.というイニシャルがあり、それが名前らしいということが判明する。
J.Bは置手紙を残してニューヨークへ逃亡、後を追ったコンスタンスは自身の恩師であるブルロフ博士のところへ連れていく。
ベッドの縞模様や洗面台にできる白地の縞模様を見て再び発作を起こすJ.B。
博士の治療で彼の発作はガブリエル・ヴァレーでの出来事が原因だと判明する。
コンスタンスと共にそこへ向かい、スキーをするうちにJ.B.は記憶を取り戻したのだが・・・。


寸評
雑なところもあるけれど、テキパキとストーリーを運んでいくので楽しめる。
早々にヒロインのイングリッド・バーグマンが登場し、やがて新任の院長としてグレゴリー・ペックが登場する。
病院の先生たちが集って食事をしている所で初めて対面したイングリッド・バーグマンとグレゴリー・ペックは一目で恋に落ちる。
いわゆる一目ぼれというやつだが、これはちょっと唐突過ぎる描き方でご都合主義に感じる。
そこでグレゴリー・ペックの異変が示され、いよいよミステリーの開始だとわかる展開はスムーズだ。
ところが、精神科病院のためかやたらと心理学的な説明や夢に対する説明が多くて、その場面になると間延び感を感じてしまう。
この時代ではフロイトに代表されるような心理学がもてはやされていたのかもしれず、それが映画にも反映されたのかもしれないなと思う。
その為に、グレゴリー・ペックが語る夢の幻想シーンで使用されるダリの作品があっという間の描写で終わったような気がした。

作品中で一番ハラハラさせるシーンとなっていているのがJ.Bとコンスタンスの恩師であるブルロフ博士が対峙する場面だ。
J.Bはひげを剃ろうとカミソリを手にしたところ、白の恐怖に次々と襲われる。
錯乱状態となって隣の部屋に行くと、そこにはブルロフ博士がいる。
博士の所に行った時のアングルは、J.Bが持ったカミソリ越しに博士の姿があり、今にも襲わんかなという雰囲気を醸し出すものである。
画面の手前に大きく映るカミソリがあり、J.Bの全身は画面になくカミソリを持つ手だけが見える。
そして差し出されたものはまたしても白の象徴でもあるミルクだ。
飲み干すミルクがJ.Bの視線でとらえられ画面をふさいでいく。
そして次のシーンで椅子に横たわっている博士が映し出される。
一連の流れるようなカメラワークには惚れ惚れするものがあり、思わず「上手い!」と叫びたくなる。

演じているのがグレゴリー・ペックなので、彼がエドワーズを殺していないことは分かっているものの、予想外の人が真犯人で「ああ、なるほど」と思わせるのだが、もう少し伏線があっても良かったように思う。
グレゴリー・ペックの幼児体験も納得できるものだが、描き方には物足りなさを感じる。
そもそもどのようにして記憶喪失になったのかが分からないので、記憶が戻る時のインパクトも弱い。
しかし、そこからもうひとひねりしているのはサスペンスとしては合格点だ。

この映画では完全にイングリッド・バーグマンがグレゴリー・ペックを凌駕していて、眼鏡をかけて理知的なイメージを出す彼女の魅力が前面に出ている。
逃亡劇においても彼女がリード役となっているし、刑事の前でも堂々たる態度を貫いている。
ラストシーンを見ると、彼らは本当のハネムーンに出かけるようなのだが、きっとこの夫婦はグレゴリー・ペックが尻に敷かれるのだろうなと思わせる。

シラノ・ド・ベルジュラック

2022-09-05 07:35:30 | 映画
「シラノ・ド・ベルジュラック」 1990年 フランス / ハンガリー


監督 ジャン=ポール・ラプノー
出演 ジェラール・ドパルデュー アンヌ・ブロシェ
   ヴァンサン・ペレーズ ジャック・ウェベール
   ロラン・ベルタン フィリップ・モリエ=ジュヌー

