おじさんの映画三昧

旧作を含めほぼ毎日映画を見ております。
それらの映画評(ほとんど感想文ですが)を掲載していきます。

メジャーリーグ

2020-05-16 10:57:41 | 映画
「メジャーリーグ」 1989年 アメリカ


監督 デイヴィッド・S・ウォード
出演 トム・ベレンジャー
   チャーリー・シーン
   コービン・バーンセン
   マーガレット・ウィットン
   ジェームズ・ギャモン
   レネ・ルッソ

ストーリー
アメリカンリーグ、東地区クリーブランド・インディアンズは伝統こそあるが、ここ34年間優勝から遠ざかり、Aクラスすら叶わない有様である。
急死した夫の跡を継いで新オーナーとなったダンサー上がりのレイチェル・フェルプスは、本拠地をマイアミに移すため、市の条約に従い、1年間の観客動員数80万人を下回らせようと企んでいた。
彼女はマネージャーのチャーリー・ドノヴァンに新チームのリストを渡し、監督のルー・ブラウンを始めとする一癖も二癖もある連中を集めさせた。
メキシカンリーグのキャッチャー、ジェイク・テーラーや刑務所から仮出所してきたピッチャーのリッキー・ボーンたちは、憧れのメジャーリーグ入りに張り切るが、もとより実力のない彼らの戦いぶりは惨めで、連戦連敗を繰り返していた。
ある日ジェイクは、町で別れた妻リンと出会った。
彼女には新しい婚約者がいたが、彼は想いが断ち切れないためにプレーにより熱がこもっていった。
そしてノーコンに悩むリッキーがメガネをかけて登板するや、見違えるようなピッチングを披露し、チームに勝利をもたらした。
チャーリーたちは事の真相を知り、以後チームの結束は一段と強まり、士気はますます高まった。
一転してチームは連戦連勝の快進撃、ついにインディアンズは首位のヤンキーズに並び、優勝の行方は本拠地クリーブランド・ムニシバル・スタジアムでの最終戦に持ち込まれる・・・。


寸評
野球を題材にして大真面目なコメディを作ってしまうアメリカ映画の底力を感じさせる。
しかも描かれるのが実際のメジャーリーグの球団であるクリーブランド・インディアンスで、その相手となるのもニューヨーク・ヤンキースである。
万年下位争いの弱小球団と常勝軍団の対決というのはお決まりと言えばお決まりなのだが、実際の球団で描かれると説明を受けなくても状況が呑み込めてしまう。

約束通りの始まりで、オーナーの目論見によってポンコツ選手が参集してくるところから始まる。
膝を怪我していてまともに2塁送球が出来ないキャッチャーのジェイク・テーラー。
球は速いがコントロールがままならない投手のリッキー・ボーンは刑務所から出てきたばかり。
紛れ込んだウィリー・メイズ・ヘイズは足は速いが、ボールを前に飛ばすことが出来ない。
打撃は健在だが、守備ではかつて重傷を負ったこともあって怠慢プレーが目立つ3塁手のロジャー・ドーン。
ペドロ・セラノは直球ならホームランを連発するが、変化球はからっきしダメで三振ばかりのバッターだ。
エディー・ハリスというベテランピッチャーは肩や腹に食用油脂やローションなどを塗って不正投球をする。
一癖も二癖もある連中と言うのはこの手の映画のパターンの一つだし、最初はそれらの弱点が出て負けているが、やがて徐々に勝ちだしていくのも期待通りだ。

これにジェイクと別れた元恋人のリン・ウェルズとのよりを戻していく話がしっとりとさせるパートを受け持っている。
リンは婚約者がおり、相手は約束通り真面目で金持ちの男である。
ジェイクがリンに再アタックする様子は青春映画の様でもあり微笑ましい。
女性はオーナーのレイチェル・フェルプス以外に、ドーンの奥さんが登場するが、なぜボーンと関係を持ったのか、詳しく描かれていない。
単に浮気性でボーンに興味を持ったためなのか、浮気を自らドーンに告げているので、もしかしたらオーナー女性の差し金でチーム内に不協和音を起こしたかったのかもしれない。
経緯を描いておいても良かったのではないかと思う。

ペナントレースの方は、これまたお決まりの通りインディアンスが追い上げてヤンキースと並んでしまう。
プレーオフとなり、しかも同点で9回表ヤンキースの攻撃は2アウト満塁という局面を迎える。
ここで「WILD THING」の歌声が球場にこだまする中を、チャーリー・シーンのボーンが黒縁眼鏡をかけ颯爽と登場するのだが、このシーンは何度見ても身震いがする。
球場の全員がインディアンスファンといった様相で、皆がダンスして大いに盛り上げる。
そして劇的幕切れとなるのだが、球場の臨場感を出す演出はいつもながらアメリカ映画は上手い。
実況中継を行っている地元のアナウンサーがコメディに拍車をかけるような中継で笑わせる。
ボーンに代わって先発したハリスは自慢の不正投球を一度も見せなかった。
そんなわけで、ちょっと雑なところもあるけれど、野球映画ファンなら楽しめる仕上がりになっている。
インディアンスはこの映画が作られたころは弱小チームの代名詞になっていたようだが、映画のヒットと共に観客数も増え、チームも強くなっていき黄金期を迎えることになったから、映画の貢献は計り知れないと思う。

めし

2020-05-15 10:28:39 | 映画
「めし」 1951年 日本


監督 成瀬巳喜男
出演 上原謙 原節子 島崎雪子
   進藤英太郎 瀧花久子 二本柳寛
   杉村春子 杉葉子 小林桂樹
   花井蘭子 風見章子 山村聡

ストーリー
恋愛結婚をした岡本初之輔(上原謙)と三千代(原節子)の夫婦も、大阪天神の森のささやかな横町につつましいサラリーマンの生活に明け暮れしている間に、いつしか新婚の夢もあせ果て、わずかなことでいさかいを繰りかえすようになった。
そこへ姪の里子(島崎雪子)が家出して東京からやって来て、その華やいだ奔放な態度で家庭の空気を一そうにかきみだすのであった。
三千代が同窓会で家をあけた日、初之輔と里子が家にいるにもかかわらず、階下の入口にあった新調の靴がぬすまれたり、二人がいたという二階には里子が寝ていたらしい毛布が敷かれていたりして、三千代の心にいまわしい想像をさえかき立てるのであった。
そして里子が出入りの谷口のおばさん(浦辺粂子)の息子芳太郎(大泉滉)と遊びまわっていることを三千代はつい強く叱責したりもするのだった。
家庭内のこうした重苦しい空気に堪えられず、三千代は里子を連れて東京へ立った。
三千代は再び初之輔の許へは帰らぬつもりで、職業を探す気にもなっていたが、従兄の竹中一夫(二本柳寛)からそれとなく箱根へさそわれると、かえって初之輔の面影が強く思い出されたりするのだった。
その一夫と里子が親しく交際をはじめたことを知ったとき、三千代は自分の身を置くところが初之輔の傍でしかないことを改めて悟った。
その折も折、初之輔は三千代を迎えに東京へ出て来た。


寸評
初之輔(上原謙)と三千代(原節子)は情熱的に結婚した夫婦だが、いまや倦怠期を迎えた夫婦である。
その夫婦間に起きる些細な出来事を日常的に切り取って活写している。
ある時期を過ぎれば夫婦間の会話は無くなり、「新聞、お茶、めし」などと夫の方は単語を発するだけになってしまうというのは現在でも言われていることだ。
何かといえば「めしは?」とか「腹が減った」などという食事に関する夫の言葉が描かれている。
「めし」とはよくも付けたタイトルだ。

営々と営まれる社会生活、家族生活の中でのちょっとした出来事が描かれているだけで、大きな出来事が起きるわけではない。
それでも描かれている内容は、不変のテーマの様でもあり現在にも通じるものである。
今の作品ならもっとドラマチックに描くのではないかと思った。
三千代は従兄の竹中一夫(二本柳寛)と昔を懐かしんで旅するが何事も起こらない。
微妙な気持ちを里子(島崎雪子)に察せられて、「私が一夫さんと結婚すれば初之輔さんは幸せになれるんじゃありません?」などと言われているから、それらしい雰囲気もあったのだろう。
それを感じた三千代は笑うしかなかったが、三千代にしてみれば「そんなバカな…」と笑い飛ばすしかなかったのではないかと思う。

里子は若者世代の代表で、その素行は三千代には理解できないものである。
どうも度々家出をしているようだが、今の様な不良少女の家出ではなく、ちょっとした逃避行で行く先はたかが知れているし、その所在は常に両親に報告されている。
父親は教師で厳格なようだが、父親(山村聡)の説教を顔で聞きながら心では無視しているドライな娘だ。
里子は男に取り入るのが上手な女性で初之輔にも可愛く甘えるが、姪とは言え若い娘に慕われ初之輔は悪い気がするはずがない。
三千代はそんな初之輔の態度が気に入らず、長居をしていることもあって矛先が里子に向かう。
里子はそんな三千代の気持ちが分かっていながらも、女の意地なのか構わずに長居を続け、三千代が気に入らない人たちと、むしろ親しくする。
それを声高に描くのではなく、ごく日常のやり取りの中に描いていく成瀬の演出は、優しそうでいながら厳しい。

三千代は思い余って東京の実家に帰るが、そこで就職口を探すなど気持ちは相当乱れているのだが、やはり特殊事例の行動はとらず、多くの人が選択するであろう行動を取ることになる。
三千代の暴走を止めたのは旧友の姿だ。
子供が後ろ姿で座っているシーンは三千代ならずとも心に迫ってくる。
結局、家からの逃避ということでは三千代も里子と同様で、二人とも兄の信三(小林桂樹)から叱責されたりしているのだが、この叱責シーンは静かな進行の中で唯一怒鳴るシーンだ。
やがて静かに映画は終わるが、今の女性運動家が見れば一言文句を言いたくなるであろうエンディングだった。
昔の大阪の様子が分かって、大阪人の私はその様子を垣間見ることができたのも楽しめた理由のひとつ。