ストーリー
1640年。雑多な人で溢れ返るブルゴーニュ劇場の中で、ひときわ目立つ大きな鼻の持ち主、詩人にして剣客とその名も高いガスコンの青年隊の偉丈夫、シラノ・ド・ベルジュラックが大声を上げた。
今しも彼が秘かに思いを寄せる従妹のロクサーヌに色目を使ったモンフルリーを舞台から引きずり降ろし、それに言いがかりをつけてきたかねてより妻ある身でありながらロクサーヌを狙っているギッシュ伯爵の手先となっているヴァルヴェール子爵と決闘しようというのである。
騒ぎの夜、シラノはロクサーヌから伝言を受けるが、それは彼女の慕う美青年クリスチャンがガスコンの青年隊に入隊するので、彼女の思いを伝えてほしいというものだった。
自らの鼻にコンプレックスを抱くシラノは無念をかみしめ、ロクサーヌの為に愛の橋渡しを務める。
こうしてシラノはクリスチャンのために愛の手紙を書き、口説き方を伝授する。
一方シラノに怨みを抱くギッシュ伯爵は仕返しのためガスコンの青年隊を戦場に送ることにするが、それを知ったシラノの機転でロクサーヌとクリスチャンは出陣の前夜ににわか仕立てながら結婚式を挙げる。
シラノはクリスチャンにも無断で、どんなに戦闘が激しくなってもロクサーヌに一日2通の恋文を届けることを忘れなかった。
それを知ったクリスチャンは危険を省みず戦場にやって来たロクサーヌに、シラノも愛を告白すべきだと言うのだが、その間もなくクリスチャンは銃弾に倒れ、ロクサーヌは手紙を恋人の思い出と共に胸にしまう。
そして14年、修道院で暮らすようになったロクサーヌのもとをシラノが訪ねてくるという日。
相変わらず敵の多いシラノはその途中で頭上から材木を落とされて重傷を負うが、はうようにしてロクサーヌのもとへ向かい、あのクリスチーヌの恋文を読ませてくれと頼む。
シラノは朗読を始めるが、夕闇の中にもかからわず一言一句間違いなく諳んじる聞き覚えのある声に、ロクサーヌははじめて手紙の主が彼であったことを悟るが、時すでに遅くシラノは息絶えるのだった。


寸評
「シラノ・ド・ベルジュラック」はよく知られた話で、僕もシラノが大きな鼻の持ち主で別の男に代わって自分が愛する女性に愛の告白をするという大まかな把握をしていた。
バルコニーにいる女性にシラノが男に代わって語り掛けるシーンがかすかに脳裏に残っているのだが、それは多分テレビ放映された1950年のマイケル・ゴードン監督による「シラノ・ド・ベルジュラック」を見たからではないかと思うし、僕の知識もその作品から得たものだと思うのだが、その記憶も定かではない。

シラノは文才に恵まれ剣の腕前も超一流であるが容姿にコンプレックスを持っている。
その為に愛する女性に愛を告白することができない。
相手の女性が超美人で頭脳明晰な明るいスポーツウーマンとくれば、こちらは自然とコンプレックスを抱いてしまい、その女性を前にすれば金縛り状態となって、とても愛の告白など出来るものではない。
想い出が美化され過ぎているのであろうが、初恋の人には僕もそのような状態だったように思う。
ロクサーヌは気高い女性で、文才のない男は目にも止めない。
美男のクリスチャンを見初めるが、彼が平凡な言葉しか発しない時に愛想をつかしそうになる。
それを救うのがシラノなのだが、彼の助力でクリスチャンはロクサーヌと結婚することができる。
クリスチャンは有頂天になっているが、しかし無学で文才のない彼は結婚後のロクサーヌとの生活をどのように想像していたのだろう。
すぐに正体がバレてしまい、結婚生活がすぐに破局に向かうことが明白だったはずだ。
ギッシュ伯爵によってスペイン軍と戦う前線に送られたことは、むしろ彼にとって幸いだったように思う。

シラノは戦場からクリスチャンに代わってロクサーヌに手紙を送り続ける。
スペイン軍の猛攻撃を前にしてシラノは死を覚悟し、別れの手紙をロクサーヌに書くのだが、もしかすると彼は自分の名前をしたためるつもりではなかったのかと思う。
涙をこぼした手紙はクリスチャンが奪い取り身に着けたまま死んでいく。
その手紙を見たロクサーヌは当然それがクリスチャンからの死を覚悟した別れの手紙だと思い込む。
僕はこの手紙の発想が愛の代理人という発想を超えたものになっていて、原作の素晴らしいところだと思う。
ロクサーヌがこの手紙の真相を知って、「手紙に着いた涙の後はあなたのものだったのね」とシラノに語り掛けると、シラノは「血の跡は彼のものだ」と言い放つ。
美辞麗句を繰り出すシラノであったが、僕は全編を通じてこの会話が一番気に入っている。