めぐりあう時間たち

2020-05-14 08:41:27 | 映画
「めぐりあう時間たち」 2002年 アメリアk


監督 スティーヴン・ダルドリー
出演 ニコール・キッドマン
   ジュリアン・ムーア
   メリル・ストリープ
   エド・ハリス
   トニ・コレット
   クレア・デインズ

ストーリー
1923年、ロンドン郊外のリッチモンドで作家のヴァージニア・ウルフ(ニコール・キッドマン)は、病気療養のために夫レナード(スティーヴン・ディレイン)とこの町に住み、『ダロウェイ夫人』を執筆していた。
そんな彼女のもとに、姉のヴァネッサ(ミランダ・リチャードソン)たちがロンドンから訪ねてくる。
お茶のパーティーが終わり、姉たちが帰ったあと、ヴァージニアは突然駅へと急ぎ、追ってきたレナードにすべての苦悩を爆発させ、その悲痛な叫びにより、レナードは彼女と共にロンドンへ戻ることを決意するのだった。
1951年、ロサンジェルスに住む主婦ローラ・ブラウン(ジュリアン・ムーア)は妊娠中。
夫のダン(ジョン・C・ライリー)は優しかったが、ローラは彼が望む理想の妻でいることに疲れていた。
ダンの誕生日に夜のパーティーを準備中、親友キティ(トニ・コレット)がやってきて、腫瘍のため入院すると彼女に泣きながら告げる。
やがてローラは、息子のリッチー(ジャック・ロヴェロ)を隣人に預け、大量の薬瓶を持って一人ホテルへと向かい、その部屋で彼女は『ダロウェイ夫人』を開きながら、膨れた腹をさするのだった。
2001年、ニューヨークでは編集者のクラリッサ・ヴォーン(メリル・ストリープ)は、エイズに冒された友人の作家リチャード(エド・ハリス)の受賞パーティーの準備をしていた。
彼女は昔、リチャードが自分につけたニックネームミセス・ダロウェイにとりつかれ、感情を抑えながら彼の世話を続けてきたのだ、しかしリチャードは、苦しみのあまり飛び降り自殺。
パーティーは中止になったが、そこにリチャードの母親であり、家族を失ってしまったローラが訪ねてくる。


寸評
僕は「ダロウェイ夫人」を読んだことがないし、さらにその作者であるバージニア・ウルフも知らない。
その名前はマイク・ニコルズ監督、エリザベス・テイラー主演で撮られた「ヴァージニア・ウルフなんかこわくない」で知るのみである。
僕たちは太宰治が自殺未遂を繰り返したのち、玉川上水で心中したことを知っているのと同様に、欧米人にとってはバージニア・ウルフがコートをはおり、そのポケットに石をつめて自宅近くのウーズ川で入水自殺したことは周知の事実なのだろか。
そうだとすれば、最初にそのシーンが出てきただけで、その後に描かれるバージニア・ウルフに思い入れを持ちながら見ることが出来ただろう。
残念ながら、僕はバージニア・ウルフを思い浮かべることが出来ず、ただただうつ病を患っているバージニア・ウルフを演じるためにニコール・キッドマンに施されたメイクに驚くばかりであった。
そして、僕たちが読んでいなくても夏目漱石の「ぼっちゃん」のあらすじを知っているように、彼等は「ダロウェイ夫人」の内容を知っているものなのだろうか。
映画はバージニア・ウルフの代表作である「ダロウェイ夫人」を底流に敷き詰めて描かれていく。

バージニア・ウルフは精神を病み静養のために移り住んだ田舎で「ダロウェイ夫人」を執筆中である。
病気のためか、夫とも使用人とも上手くいっていないようだし、田舎を嫌っていてロンドンに帰りたがっている。
夫は自分のために印刷屋をこの地で始めたようだが、今の生活に疑問を抱いているようである。
そんなバージニア・ウルフが著した「ダロウェイ夫人」をローラが読んでいる。
夫は妻のローラを愛し今の生活に大満足で、ローラも二人目の子を身ごもっている。
一見平和そうな家庭なのだが、ローラがその生活に疲れ切っていることを誰も知らない。
ローラには夫も子供も重荷なのだ。
幼い息子のリッチーだけは薄々感じていたのかもしれない。
そしていつかこの母親に捨てられるのではないかとの不安も抱いていたような気がする。
ローラは自殺を思いとどまり元の家庭に帰るが、結局家庭を棄てて一人で家を出ていってしまう。
「ダロウェイ夫人」の主人公と同じ名前のクラリッサはその為にダロウェイと言うニックネームをもらっているのだが、
彼女の友人でエイズ病患者のリチャードこそ、ローラが捨て去ったリッチーの成人した姿だった。
作家であるリチャードが栄えある賞を受賞したことを祝うパーティの準備をクラリッサがしているのも「ダロウェイ夫人」のストーリーそのものだということで、このことも作品の中身を知っていてこその設定である。

三人の女性を時代を変えながら、つながりを持たせながら、その中で生、死、愛を問い続けていく哲学的な内容であると同時に、同性愛という男女間ではない別の関係もにじませていく。
高尚な作品を見ているような気分になって来て、全編を通じて流れるピアノ曲がその気分を盛り上げていく。
音楽担当のフィリップ・グラスが力を発揮していたように思う。
僕にとっては若干消化不良を起こさせる作品なのだが、僕がバージニア・ウルフを知っていて、そして「ダロウェイ夫人」を精読していたなら、この映画の評価は違っていただろうし、おそらく僕の中ではもっと感動的なものになっていただろう。

女神は二度微笑む

2020-05-13 09:27:58 | 映画
「女神は二度微笑む」 2012年 


監督 スジョイ・ゴーシュ
出演 ヴィディヤ・バラン
   パランブラタ・チャテルジー
   ナワーズッディーン・シッディーキー

ストーリー
2年前に毒ガスによる地下鉄無差別テロ事件で多くの犠牲者が出たインドの大都市コルカタ(旧名カルカッタ)。
その国際空港に、はるばるロンドンからやってきた美しき妊婦ヴィディヤ(ヴィディヤー・バーラン)が降り立つ。
彼女の目的は、1ヶ月前に行方不明になった夫アルナブを捜すことであった。
地元の新米警官ラナ(パランブラト・チャテルジー)の助けを借りながら、夫がいたはずの場所を巡るヴィディヤ。
しかし宿泊先にも勤務先にも夫がいたことを証明する記録は一切なく、ヴィディヤは途方に暮れてしまう。
そんな中、アルナブに瓜ふたつの風貌を持つミラン・ダムジという危険人物の存在が浮上してくる。
それを知った国家情報局のエージェントが捜索に介入し、ヴィディヤへの協力者が何者かに殺害されるという緊迫の事態に発展していく。
少々頼りなくも誠実なラナの協力を得て、なおも夫捜しに執念を燃やすヴィディヤだったが、やがて2年前に起きた無差別テロ事件が夫の失踪と関連していることを知る…。


寸評
インド映画といえば歌と踊りだと思っていたのだが、なかなかどうしてこの映画は特上のサスペンス作品だ。
冒頭は謎のガスマスク男が登場し、マウスを使った実験を行う。
続いて地下鉄サリン事件を思わせる毒ガスによる無差別テロが描かれる。
この導入部における一連の流れの音楽やテンポは韓国映画を彷彿させた。

話が進むうちに、二転三転する展開に目が離せなくなっている。
それだけ作品に引き込まれているということだ。
この手の映画の常套手段のはずなのに、重要人物が殺されたりすると「ああ、また一人手がかりとなる人が消された」と思い、主人公のヴィディヤ自身が命を狙われたりするたびにハラハラドキドキする。
とにかくスリリングだ。

追跡劇の合間では、ヴィディヤの様々な表情が描かれる。
ひたすら夫の姿をもためて突き進む強い女性ながら時折見せる悲しみの表情や苛立ち。
子供をはじめ周囲の人々を巧みに味方にしてしまう魅力的な人柄などだ。
そんなに簡単に味方に引き入れてしまえるものかと思われるのだが、彼女の魅力がその疑問を打ち消してしまう。
行動を共にしているうちにラナがヴィディヤに恋心を芽生えさせるのもパターンではあるが、ヴィディヤが妊婦であることでその感情を抑えたものして、かえって切ない恋心がにじみ出ていていい雰囲気だ。
ラナが帰宅電話を母親に入れることでその切なさが増幅されていて、細かい演出が見て取れる。
そしてヴィディヤが妊婦であることがやがて大きな意味を持ってくる伏線にもなってくる巧さがある。

町並みを写す映像もいい。
インドに行ったことのない、ましてやコルカタを知らない僕は、度々映されるこの街並みの映像だけで現場にいるような気分になった。
祭りの雰囲気もいいし、雑然とした裏町の様子も作品にマッチしている。
ヴィディヤを演じたヴィディヤー・バーランが美しくてカッコいいので、さらにインド世界に入り込めた。
インド女性は目が大きく美人が多いが、ヴィディヤー・バーランもまさにその典型だ。
僕が以前シンガポールのインド人街を訪れた時、すれ違う女性に見とれたことを思い出す。

最後は、えっ、えっ! そういうことなの! というどんでん返しが待ち受けている。
そこに至って、今までに張り巡らされていた伏線が解きほぐされていく。
そういえばあのシーンは…、あそこはそういう事だったのか…。
このあたりは脚本の妙と言えるのだろうが、非常に良く出来たサスペンス・ミステリー作品だった。