シラノは自分の作品を盗作され、自分の書いたシーンが大ウケなことを告げられ、「自分の一生は、自分の言葉を誰かに捧げる一生だったのだ」と語るが、しかしそれは大いなる美徳なのだと僕は思う。
自分の手柄を誇るより、誰かの手柄として物事を成功裏に導くことは素晴らしいことなのだと思うのだ。
変化に対しては反対意見を声高に述べるが、それが成功すると黙り込んでしまう人が多いのも世の常である。
僕はこの話は面白いと思うのだが、ロクサーヌと言う女性は好きにはなれない。
シラノの真実の愛を知ったロクサーヌの態度も、演出のせいかも知れないが盛り上がりを欠いていた。
死に際してシラノはロクサーヌに自分の気持ちを伝えることができたが、そんな風になれば幸せなことだと思う。

女優

2022-09-04 07:51:36 | 映画
「女優」 1947年 日本


監督 衣笠貞之助
出演 山田五十鈴 土方与志 河野秋武 伊豆肇
   沼崎勲 志村喬 進藤英太郎 北沢彪
   薄田研二 三島雅夫 石黒達也 永田靖
   伊達信 千石規子 赤木蘭子

ストーリー
大久保博士、島村抱月等を盟主とする文芸協会は倉本源四郎の高等演劇場の二階に仮事務所を設けた。
その隣の楽屋が仮教室で、ここでは熱心な演劇研究所の生徒を前に大久保、抱月、福原等が生徒以上の熱をもって講義を進めていた。
その講義を一語も漏らすまいと聞いているのは異様なまでに熱心な女、小林正子であった。
同じ生徒の平井陽三の紹介で入ったのである。
正子は二度目の結婚にも失敗し、敢然、夫や家をふり切って出て来た女だった。
正子の存在はたちまち際立ったものになった。
ハムレットの試演の後、公演は“人形の家”と決り配役も済んだ。
正子は芸名を松井須磨子と改めノラを演じる事になった。
公演は絶賛を博し、須磨子の名は一躍拡大された。
今や新劇女優としての輝かしい第一歩を踏み出した彼女であり、その陰に抱月の熱烈な指導があった。
須磨子にとって抱月は更生の恩人、いやそれ以上のものになりつつあった。
何時の間にかお互いが尊敬し合い、引き合っていたのだ。
しかし抱月より先に平井陽三が須磨子を焦がれて結婚を申込んだ。
須磨子は考えてもみない事で、抱月に相談した。
曖昧な返事を与えて須磨子を帰した抱月は、そこでハッキリと自分が須磨子を愛してることを知った。
だが彼は養子で、彼の家庭、家風、何一つ彼の進歩的な考えに逆行しないものはない。
殊に妻伊都子に至ってはもはや我慢のならない存在であった。


寸評
僕は演劇にあまり興味もないし演劇の歴史に精通しているわけでもないが、島村抱月と松井須磨子の名前は知っている。
もちろん松井須磨子が島村抱月の後を追って自殺したことも知識として持っている。
それほど島村抱月と松井須磨子は芸能史において著名な人物だということだ。
この作品はその島村抱月と松井須磨子を描いた伝記映画である。
両名を見たことがない僕には、この作品で演じられた二人のイメージがそのまま島村抱月と松井須磨子のイメージとなっている。

小林正子が平井陽三の紹介で島村抱月等を盟主とする文芸協会に入ってくる。
田舎育ちのようだが気性は激しく、離婚していることを何とも思っていない当時としては珍しい女性である。
正子はイプセンの「人形の家」のノラ役をもらい成功し、正子は芸名を松井須磨子にする。
「人形の家」のノラは今までに夫のヘルメルから愛情を受けていると思っていたが、実は自分を人形のように可愛がっていただけであり、一人の人間として対等に見られていないことに気づき、ヘルメルの制止を振り切って家を出るという物語で、それは松井須磨子となった正子そのものだったのだ。
そのこともあって松井須磨子は絶賛されるのだが、そのような環境下では良く描かれるように実際にも他の劇団員のひがみや妬みを受けるものなのだろう。
どうやら松井須磨子もそのような憂き目にあっていたようだ。