夫婦善哉

2020-05-12 07:20:50 | 映画
「夫婦善哉」 1955年 日本


監督 豊田四郎
出演 森繁久彌 淡島千景 小堀誠 司葉子
   森川佳子 田村楽太 三好栄子
   浪花千栄子 万代峰子 山茶花究

ストーリー
曽根崎新地では売れっ妓の芸者蝶子(淡島千景)は、安化粧問屋の息子維康柳吉(森繁久彌)と駈落ちした。
柳吉の女房は十三になるみつ子(森川佳子)を残したまま病気で二年越しに実家に戻ったままであった。
中風で寝ついた柳吉の父親(小堀誠)は、蝶子と彼との仲を知って勘当してしまったので、二人は早速生活に困った。
蝶子は臨時雇であるヤトナ芸者で苦労する決心をした。
そして生活を切り詰め、ヤトナの儲けを半分ぐらい貯金したが、ボンボン気質の抜けない柳吉は蝶子から小遣いをせびっては安カフェで遊び呆けていた。
夏になる頃、妹の筆子(司葉子)が婿養子を迎えるという噂を聞いて、柳吉は家を飛び出して幾日も帰って来なかった。
柳吉は親父の家に入りびたっていたのは、廃嫡になる前に蝶子と別れるという一芝居を打って金だけ貰い、その後に二人で末永く暮すためだと云った。
それが失敗に終り、妹から無心して来た三百円と蝶子の貯金とで飛田遊廓の中に「蝶柳」という関東煮屋を出したのだが、暫くして柳吉は賢臓結核となり、蝶子は病院代の要るままに店を売りに出した。
柳吉はやがて退院して有馬温泉へ出養生したが、その費用も蝶子がヤトナで稼いだのであった。
柳吉は父からもその養子京一(山茶花究)からも相手にされず、再び金を借りて蝶子とカフェを経営することになった。
やがて柳吉の父は死んだ。
蝶子との仲も遂に許して貰えず、葬儀には参列したが柳吉は位牌も持たせてもらえなかった。
二十日余り経って、柳吉と蝶子は法善寺境内の「めおとぜんざい」へ行った。
とも角、仲の良い二人なのであった。


寸評
大阪の映画を1本だけ挙げるとすれば、僕は真っ先にこの作品を思い浮かべる。
主演の二人がとんでもなく魅力的で、こんなダメな人間でも面白おかしく生きているじゃないかと開き直っているようであり、二人が織りなす滑稽なやり取りは思わずニヤリとしてしまう可笑しさがある。
森繁久彌は大阪の枚方出身だし、淡島千景も宝塚の娘役として活躍していた時期があるから、彼等の話す大阪弁は映画にすっかり溶け込んでいる。
脇役の話ことばも違和感がなく、法善寺のセットも雰囲気を損ねていない。

柳吉は生活力のない男で、なぜ、それほどまでに女に依存してしまうのかと思う反面、蝶子はなぜ、それほどまでに依存する男を許容するのかと思いながら見続ける。
おそらくそれは、アルピニストが、そこに山があるから登るというように、許容してくれる女がいたからであり、許容を必要とする男がいたからとしか言いようのないものだ。
柳吉は女房が病気の間に蝶子と出来てしまい駆け落ちをし、化粧品問屋を営む実家から金をせびることしか考えてないようなダメ男である。
柳吉は蝶子の金を使い込んで遊び惚ける道楽者だが、蝶子はそんな柳吉を叱咤しながらも離れられない。
蝶子は浪花女の意地で「いつか柳吉をいっぱしの男に仕立て上げる」という気持ちも持ち合わせている。
女にとって男の存在が絶対的であるのに対し、男にとって女の存在は絶対的ではないのに、それでも離れられず結局は女のもとに戻ってきてしまう。
二人の関係は、男と女というよりも、しっかり者の母親が出来の悪い息子を溺愛するような関係に見える。
母性本能を発揮して柳吉を慕い許し続ける蝶子を演じた淡島千景は魅力的だが、それ以上に軟弱な柳吉を演じた森繁久彌が輝きを放っている。

普通の男なら女に対して自分は立派な人間だと見栄を張りたいものだが、柳吉にはそれがない。
この男は、甘やかされた放蕩息子であり、怠惰な生活者であり、そして呆れるほどの他者への依存者である。
勘当されながらも父親が亡くなれば店を継ぐつもりでいるし、田中春男の番頭などはその時に大番頭にしてもらおうと媚びを売っている。
女遊びの為なら蝶子の金にも手を付けるし、金もないのに食道楽だ。
何かといえば実家に頼るし、蝶子を裏切るようなことをしておきながらも行き場がなくなると結局蝶子の所へ戻ってくるような身勝手な男だ。
それなのに、蝶子ならずともどうも憎めないのだ。
蝶子は「「わてわな、何も奥さんの後釜に座るつもりはあらへん。あの人を一人前の男に出世させたら、それで本望や。ホンマやで。ホンマにそない思うて一生懸命稼いでんやで」と言う。
また入院中の男を見舞う男の妹から、男の父が女のことを褒めているという話を聞いて、 「へぇ。お父さんがそない言うてくれはってるんのやったら、わては身を粉にしてでも、どないしてでも・・・安心してておくれやす」と言う。
柳吉は女にそんなことを言わせる男で、実際にはそんな男冥利に尽きる女性などいないのではないか。
男のあこがれの気持ちを多分に映画にのめり込ませていると思う。
法善寺の「夫婦善哉」は店は残っているもののビルになってしまいちょっと淋しい気がする。

明治侠客伝・三代目襲名

2020-05-11 07:19:11 | 映画
「め」です。

「明治侠客伝・三代目襲名」 1965 日本


監督 加藤泰
出演 鶴田浩二 富司純子 大木実 津川雅彦
   安部徹 山城新伍 曽根晴美 汐路章
   遠藤辰雄 嵐寛寿郎 藤山寛美 丹波哲郎

ストーリー
明治40年の大阪。古くから続く土地のやくざ・木屋辰一家は、湾岸地区の土木工事の建材調達を一手に引き受け、新進の星野建材はなかなかそこに入り込めないでいた。
喧嘩祭りに賑わう大阪の町角で、木屋辰一家の二代目江本福一(嵐寛寿郎)が小倉の無宿者中井徳松(汐路章)に刺された。
浄水場工事を請負う野村組の現場に資材を送りこむ木屋辰に対する星野軍次郎(大木実)のいやがらせであった。
星野の配下唐沢組を使っての指金であることはわかっていながら確証が掴めず、木屋辰の一人息子春夫(津川雅彦)は不貞くされて家を飛び出した。
福一は殺し屋に腰を刺されたものの何とか一命を取りとめ、軍次郎の暗殺計画は失敗に終わるが、軍次郎は福一が寝たきりになったのを良いことに、配下の唐沢一家を使って木屋辰の事業をことごとく妨害する。
木屋辰の乾分菊池浅次郎(鶴田浩二)は、春夫の身を案じてお茶屋松乃屋を訪ねた。
松乃屋の娼妓初(藤純子)が唐沢(安部徹)にしぼられ、親の死に目にも会えないのを知った浅次郎は、初栄を親元に帰してやるのだった。
二代目は床に伏し、春夫不在の木屋辰組は、浅次郎の采配で仕事を続けた。
だが唐沢組は陰湿ないやがらせを重ね、浅次郎らの足をひくのだった。
資材不足で工事の遅れを詑びる浅次郎に、野村組社長野村勇太郎(丹波哲郎)は、快よく励ましを送った。
ある日初栄が親の死に目に会えた礼をのべるため浅次郎を訪れた。
初栄は浅次郎に恋心を抱くようになっていくが、遊郭はそんな初栄をとうとう唐沢に売り飛ばしてしまう。
だが初栄は松乃屋で唐沢から制裁を受け、浅次郎は唐沢と対決する破目となった。
木屋辰一家の客人石井仙吉(藤山寛美)の機知で浅次郎は救われたが、その時、二代目は息をひきとっていた。
看病の甲斐なく福一が息を引き取り、未亡人の意向により木屋辰の三代目は浅次郎と決まる。
この決定に不満な春夫は浅次郎を憎んで毒づくが、浅次郎は「やくざの木屋辰は俺が受け継ぎ、春夫には堅気になってもらって木屋辰の事業を繁栄させてほしい」と泣いて懇願する。
この言葉を聞いた春夫は改心して浅次郎と和解し、浅次郎は野村に春夫の行く末を頼んだ。
数日後、浅次郎の襲名披露が行われた夜、初栄は唐沢に身請けされていた。
三代目の初仕事に、星野は横槍を入れたが、野村の献身的な努力で江本建材は軌道に乗った。
春夫の手紙に喜ぶ浅次郎のもとに大阪のひさ(毛利菊枝)から、春夫、仙吉の二人が星野、唐沢に刺殺されたと知らせて来た。
浅次郎は短刀を握りしめ、星野建材にのりこむと、星野、唐沢を刺した。
凶暴なやくざの顔を初めて見せた浅次郎が唐沢にとどめを刺そうとすると、初栄が必死に止めに入って浅次郎は我に返る。
薄暮の街を、追いすがる初栄を振り払いながら浅次郎は警察に連行されていくのだった。

寸評
冒頭で嵐寛寿郎が汐路章に刺されるシーンがあるのだが、このシーンがなかなかいい。
見るからに悪人ずらした汐路章のアップが入る。
祭りを見学している嵐寛寿郎の背後におもちゃの笛を吹きながら表情ひとつ変えずに近づいていく。
祭りの騒音に声が掻き消され、嵐勘十郎の表情が苦痛に歪んだことで刺されたと分かる。
この間、汐路章が全くの無表情で事に及んでいる事で凄みが増している。
任侠映画ではよくある善玉親分の暗殺シーンであるが、ここでの暗殺シーンはその中でも出色の出来栄えである。
初栄が浅次郎の機転によって父親の臨終に立ち会えた事のお礼を言う土手のシーンもこれまた出色のシーンとなっている。
夕焼け空を背景にしたセットは美しく任侠映画史上に残る名シーンだ。
死にゆく親に会いに行った初栄が故郷から戻ってきた土産の桃を浅次郎に渡すのだが、このシーンの美しさは屈指のものだと思う。
結ばれる事のない鶴田浩二演じる浅次郎と藤純子演じる娼妓初栄の見事なラブシーンである。