松井須磨子を紹介した平井陽三が須磨子のことを想っていて結婚を申し込むが、須磨子の気持ちは抱月にあり、妻子ある抱月も須磨子に気持ちが傾いている。
由緒あるらしい島村家の養子である抱月に妻は理解を示さない。
抱月でなくてもあの妻のいる家がくつろげる場所とは思えない。
随分と悪女的に描かれたものだ。
もっと悪いのは振られた平井陽三で、彼は抱月が須磨子に宛てた手紙を盗み出し、それを抱月夫人に渡して、二人の仲を割こうと画策する。
作品にはこういう男の存在は必要で、事実として平井陽三なる人物がいたかどうかは知らない。
抱月も須磨子も精神的につながっていると述べているが、実際もそうだったのかもしれない。
僕は小津安二郎と原節子もそのような関係だったのではないかと思っている。

抱月の死を暗示するように劇中劇が演じられるが、死神の描写が面白く出来上がっている。
衣笠貞之助は戦前から「狂った一頁」のような前衛的な作品を撮っていたから、このシーンもそのような雰囲気で時代を超えた演出をうかがわせる。
近代美術館のアーカイブセンターで「狂った一頁」の断片を見たが、とても戦前の作品とは思えなかった。
最後で松井須磨子が自殺する場面の描き方も工夫されている。
須磨子の姿は一度も描かれておらず、死を想像させる描き方で、叔父さんが緞帳のスイッチにぶつかったはずみで幕が下りる演出にしびれた。

女体

2022-09-03 10:17:18 | 映画
「女体」 1969年 日本


監督 増村保造
出演 浅丘ルリ子 岡田英次 岸田今日子 梓英子
   伊藤孝雄 川津祐介 小沢栄太郎 青山良彦
   早川雄三 北村和夫 伊東光一 中条静夫
   中田勉 小山内淳 三笠すみれ 川崎陽子

ストーリー
浜ミチ(浅丘ルリ子)は挑発的で魅惑に満ちた女である。
大学理事長小林卓造(小沢栄太郎)の息子行夫(青山良彦)に強姦されたミチは、慰謝料として二百万円を要求したが、行夫の姉晶江(岸田今日子)に侮辱的な扱いを受け小林家に激しい敵意を抱いた。
一方、スキャンダルを恐れた卓造は婿である秘書の石堂信之(岡田英次)に処理を一任、信之は妻晶江の意志に反して二百万円を支払った。
ミチは思いやりのある信之に愛を感じふたりは激しく求めあった。
ある日、ミチが信之との情事を告げて晶江をはずかしめた。
それを知った信之は、ミチが他の男とも交渉のあることを目撃、彼女と別れる決心をした。
信之のみた青年は五郎(川津祐介)という画家だったが、信之はミチを捨てられなかった。
そのため五郎から手切金を要求され、卓造から預っていた裏口入学金の一部を流用して支払った。
だが、五郎はミチと別れないばかりか、金の出所を追求するとうそぶいた。
信之はそんな五郎を誤って殺してしまった。
やがて保釈された信之は、妻を捨て、職を捨ててミチとの愛の生活に飛込んだ。
たが、バー経営が行きづまり、加えてミチの束縛を嫌う奔放な性格からふたりの間に亀裂が生じた。
ミチはやがて信之の妹雪子(梓英子)の婚約者秋月(伊藤孝雄)に心を寄せるようになった。
清潔で男性的な秋月は、ミチの誘惑を拒んだか、ミチは自分の愛を殺すことが出来なかった。
深夜のドライブに秋月を誘い出したミチではあったが、無理心中に失敗。
そして信之にも去られてひとりぼっちになったミチは「また素敵な男を見つければいいわ……」と咳いた。
ミチは酔った。そして、よろける足でガス管をひっかけ、永遠の眠りについた。