鶴田浩二が一緒に逃げてくれとせがむ藤純子に言う、「あほな男や、せやけどわいにはこういう生きかたしかでけへんのや」のセリフは仁侠映画の中でも名セリフのひとつであろう。
親の危篤にも国に帰れない女郎の藤は、いざこざを起こしながらも自分を親の死に目に合わせてくれた鶴田に心を通わせる。
川辺でお礼にともってきた桃を渡すところなどは女の気持ちを表すシーンとして情感たっぷり。
木屋辰の代貸・菊地浅次郎は、女に惹かれながらもその女に会っていたばっかりに親分の死に目に会えなかったことを引け目に感じている。
軟弱な息子をかばいながら一家をきりもみする鶴田はまさしくスーパーマンなんだが、それがスーパーマンに見えないのは彼が控え目に控え目に行動するせいだろう。
松竹新喜劇の名優、藤山寛美が結構得な役回りで出ている。
木屋辰一家の二代目殺しを指図した張本人である唐沢組組長役の阿部徹が、これまた悪人役としてピッタリで、藤に対する横恋慕ぶりや木屋辰一家に対する仕打ちも、彼の顔立ちとあいまってまさしく悪役である。
この悪役がいるから、最後の殴り込みが生きてくる。
ラストの殴り込みシーンでは、逃げる安部徹だけを見据えて追いかける鶴田浩二の凄まじさに圧倒される。
たてまえに生きねばならぬ男と、その男への愛一筋に生きる女の物語であり、正統派仁侠映画のベスト・ワンと言っても過言でない日本映画らしい作品である。

無法松の一生 1958年版

2020-05-10 10:03:23 | 映画
「無法松の一生」 1958年 日本


監督 稲垣浩
出演 三船敏郎 高峰秀子 芥川比呂志
   飯田蝶子 笠智衆 田中春男
   多々良純 中村伸郎 宮口精二

ストーリー
明治三十年の初秋、九州小倉の古船場に博奕で故郷を追われていた人力車夫の富島松五郎(三船敏郎 )が、昔ながらの“無法松”で舞戻ってきた。
芝居小屋の木戸を突かれた腹いせに、同僚の熊吉(田中春男)とマス席でニンニクを炊いたりする暴れん坊も、仲裁の結城親分(笠智衆)にはさっぱりわびるという、竹を割ったような意気と侠気をもっていた。
日露戦争の勝利に沸きかえっている頃、松五郎は木から落ちて足を痛めた少年(松本薫)を救った。
それが縁で、少年の父吉岡大尉(芥川比呂志)の家に出入りするようになった。
酔えば美声で追分を唄う松五郎も、良子夫人(高峰秀子)の前では赤くなって声も出なかった。
大尉は雨天の演習での風邪が原因で急死し、残る母子は何かと松五郎を頼りにしていた。
松五郎は引込み勝ちな敏雄と一緒に運動会に出たり、鯉のぼりをあげたりして、なにかと彼を励げました。
世の中が明治から大正に変って、敏雄は小倉中学の四年になった。
すっかり成長した敏雄(笠原健司)は、他校の生徒と喧嘩をして母をハラハラさせたが松五郎を喜ばせた。
高校に入るため敏雄は小倉を去った。
松五郎はめっきり年をとり酒に親しむようになって、酔眼にうつる影は良子夫人の面影であった。
大正六年の祇園祭の日、敏雄は夏休みを利用して、本場の祇園太鼓をききたいという先生(土屋嘉男)を連れて小倉に帰って来た。
松五郎は自からバチを取ったが、彼の老いたる血はバチと共に躍った。
離れ行く敏雄への愛着、良子夫人への思慕、複雑な想いをこめて打つ太鼓の音は、聞く人々の心をうった。
数日後、松五郎は飄然と吉岡家を訪れ、物言わぬ松五郎のまなこには涙があふれていた。


寸評
富島松五郎は淋しい男である。
すさんだ生い立ちから暴れん坊になったが、吉岡一家の面倒を見るようになってから、人のために尽くす喜びを知り、人生の淋しさから解放される。
それは芝居小屋で人の迷惑を顧みずに暴れていた頃の松五郎とは別人のようである。
彼は我が子の様に可愛がっていた敏雄が離れていったことで、味わったことのないような淋しさを感じる。
それは実の母親である吉岡夫人が感じるものに近いものなのだが、やがてその淋しさを紛らわしていたのが吉岡夫人への秘めたる愛だったと気付く。
彼は自分を贔屓にしてくれた大尉に詫び、夫人には「俺の心は汚い」と言って去っていく。
松五郎は吉岡夫人に指一本触れていない。
そのプラトニックな愛は、清酒「富久娘」のポスターに面影を見ることで満たされている。
口に出せない愛がひしひしと伝わってくる。

松五郎の思いと、時の流れを乗せて人力車の車輪が舞う。
何度も登場するオーバーラップした車輪のシルエットは美しい。
この作品のムードを盛り上げることに十分すぎるぐらいの効果をもたらしていた。
敏雄の先生のために、いや敏雄が先生への顔を立つように、松五郎は祇園太鼓のバチをとる。
この映画一番の見どころである。
三船敏郎のバチさばきも素晴らしいものがあり、役者の精進の凄さを感じさせる。
松五郎は雪の中で過去の幻影を見ながら死んでいくが、降り注ぐ雪、敏雄の喧嘩場面、美しかった花々などが特殊処理されて画面を覆いつくす。
これまた美しいシーンだ。
そのなかで吉岡夫人の高峰秀子だけはしっかりと画面いっぱいに映し出される。
その情感の素晴らしさこそが日本映画だ。

松五郎が死んで結城親分が松五郎の荷物を整理している。
すると、松五郎が吉岡家から頂いた祝儀袋を大事にしまい込んでいることが判明する。
好いた女性にかかわりのあるものであれば、どんなものでも大事にしまい込んでおく恋心は僕にも思い当たるふしがあるもので涙を誘う。
吉岡夫人は松五郎の遺品と預金通帳を見て、初めて松五郎の気持ちを知り泣き崩れる。
もしかすると、吉岡夫人は松五郎が別れを言って泣きながら去っていったときに感じていたかもしれない。
松五郎の存命中に、彼の気持ちを知ったところで吉岡夫人は応えることはなかっただろう。
その気持ちもあっての最後の号泣だったと思う。
前半部分は人力車夫の富島松五郎と客との滑稽な様子が描かれたりして軽い感じの描き方だが、松五郎が祇園太鼓を叩く場面ぐらいから、内容的にも映像的にも輝きを増していく。
ラストに向かって一気に駆け上っていく脚本と演出が素晴らしい作品である。
ヴェネチア国際映画祭で金獅子賞を受賞したのもうなづける日本映画らしい作品だ。

無法松の一生 1943年版

2020-05-09 09:07:41 | 映画
「無法松の一生」 1943年 日本


演出 稲垣浩
出演 阪東妻三郎 月形龍之介 永田靖
   園井恵子 川村禾門 沢村晃夫
   杉狂児 山口勇 葛木香一

ストーリー
福岡県小倉(現在の北九州市)を舞台に、荒くれ者で評判だった人力車夫・富島松五郎(通称無法松)と、急病死した陸軍大尉・吉岡の遺族(未亡人・良子と幼い息子・敏雄)との交流を描く。
1943年10月28日公開。製作は大映。
全長は99分あったが、内務省による検閲で松五郎が未亡人に想いを打ち明けるシーンが、時局柄軍人の未亡人の恋愛は戦地の将兵の士気をくじくと考えられ10分カットされた。
しかしながら、却って映像化された生々しい場面を排除することが出来、松五郎の心情表現に含みを持たせることが可能となり、観客の共感を招くことになった。
この時検閲官は「本当はこれをカットするのは惜しい。あと何年かすれば戦争も終わるだろうからそれまで保留という扱いにしたらどうだろう」と言ったが会社側はカットしてでも公開しろという意向だったため、稲垣は泣く泣くフィルムをカットした(このシーンのフィルムは失われており、スチール写真のみが現存する)。
さらに戦後占領軍による検閲で封建的だとされ、吉岡敏雄が学芸会で唱歌「青葉の笛」を歌うシーンが8分カットされた。
なお、後者のカットされたシーンが宮川一夫の遺品の中から発見され、2007年9月28日にカットされたシーンが特典映像として収録されたDVDが角川エンタテインメントから発売された。
か弱い吉岡母子の将来を思い、(身分差による己の分をわきまえながらも)無私の献身を行う無法松と、幼少時は無法松を慕うも長じて齟齬が生じ無法松と距離を置いてしまう敏雄と、それでも無法松を見守り感謝の意を表し続けてきた良子との交流と運命的別離・悲しい大団円などが描かれている。
伊丹万作のキャリアの中でも屈指の名脚本を得て稲垣浩は叙情あふれる名編に仕上げている。
松五郎を演じた阪東妻三郎は初の現代劇であったが見事な名演。

松五郎こと無法松(阪東妻三郎)はトラブルを引き起こす暴れ者だが、どこか憎めない人力車夫。
ある日竹馬から落ちた少年・敏雄(沢村アキオ)を助けたことがきっかけで陸軍大尉の吉岡家へ出入りするようになるが……。