寸評
浅丘ルリ子は日活の人気女優だったが、日活の女優さんは石原裕次郎、小林旭などを主演にして人気を誇った男性映画の添え物として存在していた。
浅丘ルリ子は仲の良い佐久間良子の主演映画「五番町夕霧楼」を観て感銘を受け自己主張しだした。
すでに「憎いあンちくしょう」や「何か面白いことないか」などで、それまで演じてきた役柄と違った女性を演じ始めていたが、はっきりと脱皮を図ったのは100本出演記念映画となった蔵原惟繕監督の「執炎」(1964年)と、その後1967年に同監督で撮った「愛の渇き」だったと思う。
1966年には日活との専属契約を解消し他社出演もするようになり、本作は大映作品である。

冒頭から浅丘ルリ子がまともな人間でないことがよく分かる。
クネクネと変なダンスを踊るシーンが何度も出てくるし下着姿も度々披露されるが、やせすぎとも思われる浅丘ルリ子にそれほど性的魅力を感じない。
だからこそ増村はミチ役に浅丘ルリ子を起用したのだろう。
脚本が先にあり浅丘ルリ子を起用したのか、浅丘ルリ子主演と言う企画が先にあって脚本が書かれたのかは知らないが、浅丘ルリ子は増村保造の起用に応える演技を見せている。
同じような立場にあった松原智恵子には演技力がなかったのか、適当な企画が見つからなかったのか、この様な女性を演じる作品は撮られなかった。

浅丘演じるミチは普通の日本映画の女と違い、セックスを「抱かれた」ではなく「抱いた」と表現する女主導を体現する女である。
ミチという女は女性と言うより動物に近いものがあり、実に嫌味な女で共感するところが一つもない。
惚れっぽい女で、気に入った男なら相手の迷惑などお構いなしに色気を振りまいて猛烈アタックをする。
しかし華奢な彼女からは肉体的魅力で男を虜にすると言うイメージが沸かず、彼女の我儘ぶりが繰り返される。
豊満な女性ではあの憎らしさは出せなかったであろう。
浅丘ルリ子が岡田英次との生活に退屈し、伊藤孝雄を求めるようになるといよいよ狂気の度合いを増していくが、岡田との口論の中で「男を求めることがどうしてもやめられない」と浅丘が強弁するシーンは力強かった。
ミチは男を我がものにするためなら何でもする女だが、生への執着も強い。
伊藤孝雄に拒絶され入水自殺を試みる場面がしらじらしく、嫌味な女のボルテージが上がる。
ミチと対比されるのが石堂の妻晶江と妹の雪子で、晶江は離婚を承諾せず夫ひとりをを愛し続けると言い、雪子は平凡な幸せを求めミチを嫌って殴りかかる。
二人に対するミチの態度も苦々しいものがあるのだが、それは増村の狙ったものだと思う。
岡田が「俺たち戦中派にとって戦後の人生は余り物だ」と言い、「若い時は戦争や家族や仕事のために人生を費やしてきたのだから、もう自分のために費やしてもいいだろう」と言う。
しかし、いつの時代になっても、いくつになっても人生を自分の為だけに費やすことは至難の業である。
ミチはそれをやってきた女だが、それは一生続けられないよと言うラストであった。
増村保造がイメージしてきたヒロインそのものといえる雰囲気のある浅丘ルリ子と、陰りを見せ始める前の増村保造が出会った傑作と言えるだろう。

ジョーカー

2022-09-02 07:09:22 | 映画
「ジョーカー」 2019年 アメリカ


監督 トッド・フィリップス
出演 ホアキン・フェニックス ロバート・デ・ニーロ
   ザジー・ビーツ フランセス・コンロイ
   マーク・マロン ビル・キャンプ

ストーリー
大都会ゴッサム・シティは市の衛生局がストライキをおこなってゴミ収集を停止しているために腐臭が漂い、そしてそれは政治の機能不全の象徴でもあり、貧富の差は拡大し人々は暴力的になり何もかもが疲弊していた。
そんなゴッサム・シティに住むアーサー・フレックは貧しい道化師で細々と母親ペニーと2人で暮らしていた。
アーサーは脳と神経の損傷から、緊張すると笑いの発作に襲われる病気を患っていた。
母親は心臓と精神を病み、30年も前に仕えていた大富豪トーマス・ウェインへ送った、助けを求める手紙の返事を待つ毎日である。
アーサーは街の福祉予算の削減で、カウンセリングと向精神薬の打ち切りが告げられた。
さらには、ピエロ姿で閉店セールの宣伝をする仕事中、ストリートギャングの若者に袋叩きにされてしまう。
同僚のランドルがアーサーを慰め、「これで身を守れ」そう言って差し出したのは紙袋に包まれた拳銃だった。
後日、小児病棟でのピエロ姿での仕事中、アーサーは誤って拳銃を床に落としてしまい、ハハプロダクションを即刻解雇されてしまうが、ランドルは自分が渡した拳銃であることを否定してアーサーを裏切る。
ピエロ姿で着替える余裕もないままアーサーは地下鉄に乗った。
電車内ではトーマス・ウェインの会社で働く3人のエリート・ビジネスマンが女性に絡んでいた。
その女性は視線でアーサーに助けを求めるが、ストレスのせいか発作の笑いが抑えられないアーサーをビジネスマンたちはからかい袋叩きにする。