寸評
僕は後年に稲垣自身がリメイクした「無法松の一生」を先に見ている。
元版であるこちらは、無法松の吉岡夫人に対する松五郎の秘めた愛がカットされているのだが、それを想像させるような演出はなされているものの、やはり説明不足感からは逃れられない。
三船敏郎の松五郎が高峰秀子の吉岡夫人に寄せる慕情を見ていただけに、リメイク作品と比較してしまう無いものねだりで、身分の違いを感じながらも秘めた気持ちを抱く松五郎の姿に少し物足りなさを感じてしまう。
松五郎の思いを感じさせるシーンがあったりするし、預金通帳を見せる最後のシーンで松五郎の気持ちをそれとなく感じさせるのだが、やはりカットされてしまったシーンの比重は重かったのだと思ってしまうのだ。
確かに、自分が死ぬと、残された妻は別の男と恋愛沙汰に走るのだと言われれば、戦地に向かう兵士にとっては居たたまれないものがあるだろう。
太平洋戦争の真っただ中の時代で、明日の命が分からないような状況下では、内務省の検閲も理解できないわけではない。
それでも、カットされた尺があるために、松五郎がたった一度だけ泣いたことがあると敏雄に語る場面の回想シーンが相対的に長く感じてしまうので、カットはやはりマイナス面が大きい。
検閲でカットするような行為が行われるような時代は良くないのだ。

始まってすぐに人力車が画面の中央を走っていく。
その後ろ姿のショットは美しい。
その後にも何度か人力車の車輪が舞うシーンが登場するが、モノトーン画面の中にあって美しいシーンを映し出していて、宮川一夫の技量がいかんなく発揮されていた。
阪妻の松五郎は車夫の雰囲気がプンプンする男くささを出していて、リアルな阪妻は知らないが、なかなかいい役者だったのだなあと思わせるに十分な存在感だ。

見せ場はやはり松五郎が祇園太鼓を打ち鳴らす場面だ。
太鼓を打ち鳴らす短いカットが、流れるように画面に挿入され続け気分を高揚させる。
松の引く人力車の車輪がオーバーラップされ、その高揚感はさらに増していく。
この映画を格調高いものとしているいいシーンだ。
そんなシーンがあるかと思えば、敏雄が凧揚げの糸を絡ませて困っているのを見つけた松五郎が、人力車に乗せた客を待たせておいて敏雄の世話をやく時、後方で怒った客が飛び跳ねているという滑稽なシーンもあって、ドタバタ喜劇のような演出も見受けられるのである。
暗い時代だったと思うのだが、客席からは笑い声が沸き起こっただろうと想像させられる。
戦時中と言えば戦意高揚映画が多かったと思うのだが、このような作品も撮られていたのだと思うと感激ものだ。

カットを強要された稲垣浩が、怒りを込めて撮ったのが三船敏郎主演によるリメイク版「無法松の一生」なのだが、本作は稲垣浩の無念の思いが伝わってくる作品として見ると、映画の出来栄えとは別に、映画史の一面としての興味が湧いてくる作品でもある。

息子

2020-05-08 10:31:25 | 映画
「息子」 1991年 日本


監督 山田洋次
出演 三國連太郎 永瀬正敏 和久井映見
   田中隆三 原田美枝子 浅田美代子
   佐藤B作 いかりや長介 中村メイコ
   音無美紀子 奈良岡朋子 田中邦衛

ストーリー
東京・新宿の居酒屋でアルバイト生活を送る哲夫のもとへ、ある日、父・昭男から電話がかかってきた。
「母親の一周忌だから帰って来い」という昭男の言葉に重たげに受話器を置く哲夫。
数日後、浅野家の法事が行われている岩手の田舎にアロハシャツにジーンズ姿で駆け込む哲夫は、親族が集まる中で居心地悪そうに席につく。
その夜、久びさににぎわう浅野家では、東京でサラリーマン生活を送る長男・忠司夫婦が、昭男の今後の生活について心配し、そして翌日、それぞれに自分たちの生活に帰っていく子供たち。
そんな中でひとり居残る哲夫だったが、東京でのフラフラした生活を父にたしなめられ、お互いの心の溝を深めるばかりであった。
東京に戻った哲夫は、仕事を変えて下町の鉄工場で働くことになる。
肉体労働のきつい仕事に半ば諦めかけていた哲夫の前に、取引先の倉庫で働く征子という女性が現れ、それによって哲夫の仕事は意外に長続きするようになる。
しかし、哲夫と征子の間柄はいっこうに進展を見せず、毎日会っても微笑むばかりの征子にもどかしさを感じた哲夫は、その想いを手紙に書いて征子に渡す。
そんなある日、征子の先輩の女工から、彼女がろうあ者だと聞かされ衝撃を受けるのだった。
戦友会に出席する為に昭男は上京して、忠司が東京近郊に買ったばかりのマンションを訪れる。
忠司夫妻は昭男に、「このマンションで一緒に暮らそう」と言う。
そんな忠司の誘いをかたくなに断った昭男は、岩手への帰り際に哲夫のアパートを訪ねた。
そして哲夫は、「結婚したい女性がいる」と昭男に征子を紹介するのだった・・・。


寸評
母の一周忌で家族が集まる。どこにでもあるような風景で、一人きりになった父の今後が話題に上がるのも自然な流れだ。新築マンションを買った長男が引き取るような話が出るが、長男の嫁はそれとなくマンションの欠点を言って拒絶していて、帰りの車で長男と結婚するんじゃなかったと嫌味を言っている。
山田洋次らしく登場する人物に根っからの悪人はいない。それでも波風が立ってしまうのが浮世の常と言うもので、ここでは家族を中心とした諸問題が描かれる。
 法事に遅れてきた哲夫の格好を見て、長男の忠司は兄の立場として顔をしかめるが、長女のとし子や義姉の玲子はそんな哲夫をかばう。忠司は哲夫の就職先の面倒も見てやったが、哲夫は兄に無断でその会社を辞めてフリーターの様な生活だ。とし子とは気が合ったようだが、大学出の兄とは違って、出来の悪い自分に対する父の扱いに反撥する。哲夫が全くのダメ人間でないことを、姪達がなついていることでさりげなく描きながら、父親には長男夫婦に対する堅苦しさとは違った気安い言葉で哲夫を叱責させて、家族間の複雑な感情表現を試みていた。
さりげないやり取りの中にそんな家族関係を映し出した演出は流石と思わせる。
よくある家庭ドラマの導入部だが、ここでは老人問題、農村問題、農家の後継者問題などの社会問題にも触れられている。
 登場人物の紹介と、この一家の置かれた状況と問題を説明するような「その一、母の一周忌」から転じて「その二、息子の恋」では哲夫の征子に対する純愛が描かれる。
僕はここでは哲夫と征子の恋の行方より、私の学生時代のアルバイトを思い出していた。学生時代に行った初めてのアルバイトが運送会社の助手の仕事だったのだ。ペンキの一斗缶やセメント袋の荷下ろし作業で、哲夫同様に汗びっしょりになって、乾いたシャツから塩が吹いていた。それより辛かったのが運転席というあの狭い空間に一日中二人きりでいることで、映画で描かれたようなグチを一日中聞かされたこともあったし、とんでもない大暴れ者の運ちゃんに辟易したこともあった。残業時間は長く、時給も良かったので稼ぐことだけはできた。今となっては懐かしい思い出だ。
 「その一」と「その二」は一見独立した話のように思えたが、「その三、父の上京」が描かれることで、それらが見事につながりを見せてくる。
忠司は「父さんには狭い部屋でガマンしてもらうが、自分達もガマンするのだ」と言う。長男としての責任と妻や子との間に立つ辛さによるジレンマがにじみ出ていた。父親は忠司が公私共に辛い立場にいることも、玲子が良くはしてくれるが、受け入れがたい気持ちを持っていることも察している。
何かよそよそしかった長男宅から、寝る場所もないような哲夫の家に行くと、父親の生気は蘇る。出来の悪い息子を心配する父親の姿だ。父は征子を紹介され、彼女がろうあ者であることに驚くが心の底から祝福する。手話とファックスでやり取りする二人を見て心配するが、自分の生きがいも見出し喜ぶ。哲夫は父が決して上手くはない歌を唄うのをはじめて見る。それは父が不器用だが心底二人を祝福している姿だった。
 父は誰もいない家に帰ると、そこに出稼ぎ時代の帰宅時の幻想を見る。お土産を手に帰ると待ちわびていた家族がいた。今は迎える人はいない。お土産に持ち帰ったのは土間の片隅に置かれた自分自身のためのファクシミリだ。しかしそれは征子とのやり取りをする為のものであることは明らかで、父が新たな生きがいを見出したかのようでもあった。長女のとし子が状況前に言っていたように本当に寒い家だ。その寒い家を岩手の雪が覆い尽くし、それでも明日への生きる希望を見出したように家に灯りがともる。しかし、それでもこの老父の行く末が解決したわけでもなく、その後の空家問題が解決したわけでもない。日本は問題を抱えたままなのだ。

麦の穂をゆらす風

2020-05-07 07:44:57 | 映画
「麦の穂をゆらす風」 2006年 イギリス / アイルランド / ドイツ / イタリア / スペイン


監督 ケン・ローチ
出演 キリアン・マーフィ
   ポードリック・ディレーニー
   リーアム・カニンガム
   オーラ・フィッツジェラルド
   メアリー・オリオーダン
   メアリー・マーフィ

ストーリー
アイルランド、1920年。
イギリスの支配に対抗しようと、アイルランド独立を求める人々の動きは徐々に高まりを見せていた。
それに対してイギリスからは武装警察隊が送り込まれ、理不尽な暴力を人々に振るっていた。
ロンドンで病院の仕事が決まっていたデミアン(キリアン・マーフィー)だが、出発の当日、列車の運転士たちが、無理やり乗り込もうとするイギリス兵たちを断固として拒否した姿を見て戦いに加わる決心をした。
闘士たちのリーダー格はデミアンの兄・テディ(ポードリック・ディレーニー)だ。
敵に拷問を受けても仲間を裏切ろうとしないテディ、そして戦いの中で再会したあの列車の運転士ダン、闘志を貫く仲間たちの中でデミアンもまた、己の使命に目覚めていく。
ゲリラ戦は功を奏し、ついにイギリスは停戦を申し入れ喜ぶデミアンたち。
しかし講和条約は依然としてイギリスに都合のいいものだった。
アイルランドの中で条約に賛成する者と反対する者に分かれて対立が始まった。
それはやがてアイルランド人同志が戦う内戦へと向かってしまう。
条約に賛成する兄・テディは政府軍へ、完全な自由を求めて条約に反対する弟・デミアンは再びゲリラ活動へ。
その戦いの中でついにデミアンが政府軍に囚われてしまう。
テディは仲間の居場所と武器のありかを喋るようにデミアンを促すが、デミアンは断固として拒否するのだった。
テディはデミアンに処刑を告げざるを得ず、そして銃殺の時が来た。
崩れ落ちたデミアンの亡骸を抱きしめてテディは激しく泣きじゃくった。
テディがデミアンの妻・シネードに夫の死を告げにいく。
それを聞いたシネードは、もう二度と顔を見せるなと泣き叫び、テディを激しく撥ねつける。


寸評
映画はアイルランドの英国からの独立戦争やその後の内線を、主人公デミアンの個人的視線から描いていくのだが、いわゆる戦争映画としてではなく仲間同士で殺し合う悲劇を描いている。
したがって英国相手の派手な戦闘シーンなどは登場しない。
彼等はゲリラ戦士であることもあって、戦闘シーンはあくまでも局地戦で、英国の応援部隊を待ち伏せして壊滅させる場面でも、相手はジープ2台程度で戦闘は短時間で終わってしまう。

アイルランドの独立戦争は政治や民族や宗教などの地域戦争と違って、実際もそうだったのかもしれないが、アイルランド人の自衛戦争だったのだという描きかたで、ここではチェンバレンやチャーチルも悪人として名前が登場する。
仲間たちとスポーツを楽しんだというだけで集会を開いていると因縁をつけられ、言葉にアイルランド訛りがあるというだけで英国の治安部隊はアイルランド人たちを尋問し、そして暴行し、逮捕し、拷問し、処刑し、家屋を焼き払っていく様子もどちらかと言えばサラリと描いていたように思う。
主人公のデミアンが独立戦争に関わっていくのは当然に思えるために、そこに至る経緯も必要最低限に描かれていた。

しかし、同胞の中ら裏切り者が出て、処刑をせざるをえなくなるような事態の描写は悲痛であった。
密告した地主の方棒を担いだことになってしまったデミアンの幼なじみの少年は「彼の隣に埋めないでくれ」と言い残して射殺される。
顔見知りを処刑する苦しみとやるせなさは心を打つ。

やがて彼等を支持する勢力の台頭などでイギリスも停戦を余儀なくされるが、映画の中ではイギリスとの停戦合意や後の独立につながる条約締結といった出来事はあまり大きな盛り上がりを見せない。
むしろ停戦と条約の締結は、それまで一緒に戦ってきた仲間たちの中に大きな亀裂を生み、昨日までの仲間同士が互いに銃を向け合うという悲劇性に重点を置いていく。
究極として兄のテディと弟のデミアンの対立があり、テディは泣く泣くデミアンを処刑する。
前出の少年の処刑が、この処刑の伏線となっていて、デミアンの叫びは胸を打つ。

テディがイギリスよりになった経緯も全くと言っていいほど描かれていなくて、あくまでも仲間同士で殺し合う悲劇性だけを徹底して描いていたことは、もしかするとそれがアイルランド独立戦争の本質だったのかもしれないと思わせた。
彼ら兄弟の 悲劇は愚かだったから起こったことではない。
彼らは対立することが愚かしいことは十二分に判っていたが、彼らはあまりにも誠実な人間たちだったのだ。
主義主張のためではなく、人として正しい生き方を 選択したことが悲劇につながったのである。
それゆえに切ないのだが、それこそがこの映画の最大のポイントだったと思う。

ムーンライト

2020-05-06 07:40:38 | 映画
「ムーンライト」


監督 バリー・ジェンキンズ
出演 トレヴァンテ・ローズ
   アンドレ・ホランド
   ジャネール・モネイ
   アシュトン・サンダーズ
   ジャハール・ジェローム
   アレックス・ヒバート

ストーリー
内気な少年シャロンは、母ポーラと2人暮らしだったが、ポーラは麻薬中毒でほとんど育児放棄状態。
シャロンは、学校で “リトル”というあだ名でいじめられている内気な少年だ。
ある日、いつものようにいじめっ子たちに追われていたところを、麻薬ディーラーのフアンに助けられる。
何も話さないシャロンを、恋人のテレサの元に連れ帰るフアン。
その後も何かとシャロンを気にかけるようになり、やがてシャロンも心を開いていく。
ある日、海で“自分の道は自分で決めろよ。周りに決めさせるな”と生き方を教えてくれたフアンを、父親のように感じ始める。
家に帰っても行き場のないシャロンにとって、フアンと男友達のケヴィンだけが心を許せる唯一の“友達”だった。
やがて高校に進学したシャロンだったが、相変わらず学校でいじめられていた。
母親のポーラもまた麻薬に溺れ、酩酊状態の日が続く生活を続けている。
自宅に居場所を失くしたシャロンは、フアンとテレサの家へ向かう。
“うちのルールは愛と自信を持つこと”と、今までと変わらずにシャロンを迎えるテレサだった。
ある日、同級生に罵られ、大きなショックを受けたシャロンが夜の浜辺に向かったところ、ケヴィンが現れる。
シャロンは、密かにケヴィンに惹かれていた。
月明かりが輝く夜、2人は初めてお互いの心に触れることに……。
しかし翌日、学校である事件が起きてしまう。
その事件をきっかけに、シャロンは大きく変わっていた。
高校の時と違って体を鍛え上げた彼は、弱い自分から脱却して心身に鎧を纏っていた。
ある夜、突然ケヴィンから連絡が入る。
料理人としてダイナーで働いていたケヴィンは、シャロンに似た客がかけたある曲を耳にしてシャロンを思い出し、連絡してきたという。
あの頃のすべてを忘れようとしていたシャロンは、突然の電話に動揺を隠せない。
翌日、シャロンは複雑な想いを胸に、ケヴィンと再会するが……。


寸評
3部構成で、ながらまったく違和感のなシャロンを演じる役者もパートごとに違うのだが、それぞれのセリフや行動がうまくつながり違和感がない。
場所はマイアミだが、僕がイメージする太陽の光が降り注ぐマイアミではなく、登場人物も黒人ばかりである。
冒頭に登場するのは、麻薬ディーラーのフアンで、いじめっ子に追いかけられているシャロンに救いの手を差し伸べる。
彼がなぜシャロンを可愛がったのかは不明だが、フアンとシャロンの疑似親子的な交流だけで一本の映画が撮れそうな導入部だ。
しかしファンの庇護が少年シャロンの人生を上向かせることはない。
シャロンの置かれた状況はそんなに甘くはないのだ。
黒人差別もあるのか父親の居ないシャロンの家庭は貧困だ。
母親は麻薬に浸り、男に貢いでもらっているのか売春をやっているのか男出入りが激しい。
学校ではイジメにあっており、その原因がゲイにあるようだ。
母親はシャロンにゲイの気があることを感じているようだが、半ば育児放棄状態である。
人種差別、貧困、麻薬が取り巻く環境の中で、自身もマイノリティのゲイだ。
これでは簡単に救われないと理解できるのだが、僕を含む多くの日本人にとっては想像できない環境下で生きている。
このパートではカメラをぶんぶん回したり、極端なアップにしたり、わざとピントをぼかすなどして、セリフを抑えながら登場人物の心理を繊細に切り取っていて、カメラワークが印象に残る第一部となっている。

第2部は衝撃的である。
愛するケヴィンを一途に想い続けるピュアなラブストーリーを見せたかと思うと、激しすぎる愛情表現を見せる。
母親のポーラはケビンが「人生で最も必要な時に必要なものを得られなかった」と語っているのだが、その必要なものとは愛に他ならない。
シャロンはここで愛する人のために自分を犠牲にして愛する人を救う。
彼は罪を償うことになるが、それは愛する人を支配者から解放するために犯した罪だったのだ。
高校生活最後の行動は決して自分の怒りの爆発というだけのものではなかったのだと思う。
そこで見せた凶暴性を秘めて第3部では成人したシャロンが登場する。
時間をすっ飛ばしていく構成なので、その間の生活と変化は想像するしかない。
まともな人生を歩めた可能性を想像することは困難で、実際にシャロンは金を稼げる仕事として麻薬の密売をしている。
自分や母親を破滅させた麻薬を売るしか生きるすべがないという状況が痛々しい。

この映画のラストシーンはあっけないぐらいに短いものの余韻を残すシーンとなっている。
シャロンは肩ひじを張って成り上がってきたのだろうが、ようやく自分に素直になれた瞬間だったように思う。
しかし、人種差別、貧困、ドラッグ、同性愛のどれもが僕の周りでは見かけないものなので、単純に感情移入することが出来なかった作品でもある。

ムーラン・ルージュ

2020-05-05 09:38:53 | 映画
「む」です。

「ムーラン・ルージュ」 2001年 アメリカ


監督 バズ・ラーマン
出演 ニコール・キッドマン
   ユアン・マクレガー
   ジョン・レグイザモ
   ジム・ブロードベント
   リチャード・ロクスバーグ
   ギャリー・マクドナルド