寸評
僕はバットマン・シリーズを見ていないのでジョーカーがいかなる悪役なのかを知らない。
しかしそんなことは関係なくこの作品を見ることができた。
アーサーはサンドイッチマンの仕事で糊口をしのいでいたが、彼には緊張すると笑いが止まらなくなる持病があり、それが原因のトラブルが絶えない。
いつかコメディアンになりたいとの夢を持ち、最下層の暮らしの中で頑張っているが、福祉補助を初め彼ら親子を支えていたものを次々と失っていく。
映画はそんなアーサーを通じて貧富の差がもたらすゆがんだ社会の姿をあらわにしていき、アーサーはジョーカーへと変身していく。

泣きながら笑っているような表情、持病の笑いに当初は嫌悪感を抱かせていたのに、徐々にアーサーへの同情や共感を誘い出していく。
やがて共感は誰もがジョーカーになり得るのだと言う警告を僕たちに発してくる。
群衆が同じピエロのお面をかぶって不満を爆発させることがその表れだ。
上流階級はアーサーと別世界にいる。
市長候補は大豪邸に住んでいるし、テレビのキャスターはアーサーを見下したような態度を見せる。
舞台では売れっ子芸人が堂々たるトークで人々を笑わし、お客はそのジョークを堪能している。
アーサーは彼等の前で「子供の頃にコメディアンになると言ったら笑われたが、コメディアンになった今は笑われない」と自虐ネタを披露するしかない。

アーサーは町では少年の暴行を受け、職場では上司にけなされ、家に帰れば精神を病んだ母親の世話をしなければならない。
弱い者だけが我慢して被害を受けていると言っているようである。
アーサーがトーマス・ウェインに自分の出自を聞く場面から映画は終局に向かって一気に動き出す。
アーサーはそれを確かめるために州立病院へ行き母ペニーの入院記録を調べる。
すると、自分は養子でそもそも母親と血縁関係にないこと、母親は精神疾患を患っていたこと、母の交際相手の男性がアーサーを虐待して脳に損傷を負わせたという事実を知ることになる。
アーサーがこれまで信じていた愛や絆はすべて幻想だったというのに驚くが、救いを求めに行ったソフィーとの関係はさらに衝撃的だ。

自分はピエロと我慢して虐げられてきた人々が目覚めた時、社会はあっけなく崩壊していくのかもしれないのだ。
タクシーの上で息絶えたかと思われたアーサーが見事に復活する姿はまるでキリストの復活だ。
エリート社員の3人を殺したアーサーは群衆にとって英雄なのだ。
アーサーはおざなりな態度を見せる社会福祉士のような女性も殺したのだろう。
靴に血糊をつけて踊りまくる。
映像と音楽も素晴らしいし、どこからがアーサーの妄想なのかもわからなくなる描き方にも唸らされた。
傑作だと思う。