ストーリー
パリ、1900年。作家を目指してモンマルトルにやってきた青年クリスチャン(ユアン・マクレガー)は、ショーの台本を代理で担当することになったナイトクラブ=ムーラン・ルージュの高級娼婦サティーン(ニコール・キッドマン)に恋をする。
女優になるためにパトロンを探していたサティーンは、クリスチャンを公爵だと勘違いしてベッドに誘い込もうとするが、詩を口ずさむ彼に本気で恋してしまう。
クリスチャンが貧乏作家だと知っても、もはや恋の炎は消えなかった。
作家と女優の関係を装いつつ愛し合う二人だったが、ムーラン・ルージュのオーナーのジドラー(ジム・ブロードベント)にキスの現場を見られてしまい、サティーンは資産家の公爵(リチャード・ロクスボロウ)のもとへ行くように命じられる。
やがて公爵がクリスチャンに激怒。
さらに結核で自分の死期が近いことを知ったサティーンは、クリスチャンと別れることを決意する。
しかしムーラン・ルージュの舞台で芝居と現実がシンクロしていく中、二人の愛は再び燃え上がった。
まもなくサティーンは亡くなり、クリスチャンは心から愛した女の物語をタイプライターで書きはじめるのだった。   


寸評
豪華絢爛なセットと衣装に加えて映像処理も派手なものだから自然と楽しくなってくる作品だ。
スクリーンに映し出された劇場の幕が開くと「20世紀フォックス」のマークが出てくるという演出もイキなものだ。
吹き替えなしで歌っているニコール・キッドマン、ユアン・マクレガーがミュージカル・スター並みの歌唱を聞かせてくれ、ニコール・キッドマンてこんなに歌が上手だったんだと新発見。
映画は前半を快調に飛ばしていく。
踊り子の絵で有名な画家ロートレックが登場して映画の雰囲気作りを行う。
ロートレックはムーラン・ルージュやそこいらに居る娼婦を愛したことでも有名だから恰好の登場人物である。
サティーンとクリスチャンがいい雰囲気になったところへパトロンの公爵が入って来て、サティーンが必死でクリスチャンを隠す場面などは滑稽なシーンとなっており、その喜劇的な雰囲気も楽しい。
やがてサティーンとクリスチャンが愛し合うようになるのは自然な流れで楽曲も盛り上がっていく。

聞いたことのある楽曲をダンスナンバーにして群舞が繰り広げられて、ミュージカル映画が好きな人は存分に楽しめるシーンが続くが、安直に思われるのはサティーンが不治の病に侵されるという展開だ。
ムーラン・ルージュのオーナーのジドラーの懇願で、愛するクリスチャンが居ながら気の進まない公爵との関係を結ばねばならないサティーンの苦悩がもう少し上手く描けていたらとも思う。
それらを工夫していれば、演じられている舞台と現実のサティーンとクリスチャンの愛のシンクロがもっと盛り上がったように思う。
しかしこの映画の雰囲気は彼らの悲恋に感情移入して見る映画ではなく、むしろ全体を見ながら感じる映画になっていると思う。
そう思えば欠点と思ったことがそうではなくなるようにも思えてくる。

オリジナルではない既存の楽曲を上手く取り込んでいるのもこのミュージカル映画の特徴となっている。
順不同で思い出すだけでもかなりの数になる。
"The Sound of Music" (ジュリー・アンドリュース 『サウンド・オブ・ミュージック』)
"Like a Virgin"  (マドンナ)
"All You Need Is Love"  (ビートルズ)
"Your Song"  (エルトン・ジョン)
"Diamonds Are a Girl's Best Friend" (マリリン・モンロー 『紳士は金髪がお好き』)
"The Show Must Go On" (クイーン)
"I Will Always Love You"  (ホイットニー・ヒューストン)
などだが、その他にもナット・キング・コール、デヴィッド・ボウイ、キッス、ポール・マッカートニーをはじめ多くの歌手の楽曲が盛り込まれている。
洋楽ファンならそれだけでも楽しめるだろう。
反面、多くのミュージカル映画には代表的なナンバーがあるものだがこの映画にはそれはない。
それにしてもニコール・キッドマンて綺麗な人だなあ・・・

ミリオンダラー・ベイビー

2020-05-04 08:28:09 | 映画
「ミリオンダラー・ベイビー」 2004年 アメリカ


監督 クリント・イーストウッド
出演 クリント・イーストウッド
   ヒラリー・スワンク
   モーガン・フリーマン
   アンソニー・マッキー
   ジェイ・バルシェル
   マイク・コルター
   
ストーリー
「自分を守れ」が信条の老トレーナー、フランキー(クリント・イーストウッド)は、23年来の付き合いとなる雑用係のスクラップ(モーガン・フリーマン)と、昔ながらのジム、ヒット・ピットでボクサーを育成している。
トレーナーとしての実力はあるが、育てた若者は欲を求めて彼の元を去って行く。
有望株のウィリー(マイク・コルター)も、教え子を大事に思う余りタイトル戦を先延ばしにするフランキーにしびれを切らし、別のマネージャーの下へと去ってゆく。
そんな折、トレーラー育ちの不遇な人生から抜け出そうと、自分のボクシングの才能を頼りに31歳のマギー(ヒラリー・スワンク)がロサンゼルスにやってきた。
彼女は、ボクシング・ジムを経営するフランキーに弟子入りを志願するが、女性ボクサーは取らないと主張するフランキーにすげなく追い返される。
だがこれが最後のチャンスだと知るマギーは、ウェイトレスの仕事をかけもちしながら、残りの時間をすべて練習に費やしていた。
そんな彼女の真剣さに打たれ、ついにトレーナーを引き受けるフランキー。
彼の指導のもと、めきめきと腕を上げたマギーは、試合で連覇を重ね、瞬く間にチャンピオンの座を狙うまでに成長した。
同時に、実娘に何通手紙を出しても送り返されてしまうフランキーと、家族の愛に恵まれないマギーの間には、師弟関係を超えた深い絆が芽生えていく。
そしていよいよ、百万ドルのファイトマネーを賭けたタイトル・マッチの日がやってきた。
対戦相手は、汚い手を使うことで知られるドイツ人ボクサーの”青い熊“ビリー(ルシア・ライカー)。
試合はマギーの優勢で進んだが、ビリーの不意の反則攻撃により倒され、マギーは全身麻痺になってしまう。


寸評
クリント・イーストウッドは切ない映画が好きだなと感じた。
努力は必ず報われて、頑張るものはいつか栄光を掴み取るといったアメリカン・ドリームの世界はここにはない。
映画は「ロッキー」に見られるような息詰まるファイティング・シーンで女性ボクシングを見せるわけではない。
かと言ってボクシングのトレーナーと選手がやがて心を開いて恋愛感情が生まれるというラブロマンス映画でもない。
見方によれば、映画は盛り上がりに欠けたまま終ってしまうと言えなくもない。
ただ挿入的に描かれるフランキーやマギーの背負っている現実が映画に深みを持たせていて、かえってその淡々とした盛り上がりのなさが、せつなさとなって胸を突いてきた。

本作は極限状態での本当の愛情の意味を観客に問う映画だったと思う。
イーストウッドの演出は、おそらくそのことは世の中では当然なことなのだが、世の中の物事や人間を善と悪にくっきりと分けて描くようなことはしていない。
その演出には説得力がある。
スポ根ネタが見事な人間ドラマになっているのは繊細な心理描写ゆえで、老トレーナー、女性ボクサー、そして老トレーナーをサポートする元ボクサーという3人の心理がキッチリと描かれている。
特に、老トレーナー・フランキーの疎遠になっている娘に対する心理が、実に良く描かれている。
フランキーには疎遠になった娘がいるらしく、出し続けている手紙はいつも帰ってくる。
マギーも「自分の弟は刑務所暮らし、妹は生活保護を受け、父は死に、母親はブタでどうしようもない」ことを叫んだりする。
つらい人生を歩んでいる事がわかるし、それでも二人は夢を描いて生きている事もわかる。
だから愛に飢えたマギーがフランキーには素直になる姿がいじらしく見える。
お金を貯めたら家を買えというアドバイスにも素直に従う。
しかしその気持ちも、彼女の肉親達から愛のない現実的な関係を見せ付けられることで傷ついてしまう。
なんだか暗くて、陰湿な映画のような感じがするけれど、マギーがフランキーのボクシングを通じた愛を得て輝いていくことで、幸せ感がじわじわと心に染みてくる。
まるでボディーブローがボクサーに効いていくように。

最後の最後まで人生のはかなさを描き出して、マギーのたった一つの願いを叶えようとするフランキーの姿は切々たるものがあった。
アカデミー賞の監督賞と主演女優賞と助演男優賞を受賞し、作品賞も受賞したけれど、ボクは作品賞としては疑問をもつ。
作品の出来は文句はないけれど、何だか悲しすぎる映画でもう少し救いが欲しかったなと感じた。
もっとも、アカデミー賞の評価がすべてではないけれど。
でもボクはイーストウッドの映画は好きだな。
前作同様、クリント・イーストウッド自信が音楽を手がけていて、多分ピアノ演奏も彼自身がしていると思う。
映画の内容が内容なだけに変なところで歓びを感じてしまった。