勝利への脱出

2022-09-01 07:31:01 | 映画
「勝利への脱出」 1980年 アメリカ / イギリス / イタリア


監督 ジョン・ヒューストン
出演 シルヴェスター・スタローン マイケル・ケイン
   カロル・ローレ ペレ マックス・フォン・シドー
   ダニエル・マッセイ

ストーリー
第2次大戦下のドイツ南方ゲンズドルフ収容所では、捕虜になった連合軍兵士たちが、鉄条網の中で、ボール・ゲームに暮れる絶望的な日々を送っていた。
そんな捕虜たちの中に、目立って機敏なゲームぶりを発揮する米軍大尉ハッチがいた。
彼らの様子をじっとみつめるドイツ情報将校フォン・シュタイナーはふと、ドイツ・ナショナル・チーム対連合軍捕虜のサッカー試合を思いついた。
戦前、英国ナショナル・チームのリーダーとして活躍していた捕虜のリーダー、コルビー大尉は、このプランを受け入れ、条件として、ドイツ各地の捕虜収容所からの選抜でチームを組むことを要求した。
その中には、サッカーの経験のないハッチの名もあった。
コルビーは、このサッカー・ゲームを利用した巨大な脱走プランを練っていたのだ。
一方、ドイツ軍上層部は、この試合をイベントとして対外宣伝に利用しようとしていた。
捕虜チームの猛練習がはじまり、イギリスのテリーなど各国から、ならず者たちが集まるが、団結固い彼らに、部外者だったトリニダードのルイスがチームに参加した。
サッカー経験のないハッチはルール違反でチームをタジタジにさせるが、彼は予定通り収容所を脱走し、パリでレジスタンス組織の美しい娘レニーと接し、計画の全貌を知らされた。
パリ郊外のコロムビア・スタジアムの選手の控え室の真下から外部に通じるトンネルを掘り、ゲームの最中に全員脱走という作戦で、翌日収容所に戻ったハッチは仲間に詳細を告げ、ゲームではゴール・キーパーの任につき、観衆で埋めつくされたパリのスタジアムでゲームは開始された。


寸評
脱走モノの映画としてまず思い浮かぶのはスティーブ・マックィーンの「大脱走」だろう。
こちらはシルベスター・スタローン主演の脱走モノである。
「大脱走」は何と言ってもスティーブ・マックィーンが恰好よかったのだが、「勝利への脱出」のシルベスター・スタローンにはその恰好よさがないので僕の中では少し評価が低い。
いくらゴール・キーパーとは言え、あまりにもサッカー選手としての動きに迫力がないのである。
スタローンはボクシング選手としては様になっていたが、フットボール選手でサッカーの経験がないと言うことになっていても最後のPKを阻止するシーンは盛り上がりに欠けている。
脱獄モノだが前半のスタローンが脱獄に至るまでは付け足しのようなもので、実際スタローンの脱獄はハラハラするところもなく簡単に成功してしまっている。
やはり見どころはこの作品の特徴でもあるサッカーの試合だろう。

試合に臨む捕虜の選手を往年の名選手たちが演じているのだが、僕はサッカーファンでもないし、世代もちがっているので詳しく知らないのだが、流石に神様ペレだけは知っている。
ペレの他に、オズワルド・アルディレス、カジミエシュ・デイナ、ボビー・ムーア、マイク・サマービーなどがエンドクレジットで姿と共に紹介されている。
最大の見せ場はペレのオーバーヘッドシュートのシーンである。
高い跳躍から空中で見事なバランスを見せ、信じがたいボールコントロールでネットを揺らす同点ゴールだ。
ペレが決めるであろうことは分かっているが、それでも感激する場面である。
しかし全体的に試合のシーンにスピード感とスリル感に乏しさを感じる。
脱獄モノでありながらサッカーに重点を置いている作品だけに、試合の緊迫感をもう少し上手く出してくれても良かったように思う。

スポーツ映画の側面も持ち合わせているので、脱獄機会を捨ててでも試合に勝ちに行くのは分かっていてもスカッとする場面となっている。
ドイツの将校が元サッカー選手ということで、敵ながらフェアプレーの精神を残していて、連合軍選手の好プレーに思わず拍手してしまうのが微笑ましさを超えて感動的ですらある。
彼は戦争がなければよいと思っていた人物であることも後押ししている。
脱獄のスリルは最後になっても描かれないが、意表を突く方法で脱獄が成功する。
「大脱走」では逃げ延びた捕虜もいたが、射殺されたり連れ戻されたりした捕虜もいたのだが、彼らは全員が逃げ延びたのだろうか。
強制労働をさせられてやせ衰えていた北欧選手もいたが、彼らの活躍シーンがあっても良かったし、スタローンにゴールキーパーの席を譲った選手の活躍場面も欲しかった。

見終ると、視点を変えた脱獄映画だったと満足するが、一方でシルベスター・スタローンは肉体派としてボクシングをやっていた方が存在感を出せる人で、サッカー選手を演じるのは無理だと分かった。