宮本武蔵 一乗寺の決斗

2020-05-03 10:44:13 | 映画
「宮本武蔵 一乗寺の決斗」 1964年 日本


監督 内田吐夢
出演 中村錦之助 入江若葉 木村功
   浪花千栄子 竹内満 丘さとみ
   江原真二郎 平幹二朗 河原崎長一郎
   香川良介 佐藤慶 高倉健

ストーリー
蓮台寺野で武蔵に左肩を粉砕された吉岡清十郎は、戸板に乗せられて道場に戻ろうというところ、佐々木小次郎に挑発されて自らの左腕を切断し、歩いて戻ることで名門の誇りを保とうとする。
しかし、道場に戻った清十郎は、傷が癒えるや弟の伝七郎に家督を譲り、愛弟子の林吉次郎を伴って失踪してしまった。
一方、蓮台寺野から立ち去ろうとする宮本武蔵は、当代一流の文化人・本阿弥光悦とその母・妙秀に出会い、彼の家に身を寄せることになる。
武蔵は光悦から祇園詣でに誘われ困惑するが、それが復讐に燃える吉岡一門の追撃をかわすための光悦の心遣いと知った武蔵は、伝七郎の挑戦状を受け取ると約束の刻限まで光悦に従うことにする。
祇園の宴席を中座し、洛中・三十三間堂で伝七郎を斬り捨てる武蔵。
その彼の張り詰めた心境を案じた祇園の名妓・吉野太夫は、武蔵の前で愛用の琵琶を破壊してみせ、武蔵に真の強さとは敵を威圧する暴力のみには宿らないということを諭す。
武蔵は、自分を慕ってついてきた城太郎に永久の別れを告げると、単身吉岡一門の包囲網に立ち向かう
が、その張り詰めた空気は、突如現われた小次郎によって緩和される。
小次郎は日を改めての決闘を両者に提案するのだった。
吉岡道場の高弟である植田良平は、吉岡の親類である壬生源左衛門に頼み、源左衛門が可愛がる孫の源治郎を吉岡の名目人に迎えて吉岡と壬生の連合軍を結成、大人数で武蔵を抹殺する計画を立てる。
決戦の地・一乗寺で武蔵は奇襲をかけ、混乱する本陣に乗り込んだ武蔵は、源治郎を敵総大将と看做し、彼を守ろうとする源左衛門もろとも突き殺してしまう。
子供を切り捨てた武蔵は僧侶達から鬼よ悪魔よと罵られる。
武蔵は、自己の正当性を訴えるのだが、その叫びはただ虚しく響くだけだった。


寸評
第四話とあって、これまでのあらすじがイラストと今まで描かれたシーンのストップモーション画像で語られる。
要領を得た語りで今回登場しないお甲も紹介されて、これまでの出来事を思い出させる役目を果たしていた。

前置き的な話はあるが、先ずは武蔵と吉岡一門の第二戦目となる吉岡伝七郎との決闘が描かれる。
決斗の場所は三十三間堂で、待ち受ける伝七郎に対し、武蔵は三十三間堂の長い縁側廊下の端から現れる。
何とも恰好のいい現れ方で、勝負は一瞬のうちに決してしまう。
勝負の趨勢は兄の清十郎がお前の腕では負けると言っていたぐらいだから当然の結果だ。
その後は復讐心に加え道場の名誉と存続をかけて武蔵を討とうとする吉岡一門と武蔵の攻防が描かれる。
攻防と言っても実際の対決は行われず、策をめぐらす吉岡道場の面々の様子が描かれるだけだ。

武蔵はその間、あちこちに世話になりながら京に滞在しているが、補足的に武蔵を取り巻く人々の話が盛り込まれるという描き方が続く。
城太郎の父である青木丹左衛門が再び登場し、一方的であるが親子の対面を果たす。
お杉婆が息子の又八を気にかけるのと対をなしていて、親が子を思う気持ちを描いている。
武蔵は緊張を切らすことがなく、その危うさを吉野太夫から諭される。
まだまだ人に食って掛かるところのある武蔵だが、吉野太夫の意見に首を垂れる。
吉野太夫の語りは結構長く感じるが、そんなシーンが盛り込まれていることで、このシリーズを単なるチャンバラ映画から一段高い作品に押し上げているのだと思う。

シリーズ中でも本作が出色の出来である。
それは本作が一乗寺下り松での決斗場面を有しているからだ。
そう思わせるほどこの73対1の決斗場面は躍動している。
決斗の時間帯が早朝ということもあって画面はモノトーン調になる。
先乗りして作戦を立てていた武蔵が締めた白い鉢巻きがモノトーン画面だけにくっきりと浮かぶ。
名目人の源治郎を目指して武蔵が裏山を駆け下りてきて死闘が始まる。
武蔵は彼を守ろうとする源左衛門もろとも源治郎一気に突き殺す。
そこからはあぜ道を走り回り、水を張った田んぼの中を這いずり回って敵を斬りまくる。
小次郎は武蔵の勝ちを確信し、武蔵を倒すのは自分の剣しかないとつぶやくが、決して武蔵の楽勝と言う戦いではなく、武蔵も生死をかけた必死の戦いを行っている。
闘いが終わって武蔵が逃げおおせると、画面は一転鮮やかなカラー画面となり、真っ赤に染められたシダの上に武蔵が倒れ込んでいる。
内田吐夢がこのシリーズでそれぞれの最後に見せている演出方法だ。
武蔵は子供を斬った事で叡山に逃れ観音像を彫っているが、慈悲のなさを責められ追われることになる。
それでも自分は兵法者として正しい戦い方を行ったのだと叫ぶが、最後に叫ぶのも毎回のパターンとなってきたようだ。

ミッドナイト・イン・パリ

2020-05-02 10:34:53 | 映画
「ミッドナイト・イン・パリ」 2011年 スペイン / アメリカ


監督 ウディ・アレン
出演 キャシー・ベイツ
   エイドリアン・ブロディ
   カーラ・ブルーニ
   マリオン・コティヤール
   レイチェル・マクアダムス
   マイケル・シーン
   
ストーリー
ハリウッドの売れっ子脚本家ギル(オーウェン・ウィルソン)は、婚約者イネズ(レイチェル・マクアダムス)とともに愛するパリを訪れたが、ワンパターンの娯楽映画のシナリオ執筆に虚しさを覚えているギルは、作家への転身を夢見て、ノスタルジー・ショップで働く男を主人公にした処女小説に挑戦中の身であった。
パリへの移住を夢見ていたが、お嬢様育ちで現実主義者のイネズは、安定したリッチな生活を譲らない。
そんな2人の前に、イネズの男友達で博学のポール(マイケル・シーン)が登場。
イネズと水入らずでパリを満喫しようとしていたギルにとって、彼は邪魔者でしかなかった。
一人で真夜中のパリを歩いていたギルは、道に迷って物思いにふけっていると時計台が午前0時の鐘を鳴らし、旧式の黄色いプジョーがやって来て、その車に乗り込んだギルは、社交クラブで開かれているパーティに参加。
そこで出会ったのはスコット・フィッツジェラルド夫妻(トム・ヒドルストン、アリソン・ピル)に、ピアノを弾くコール・ポーター(イヴ・エック)で、パーティの主催者はジャン・コクトーだった。
1920年代のパリに迷い込んだギルは翌晩、ヘミングウェイに連れられてガートルード・スタイン(キャシー・ベイツ)のサロンを訪問。
そこでガートルードと絵画論を戦わせていたパブロ・ピカソ(マルシャル・ディ・フォンソ・ボー)の愛人アドリアナ(マリオン・コティヤール)と出会い、互いに好意を抱く。
真夜中のパリをアドリアナと2人で散歩し、夢のようなひと時に浸るのだったが・・・。


寸評
映し出されるパリの街の様々な様子を眺めているだけで、ながれる音楽を聴いているだけで、登場する人物に思いをはせるだけで楽しくなってくる作品だ。
しかしながら話は単純で、いつの時代も昔は良かったと過去にあこがれ、現実は大変でもそれに向かい合って行かないといけないというテーマに向かって、過去の多くの芸術家達が登場するだけの話。
そのテーマを二重のタイムスリップでさりげなく描いたところが成功の要因だったと思う。
これがなければ単純なラブコメディで終わっていただろう。
ラストでお互いを名乗り合うシーンでは、ふとピーター・イエーツの「ジョンとメリー」を思い起こした。

時代を飾った百花繚乱の天才たちとのおしゃれでアナーキーな会話は、ユーモアと遊び心が満載で楽しめる。
主人公のギルは、コンプレックスを抱えたインテリでアレンの分身キャラと思われるが、彼を救うのはさらにインテリぶってるポールの存在で、実際に聞いたピカソとガートルード・スタインの会話をもとにポールをやり込めるくだりが知ったかぶりする薄っぺらなインテリを糾弾していて面白い。
1920年代に迷い込んだギルは最初にピアノを弾きながら歌うコール・ポーターと出会い、彼の音楽がもとでパリ女性と知り合いになるくだりが自然でいい。

それにしても多くの芸術家たちがそこかしこに登場してくる。
知識不足の僕は初めて聞く名の人もいて、この作品で見識を広めることとなった。
コール・ポーターは米国の作曲家・作詞家らしいが、案外とパリの街に似合う音楽を書いていると思った。
フィッツジェラルドは「華麗なるギャッツビー」の原作者として知っているだけで、その偉大さは知らなかった。
ガートルード・スタインというオバサンは米国の著作家、詩人、美術収集家ということで、実際にパリで画家や詩人たちが集うサロンを開いていたらしい。
道理でマチスの絵を買う場面や、ピカソとの絵画談義があったわけだ。
ジューナ・バーンズに至ってはその作品すら知らない。
ルイス・ブニュエルと現れるマン・レイは著名な画家、彫刻家、写真家らしい。

タイムスリップ物語の常として、その後を知る主人公が過去の人間にとる行動もさりげなく描かれる。
ギルが蚤の市で発見したアドリアの手記を訳してもらい、気を引くためのイヤリングを手配するくだりも可笑しいし、ブニュエルに映画のヒントを残すのもくすぐられる。
ブニュエルはダリと共に「アンダルシアの犬」を撮り、シュールレアリスト達に称賛された監督である。
僕は「小間使の日記」「昼顔」でその作品に感銘を受けた。
二重のタイムスリップでロートレック、ゴーギャン、ドガが登場するのも楽しいし、いつの時代にも天才はいるものだと思うと同時に、才能のない平凡な僕は彼等の交流を羨ましく感じた。

ギルでなくてもパリはいいと思わせるし、夜のパリがあのような雰囲気なら、僕は旅行で訪れたとしても一睡もしないでさまようだろう。
余談だが、美術館のガイド役をやったカーラ・ブルーニはフランスの元大統領サルコジ氏夫人である。